Sanshirō - Chapter 11

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このごろ与次郎与次郎よじろう Yojirō (name)学校学校がっこう school文芸協会文芸ぶんげい協会きょうかい Literary Society切符切符きっぷ tickets売ってって sell回ってまわって circulate; make the roundsいる。二、三日三日さんにち several daysかかって、知ったった know; be acquainted withもの personsへはほぼ売りつけた様子様子ようす situation; state of affairsである。与次郎はそれから知らない者をつかまえることにした。たいていは廊下廊下ろうか hallwayでつかまえる。するとなかなか放さないはなさない not let go of; not let escape。どうかこうか、買わせてわせて force a sale; push (someone) to buyしまう。時にはときには at times; on occasion談判中に談判中だんぱんちゅうに in the middle of (his) pitchベルベル bell鳴ってって ring; sound取り逃すにがす fail to catch; let get awayこともある。与次郎はこれを時利あらずときあらず thwarted by time (refers to writing of the Chinese philosopher Mencius)号してごうして announce; declare (as)いる。時には相手相手あいて the other party笑ってわらって smile; grinいて、いつまでも要領を得ない要領ようりょうない prove elusive; be noncommittalことがある。与次郎はこれを人利あらずひとあらず thwarted by character (refers to writing of the Chinese philosopher Mencius)と号している。ある時便所便所べんじょ toilet; washroomから出て来たた came out; emerged (from)教授教授きょうじゅ professorをつかまえた。その教授はハンケチハンケチ handkerchief handsをふきながら、今ちょっといまちょっと just a moment言ったままったまま having said急いでいそいで in haste図書館図書館としょかん libraryへはいってしまった。それぎりけっして出て来ないない did not come out。与次郎はこれを――なんとも号しなかった。後影後影うしろかげ retreating form; receding figure見送って見送みおくって see off; watch walk away、あれは腸カタルちょうカタル enteritis (inflammation of the intestine - often accompanied by diarrhea)に違いないちがいない without doubt ...三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)教えておしえて informくれた。

与次郎に切符の販売方販売方はんばいかた method of selling; manner of selling何枚何枚なんまい how many (tickets)頼まれたたのまれた be asked; be requestedのかと聞くく ask; inquireと、何枚でも売れるだけれるだけ as many as (one) can sell頼まれたのだと言う。あまり売れすぎて演芸場演芸場えんげいじょう performance venueはいりきれないはいりきれない can't fit into恐れおそれ fear; concernはないかと聞くと、少しすこし a little; a bitはあると言う。それでは売ったあとで困るこまる be in trouble; be in a bindだろうと念をおすねんをおす follow up with; call attention toと、なに大丈夫大丈夫だいじょうぶ okay; alrightだ、なかには義理義理ぎり obligationで買う者もあるし、事故事故じこ accident; mishapで来ないのもあるし、それから腸カタルも少しはできるだろうと言って、すましているすましている be unconcerned

与次郎が切符を売るところを見てて look at; watchいると、引きかえにきかえに in exchange for; at the point of transactionかね money渡すわたす hand over者からはむろん即座に即座そくざに immediately; on the spot受け取るる take; receiveが、そうでない学生学生がくせい studentsにはただ切符だけ渡している。気の小さいちいさい timid; faint-hearted三四郎が見ると、心配心配しんぱい worry; concernになるくらい渡して歩くあるく walk (away); move on。あとから思うとおりおもうとおり as imagined; as expectedお金が寄るる come togetherかと聞いてみると、むろん寄らないというこたえ answer; responseだ。几帳面に几帳面きちょうめんに meticulously; rigorouslyわずか売るよりも、だらしなくたくさん売るほうが、大体のうえにおいて大体だいたいのうえにおいて for the most part; in general利益利益りえき to one's benefit; advantageousだからこうすると言っている。与次郎はこれをタイムス社タイムスしゃ London Times (company)日本日本にほん Japan百科全書百科全書ひゃっかぜんしょ encyclopedia (Encyclopedia Britannica)を売った方法方法ほうほう method比較して比較ひかくして compare (to)いる。比較だけはりっぱに聞こえたが、三四郎はなんだか心もとなくこころもとなく untrustworthy; unreliable思った。そこで一応一応いちおう once; for what it's worth与次郎に注意した注意ちゅういした cautioned時に、与次郎の返事返事へんじ responseはおもしろかった。

相手相手あいて the other party東京東京とうきょう Tōkyō帝国大学帝国ていこく大学だいがく Imperial University学生学生がくせい studentsだよ」

「いくら学生だって、きみ youのように金にかけるとかねにかけると when it comes to moneyのん気のん careless; loose (with something)なのが多いおおい numerous; the large part (of)だろう」

「なに善意に善意ぜんいに in good faith払わないはらわない don't payのは、文芸協会文芸ぶんげい協会きょうかい Literary Societyのほうでもやかましくは言わないやかましくはわない won't raise a fussはずだ。どうせいくら切符切符きっぷ tickets売れたれた sell; be soldって、とどのつまりとどのつまり in the end; after all is said and doneは協会の借金借金しゃっきん deficit; financial shortfallになることは明らかあきらか plain; clear; evidentだから」

三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)念のためねんのため for good measure、それは君の意見意見いけん opinion; position; point of viewか、協会の意見かとただしてみた。与次郎与次郎よじろう Yojirō (name)は、むろんぼくの意見であって、協会の意見であるとつごうのいいことを答えたこたえた answered; responded (with)

与次郎のせつ opinion; view聞くく listen to; hear outと、今度今度こんど this time演芸会演芸会えんげいかい performance; show見ないない not see; not attendもの personsは、まるでばかのような feelingがする。ばかのような気がするまで与次郎は講釈講釈こうしゃく lecture; expositionをする。それが切符を売るためだか、じっさい演芸会を信仰して信仰しんこうして believe inいるためだか、あるいはただ自分の自分じぶんの one's own景気景気けいき spirit; verve; passionをつけて、かねて相手の景気をつけ、次いではいでは subsequently; while at it演芸会の景気をつけて、世上世上せじょう the world一般一般いっぱん in general空気空気くうき atmosphere; moodをできるだけにぎやかにするためだか、そこのところがちょっと明晰に明晰めいせきに clearly; distinctly区別が立たない区別くべつたない cannot be determinedものだから、相手はばかのような気がするにもかかわらず、あまり与次郎の感化感化かんか influenceこうむらないこうむらない not receive; not fall subject to

与次郎は第一に第一だいいちに first off; first of all会員会員かいいん member練習練習れんしゅう practice; rehearsal骨を折ってほねって make an effort; exert oneselfいるはなし discussion; descriptionをする。話どおりに聞いていると、会員の多数多数たすう great number; majorityは、練習の結果結果けっか resultとして、当日前に当日前とうじつぜんに before the day in question; before the big day役に立たなくなりそうだやくたなくなりそうだ are likely already spent; are unlikely to be of any more use。それから背景背景はいけい background; backdropの話をする。その背景が大したものたいしたもの something special; quite the thingで、東京にいる有為の有為ゆういの capable; talented青年画家青年せいねん画家がっか young artistsをことごとく引き上げてげて pull together; round up、ことごとく応分の応分おうぶんの respective技倆技倆ぎりょう abilities; skills振るわしたるわした let exercise; gave free reign to wieldようなことになる。つぎ next服装服装ふくそう wardrobe; costumesの話をする。その服装があたま headからあし feetさき tip ofまで故実故実こじつ ancient mannerずくめずくめ all in ...; fully ...でき上がってできがって be done (in)いる。次に脚本脚本きゃくほん script; storyの話をする。それが、みんな新作新作しんさく new workで、みんなおもしろい。そのほかいくらでもある。

与次郎与次郎よじろう Yojirō (name)広田先生広田ひろた先生せんせい Professor Hirota原口原口はらぐち Haraguchi (name)さんに招待券招待券しょうたいけん complimentary ticket送ったおくった sent言ってって say; reportいる。野々宮野々宮ののみや Nonomiya (name)兄妹兄妹きょうだい brother and sister里見里見さとみ Satomi (Mineko's family name)兄妹には上等上等じょうとう first class; premium切符切符きっぷ tickets買わせたわせた forced a sale; pushed (someone) to buyと言っている。万事万事ばんじ all; everything好都合好都合こうつごう favorable; in good shapeだと言っている。三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)は与次郎のために演芸会演芸会えんげいかい performance; show万歳万歳ばんざい good luck with; success to唱えたとなえた voiced; expressed

万歳を唱えるばん evening; night、与次郎が三四郎の下宿下宿げしゅく lodgings来たた came (to); appeared (at)昼間昼間ひるま daytimeとはうって変っているかわっている be changed; be different堅くなってかたくなって (become) stiff; rigid火鉢火鉢ひばち hibachi; brazierのそばへすわって寒いさむい cold; freezing寒いと言う。そのかお face; facial expressionがただ寒いのではないらしい。はじめは火鉢へ乗りかかるりかかる lean over; press in onように手をかざしてをかざして hold one's hands outいたが、やがて懐手懐手ふところで hands pressed into pocketsになった。三四郎は与次郎の顔を陽気陽気ようき vivacity; brightnessにするために、つくえ deskうえ top ofランプランプ (oil) lampはじ edgeから端へ移したうつした moved; shifted。ところが与次郎はあご jawがっくりがっくり dejectedly落しておとして dropped; let fall大きなおおきな large坊主頭坊主ぼうずあたま closely-cropped headだけを黒くくろく darkly灯に照らしてらして turn toward the lightいる。いっこうさえないさえない not perk up; not come around。どうかしたかと聞いたいた askedとき time; momentに、首をあげてくびをあげて raise one's headランプを見たた looked at; gazed at

「このうち house; residenceではまだ電気電気でんき electricity引かないかない not (yet) lay or draw (electric cables)のか」と顔つきにはまったく縁のないえんのない having no connection; unrelatedことを聞いた。

「まだ引かない。そのうち電気にするつもりだそうだ。ランプは暗くてくらくて dark; dimいかんね」と答えていると、急にきゅうに suddenly、ランプのことは忘れたわすれた forgot aboutとみえて、

「おい、小川小川おがわ Ogawa (Sanshirō's family name)、たいへんなこと matter; affair; incidentができてしまった」と言いだした。

一応一応いちおう once; for what it's worth理由理由わけ situation; circumstancesを聞いてみる。与次郎は懐から皺だらけしわだらけ wrinkled; full of wrinkles新聞新聞しんぶん newspaper出したした took out; produced二枚二枚にまい two (layers)重なってかさなって stack; pileいる。その一枚一枚いちまい one (layer)をはがして、新しくあたらしく newly; freshly畳み直してたたなおして refold、ここを読んでんで readみろと差しつけたしつけた pointed at; indicated。読むところを指の頭ゆびあたま fingertip押えておさえて press down; hold downいる。三四郎は eyeをランプのそばへ寄せたせた drew nearer (to)見出し見出みだし headline大学大学だいがく university純文科純文科じゅんぶんか department of literatureとある。

大学の外国文学科外国がいこく文学科ぶんがくか foreign literature department従来従来じゅうらい traditionally; up to now西洋人西洋人せいようじん Westernerの担当で担当たんとうで under the charge of ...当事者当事者とうじしゃ the parties concernedはいっさいの授業授業じゅぎょう lessons; instruction外国教師外国がいこく教師きょうし foreign instructors依頼して依頼いらいして entrust toいたが、時勢時勢じせい spirit of the times進歩進歩しんぽ progression; development多数多数たすう great number of学生学生がくせい students希望希望きぼう wishes; desire促されてうながされて prompted; pressed (by)今度今度こんど now; at this timeいよいよ本邦人本邦人ほんぽうじん native son (of Japan)講義講義こうぎ lectures必須課目必須ひっす課目かもく compulsory (part of the) curriculumとして認めるみとめる recognize; acknowledge (as)に至ったいたった arrived at; progressed to。そこでこのあいだじゅうから適当の適当てきとうの appropriate; suitable人物人物じんぶつ personage; capable person人選人選じんせん personnel selection; hiringちゅう in the process ofであったが、ようやく某氏某氏ぼうし a certain person決定して決定けっていして decide (on)近々近々きんきん soon; shortly発表発表はっぴょう announcementになるそうだ。某氏は近き過去ちか過去かこ one's recent pastにおいて、海外留学海外かいがい留学りゅうがく study abroadめい mandate; directive受けたけた receivedことのある秀才秀才しゅうさい brilliant person; prodigyだから至極至極しごく quite; most; exceedingly適任適任てきにん competent; qualifiedだろうという内容内容ないよう content; substanceである。

広田先生広田ひろた先生せんせい Professor Hirotaじゃなかったんだな」と三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)与次郎与次郎よじろう Yojirō (name)顧みたかえりみた turned around toward; turned to look at。与次郎はやっぱり新聞新聞しんぶん newspaperうえ surface of見てて look at; study; examineいる。

「これはたしかなのか」と三四郎がまた聞いたいた asked

「どうも」と首を曲げたくびげた tilted one's head; inclined one's headが、「たいてい大丈夫大丈夫だいじょうぶ alright; under controlだろうと思っておもって thoughtいたんだがな。やりそくなった。もっともこのおとこ man; fellowがだいぶ運動運動うんどう campaign; lobbyingをしているというはなし talk; rumorは聞いたこともあるが」と言うう said; added

「しかしこれだけじゃ、まだ風説風説ふうせつ gossip; hearsayじゃないか。いよいよ発表発表はっぴょう announcementになってみなければわからないのだから」

「いや、それだけならむろんかまわない。先生の関係した関係かんけいした affected; impactedことじゃないから、しかし」と言って、また残りののこりの remaining新聞を畳み直してたたなおして refold標題標題みだし headline指の頭ゆびあたま fingertip押えておさえて press down; hold down、三四郎の eyesした beneath; below出したした put forth; presented

今度今度こんど this timeの新聞にもほぼ同様の同様どうようの similar; equivalentこと matters; affairs載ってって appear (in print); be reportedいる。そこだけはべつだんに新しいあたらしい new; novel印象印象いんしょう impression起こしようもないこしようもない did not bring about; was not apt to arouseが、そのあとへ来てて came (to)、三四郎は驚かされたおどろかされた was shocked; was taken aback。広田先生がたいへんな不徳義不徳義ふときぎ immorality; dishonestyかん man; fellowのように書いていて write; reportある。十年間じゅう年間ねんかん (a period of) ten years語学語学ごがく language教師教師きょうし instructorをして、世間世間せけん society; the worldには杳としてようとして obscure; unknown聞こえない凡材凡材ぼんざい mediocrityのくせに、大学大学だいがく university本邦人本邦人ほんぽうじん native son (of Japan)外国文学外国がいこく文学ぶんがく foreign literature講師を入れるれる bring in; hireと聞くやいなや、急にきゅうに immediatelyこそこそ運動を始めてはじめて start; begin自分自分じぶん oneself評判記評判記ひょうばんき write-up on a person学生間学生間がくせいかん among the students流布した流布るふした circulated; disseminated。のみならずその門下生門下生もんかせい disciple; followerをして「偉大なる偉大いだいなる great; mighty暗闇暗闇くらやみ darkness; void」などという論文論文ろんぶん essay; composition小雑誌小雑誌こざっし minor publication草せしめたそうせしめた cajoled into writing; coaxed to write。この論文は零余子零余子れいよし Reiyoshi (propagule; one of Yojirō's pen names)なる匿名匿名とくめい assumed nameのもとにあらわれたが、じつは広田のいえ house出入する出入しゅつにゅうする come and go; frequent文科大学生文科ぶんか大学生だいがくせい college of liberal arts student小川小川おがわ Ogawa (Sanshirō's family name)三四郎なるもののふで (writing) brushであることまでわかっている。と、とうとう三四郎の名前名前なまえ name出て来たた appeared

三四郎は妙なみょうな strange; odd; curiousかお face; facial expressionをして与次郎を見た。与次郎はまえから三四郎の顔を見ている。二人とも二人ふたりとも both of themしばらく黙ってだまって remain silentいた。やがて、三四郎が、

困るこまる be troubled; be in a bindなあ」と言った。少しすこし somewhat; to some degree与次郎を恨んでうらんで resent; blameいる。与次郎は、そこはあまりかまっていない。

きみ you (used here as form of address)、これをどう思う」と言う。

「どう思うとは」

投書投書とうしょ letter to the editor; letter from a readerをそのまま出したした put out; publishedに違いないちがいない no doubt ...。けっしてしゃ (newspaper) companyのほうで調べた調しらべた investigated; checked; verifiedものじゃない。文芸時評文芸時評ぶんげいじひょう Literary Review六号活字六号ろくごう活字かつじ size six type; small print; filler materialの投書にこんなのが、いくらでも来るる come; arrive。六号活字はほとんど罪悪罪悪ざいあく evil; villainyのかたまりだ。よくよく探ってさぐって investigate; look intoみるとうそ concoction; fabrication多いおおい many; numerous目に見えたえた blatant; obvious嘘をついているのもある。なぜそんな愚なおろかな silly; foolishこと act; actionをやるかというとね、きみ you (used here as form of address)。みんな利害利害りがい advantages and disadvantages; interests問題問題もんだい problem; question (of)動機動機どうき motivationになっているらしい。それでぼくが六号活字を受持って受持うけもって have charge of; administerいるとき times; occasionsには、性質性質たち quality; natureのよくないのは、たいてい屑籠屑籠くずかご wastebasket放り込んだほうんだ tossed into。この記事記事きじ articleもまったくそれだね。反対運動反対はんたい運動うんどう opposing movement; opposition camp結果結果けっか result; output (of)だ」

「なぜ、君の name出ないない not appearで、ぼくの名が出たものだろうな」

与次郎与次郎よじろう Yojirō (name)は「そうさ」と言ってって say; remarkいる。しばらくしてから、

「やっぱり、なんだろう。君は本科生本科生ほんかせい regular studentでぼくは選科生選科生せんかせい elective studies studentだからだろう」と説明した説明せつめいした explained; proposed an explanation。けれども三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)には、これが説明にもなんにもならなかった。三四郎は依然として依然いぜんとして still; as before迷惑迷惑めいわく bothered; annoyedである。

「ぜんたいぼくが零余子零余子れいよし Reiyoshi (propagule; one of Yojirō's pen names)なんてけちなけちな pettyごう pen name使わずに使つかわずに without using; without resorting to堂々と堂々どうどうと grandly; boldly佐々木佐々木ささき Sasaki (Yojirō's family name)与次郎と署名して署名しょめいして signおけばよかった。じっさいあの論文論文ろんぶん essay; compositionは佐々木与次郎以外以外いがい apart from; other than書けるける can writeもの person一人一人ひとり one (single) personもないんだからなあ」

与次郎はまじめである。三四郎に「偉大なる偉大いだいなる great; mighty暗闇暗闇くらやみ darkness; void」の著作権著作権ちょさくけん authorship奪われてうばわれて have taken away (by someone)、かえって迷惑しているのかもしれない。三四郎はばかばかしくなった。

「君、先生先生せんせい professor話したはなした confessed; explainedか」と聞いたいた asked

「さあ、そこだ。偉大なる暗闇の作者作者さくしゃ writer; authorなんか、君だって、ぼくだって、どちらだってかまわないが、こと先生の人格人格じんかく character関係してくる関係かんけいしてくる come to affect; make an impact (on)以上は以上いじょうは once ...; given that ...、話さずにはいられない。ああいう先生だから、いっこう知りませんりません don't know何かなにか some sort of間違い間違まちがい mistakeでしょう、偉大なる暗闇という論文は雑誌雑誌ざっし magazine; periodicalに出ましたが、匿名匿名とくめい assumed nameです、先生の崇拝者崇拝者すうはいしゃ admirerが書いたものですから御安心なさい御安心ごあんしんなさい don't worry about itくらいに言っておけば、そうかで、すぐ済んでしまうんでしまう be settled; be at its endわけだが、このさいそうはいかん。どうしたってぼくが責任責任せきにん responsibility明らかにしなくっちゃあきらかにしなくっちゃ have to make clear; have to come clean about。事がうまくいって、知らんかお face; facial expressionをしているのは、心持ち心持こころもち feelingがいいが、やりそくなって黙ってだまって remain silentいるのは不愉快不愉快ふゆかい unpleasant; disagreeableでたまらない。第一第一だいいち for one thing; first of all自分自分じぶん oneselfが事を起こしてこして set in motion; instigateおいて、ああいう善良な善良ぜんりょうな good; virtuousひと personを迷惑な状態状態じょうたい situation陥らしておちいらして cause to fall into、それで平気に平気へいきに calmly; cooly見物がしておられる見物けんぶつがしておられる can view from a distance; can watch from the wingsものじゃない。正邪曲直正邪せいじゃ曲直きょくちょく right and wrongなんてむずかしい問題は別としてべつとして putting aside、ただ気の毒どく pitiable; unfortunateで、いたわしくっていたわしくって heartrendingいけない」

三四郎ははじめて与次郎を感心な感心かんしんな admirable; praiseworthyおとこ man; fellowだと思ったおもった thought (of as); regarded (as)

先生先生せんせい professor新聞新聞しんぶん newspaper読んだんだ readんだろうか」

うち house来るる come; be delivered (to)新聞にゃない。だからぼくも知らなかったらなかった didn't know。しかし先生は学校学校がっこう school行ってって go (to)いろいろな新聞を見るる see; look atからね。よし先生が見なくってもだれか話すはなす tell (about); mentionだろう」

「すると、もう知ってるな」

「むろん知ってるだろう」

きみ youにはなんとも言わないわない not say (anything)か」

「言わない。もっともろくにはなし talk; conversationをするひま free time; leisureもないんだから、言わないはずだが。このあいだから演芸会演芸会えんげいかい performance; showこと matters; affairsでしじゅう奔走して奔走ほんそうして running aboutいるものだから――ああ演芸会も、もういやになった。やめてしまおうかしらん。おしろいおしろい (face) powderをつけて、芝居芝居しばい play; dramaなんかやったって、なに whatがおもしろいものか」

「先生に話したら、君、しかられるだろう」

「しかられるだろう。しかられるのはしかたがないが、いかにも気の毒どく pitiable; unfortunateでね。よけいな事をして迷惑をかけて迷惑めいわくをかけて cause trouble (for someone)るんだから。――先生は道楽道楽どうらく hobby; pastime; indulgenceのないひと personでね。さけ saké飲まずまず doesn't drink煙草煙草タバコ tobaccoは」と言いかけたが途中途中とちゅう in the middle; midwayでやめてしまった。先生の哲学哲学てつがく philosophyはな nose; nostrilsからけむ smokeにして吹き出すす exhale; expelりょう quantity; volumeつき a month積もるもる accumulate; aggregateと、莫大な莫大ばくだいな enormous; vastものである。

「煙草だけはかなりのむが、そのほかになんにもないぜ。釣りり fishingをするじゃなし、碁を打つつ play go (strategic board game)じゃなし、家庭家庭かてい family; household楽しみたのしみ enjoyment; pleasureがあるじゃなし。あれがいちばんいけない。子供子供こども childrenでもあるといいんだけれども。じつに枯淡枯淡こたん austere; asceticだからなあ」

与次郎与次郎よじろう Yojirō (name)はそれで腕組をした腕組うでぐみをした folded (his) arms

「たまに、慰めようなぐさめよう console; bring comfort to思っておもって thought (to do)少しすこし a little; a bit奔走すると、こんなことになるし。君も先生のところ place; residenceへ行ってやれ」

「行ってやるどころじゃない。ぼくにも多少多少たしょう somewhat; in some part責任責任せきにん responsibilityがあるから、あやまってくる」

「君はあやまる必要必要ひつよう need; necessityはない」

「じゃ弁解して弁解べんかいして explain oneselfくる」

与次郎はそれで帰ったかえった returned; went home三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)とこ bedにはいってからたびたび寝返りを打った寝返ねがえりをった tossed and turnedくに country; one's native regionにいるほうが寝やすいやすい easy to sleep心持ち心持こころもち feelingがする。偽りのいつわりの fabricated記事記事きじ (newspaper) article; story――広田先生広田ひろた先生せんせい Professor Hirota――美禰子美禰子みねこ Mineko (name)――美禰子を迎えに来てむかえにて come to meet連れていったれていった led away; escortedりっぱなおとこ man; fellow――いろいろの刺激刺激しげき stimuli; provocationsがある。

夜中夜中よなか late at night; dead of nightからぐっすり寝たた slept。いつものように起きるきる wake up; riseのが、ひどくつらかった。かお face洗うあらう washところ placeで、同じおなじ the same文科文科ぶんか college of liberal arts学生学生がくせい student会ったった met; encountered。顔だけは互いにたがいに mutually見知り合い見知みしい known by sight; familiarである。失敬という挨拶失敬しっけいという挨拶あいさつ the usual formalities; the standard greetingsのうちに、このおとこ man; fellow例のれいの the aforementioned; said; in question記事記事きじ (newspaper) article; story読んでんで readいるらしく推したすいした inferred; gathered; surmised。しかし先方先方せんぽう the other partyではむろん話頭話頭わとう subject; topic避けたけた avoided三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)弁解弁解べんかい defense; explanation試みなかったこころみなかった did not attempt

暖かいあたたかい warmしる soup aromaをかいでいるとき timeに、また故里故里ふるさと home town; native placeはは motherからの書信書信しょしん letter接したせっした took receipt of。また例のごとくれいのごとく as usual; as always長かりそうながかりそう appear lengthyだ。洋服洋服ようふく Western clothes着換える着換きかえる change (out of)のがめんどうだから、着たままたまま still wearingうえ top ofはかま hakama (men's formal pleated skirt)をはいて、ふところ pocket手紙手紙てがみ letter入れてれて put into出るる left; departed戸外戸外そと outside薄いうすい thin; lightしも frost光ったひかった shone; glistened

通りとおり boulevard; thoroughfareへ出ると、ほとんど学生ばかり歩いてあるいて walkいる。それが、みな同じ方向方向ほうこう direction行くく go; proceed。ことごとく急いで行くいそいでく hurry along; rush寒いさむい cold往来往来おうらい road; street若いわかい young男の活気活気かっき energy; vigorでいっぱいになる。そのなかに霜降りの霜降しもふりの grayish (mixture of dark and light)外套外套がいとう overcoat; cloakを着た広田先生広田ひろた先生せんせい Professor Hirota長いながい long; tallかげ figure; form見えたえた was visible。この青年青年せいねん youth; young men隊伍隊伍たいご formation; ranks紛れ込んだまぎんだ slipped in with; lost in先生は、歩調歩調ほちょう gait; paceにおいてすでに時代錯誤時代錯誤アナクロニズム anachronism (Japanese reading = 時代じだい錯誤さくご)である。左右前後左右さゆう前後ぜんご all around (left, right, front, and back)比較する比較ひかくする compareとすこぶる緩漫緩漫かんまん leisurely; relaxedに見える。先生の影は校門校門こうもん school gateのうちに隠れたかくれた hid itself (within); disappeared (into)門内門内もんない inside the gate; within the grounds大きなおおきな largeまつ pine treeがある。巨大の巨大きょだいの giantからかさ umbrella; parasolのようにえだ branches; limbs広げてひろげて spread out玄関玄関げんかん entry hallをふさいでいる。三四郎のあし feet門前門前もんぜん front of the gateまで来たた came (to); arrived (at)時は、先生の影がすでに消えてえて disappear; be out of sight正面正面しょうめん aheadに見えるものは、松と、松の上にある時計台時計台とけいだい clock towerばかりであった。この時計台の時計は常につねに always狂っているくるっている be off kilter; be awry; be faulty。もしくは留まっているまっている stopped

門内をちょっとのぞきこんだ三四郎は、口の中でくちなかで to oneselfハイドリオタフヒアハイドリオタフヒア Hydriotaphia (Sir Thomas Browne, published in 1658)」という word二度二度にど two times; twice繰り返したかえした repeated。この字は三四郎の覚えたおぼえた learned外国語外国語がいこくご foreign vocabularyのうちで、もっとも長い、またもっともむずかしい言葉言葉ことば wordの一つひとつ one of ...であった。意味意味いみ meaningはまだわからない。広田先生に聞いていて askみるつもりでいる。かつて与次郎与次郎よじろう Yojirō (name)尋ねたらたずねたら ask; inquire、おそらくダーターファブラダーターファブラ Latin 'de te fabula' from Horace's Satires. Broader meaning: don't laugh - change the names and the story applies to you.のたぐいだろうと言ってって say; replyいた。けれども三四郎からみると二つふたつ two (things)のあいだにはたいへんな違いちがい difference; disparityがある。ダーターファブラはおどるべき性質性質せいしつ quality; natureのものと思えるおもえる could be thought of as; could be regarded as。ハイドリオタフヒアは覚えるのにさえひま timeがいる。二へんへん two times; twice繰り返すと歩調がおのずから緩漫になる。広田先生の使う使つかう use; wieldために古人古人こじん men of old作ってつくって make; createおいたようなおん sound; ringがする。

学校学校がっこう school行ったらったら went (to)、「偉大なる偉大いだいなる great; mighty暗闇暗闇くらやみ darkness; void」の作者作者さくしゃ author; writerとして、衆人衆人しゅうじん people; everyone注意注意ちゅうい attention一身一身いっしん oneself集めてあつめて be gatheredいる気色気色きしょく feeling; moodがした。戸外戸外そと outside; outdoors出ようよう go out; leaveとしたが、戸外は存外存外ぞんがい unexpectedly寒いさむい coldから廊下廊下ろうか hallwayにいた。そうして講義講義こうぎ lectureのあいだにふところ pocketからはは mother手紙手紙てがみ letter出してして take out読んだんだ read

この冬休み冬休ふゆやすみ winter vacation; winter breakには帰って来いかえってい come homeと、まるで熊本熊本くまもと Kumamoto (place name)にいた当時当時とうじ that time; those days同様な同様どうような similar命令命令めいれい order; command; directionがある。じつは熊本にいた時分時分じぶん period of timeにこんなことがあった。学校が休みになるか、ならないのに、帰れという電報電報でんぽう telegram掛かったかった arrived。母の病気病気びょうき sickness; illnessに違いないちがいない no doubt ...思い込んでおもんで assumed; was under the impression that ...驚いておどろいて alarmed; flustered飛んで帰るんでかえる hurry homeと、母のほうではこっちにへん changeがなくって、まあ結構結構けっこう fine; wellだったといわぬばかりに喜んでよろこんで be delighted; be pleasedいる。わけ circumstances; situation聞くく ask aboutと、いつまで待ってって waitいても帰らないから、お稲荷様稲荷様いなりさま Oinari-sama (Inari; god of harvests, wealth, fertility, etc.)伺いを立てたらうかがいをてたら consult an oracle or a god、こりゃ、もう熊本をたっているという御託宣御託宣ごたくせん (divine) revelationであったので、途中で途中とちゅうで on the way; en routeどうかしはせぬだろうかと非常に非常ひじょうに very much; exceedingly心配して心配しんぱいして worry; be concernedいたのだと言うう say; respond三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)はその当時を思いだして、今度今度こんど this timeもまた伺いを立てられることかと思った。しかし手紙にはお稲荷様のことは書いていて writeない。ただ三輪田三輪田みわた Miwata (family name)お光みつ Omitsu (name)さんも待っていると割注割注わりちゅう inserted note; margin noteみたようなものがついている。お光さんは豊津豊津とよつ Toyotsu (place name)女学校女学校じょがっこう girls' schoolをやめて、うち homeへ帰ったそうだ。またお光さんに縫ってって sewもらった綿入れ綿入めんいれ padded garment; quilted shirt小包小包こづつみ small package来るる arriveそうだ。大工大工だいく carpenter角三角三かくぞう Kakuzō (name)やま mountain; hills賭博を打って賭博ばくちって gamble九十八円九十八きゅうじゅうはちえん 98 yen取られたられた was taken for; lostそうだ。――そのてんまつてんまつ circumstances詳しくくわしく in detail書いてある。めんどうだからいいかげんに読んだ。なんでも山を買いたいいたい wish to purchaseというおとこ men三人連三人さんにんづれ group of three (people)入り込んで来たんでた came; visited; calledのを、角三が案内をして案内あんないをして guide; show (around)、山を回って歩いてまわってあるいて walk around; survey (on foot)いるあいだに取られてしまったのだそうだ。角三は家へ帰って、女房女房にょうぼう wifeにいつのまに取られたかわからないと弁解した弁解べんかいした explained; excused (oneself)。すると、女房がそれじゃお前さんまえさん you眠り薬ねむぐすり sleep-inducing agent; anestheticでもかがされたかがされた caused to sniff; caused to inhaleんだろうと言ったら、角三が、うんそういえばなんだかかいだようだと答えたこたえた answered; repliedそうだ。けれどもむら village; townもの peopleはみんな賭博をして巻き上げられたげられた was swindled; was cheated評判して評判ひょうばんして assess (as); believe (to be)いる。いなかでもこうだから、東京東京とうきょう Tōkyōにいるお前なぞは、本当に本当ほんとうに really; trulyよく気をつけなくてはいけないをつけなくてはいけない must be careful; need to exercise cautionという訓誡訓誡くんかい admonitionがついている。

長いながい long; lengthy手紙手紙てがみ letter巻き収めておさめて roll back upいると、与次郎与次郎よじろう Yojirō (name)がそばへ来てて come (to); appear (at)、「やあおんな woman; young ladyの手紙だな」と言ったった remarked; commented。ゆうべよりは冗談冗談じょうだん humor; jestをいうだけ元気がいい元気げんきがいい revitalized; energetic三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)は、

「なにはは motherからだ」と、少しすこし a little; a bitつまらなそうに答えてこたえて answered; responded封筒ごと封筒ふうとうごと envelope and allふところ pocket入れたれた put into

里見里見さとみ Satomi (Mineko's family name)お嬢さんじょうさん young ladyからじゃないのか」

「いいや」

きみ you (used here as form of address)、里見のお嬢さんのことを聞いたいた heardか」

なに whatを」と問い返してかえして ask in returnいるところへ、一人一人ひとり one (person)学生学生がくせい studentが、与次郎に、演芸会演芸会えんげいかい performance; show切符切符きっぷ ticketをほしいというひと person階下階下した downstairs; below待ってって waitいると教えに来てくれたおしえにてくれた came to tell; came to inform。与次郎はすぐ降りて行ったりてった went down

与次郎はそれなり消えてえて disappearなくなった。いくらつらまえようと思っておもって think (to do)出て来ないない didn't appear。三四郎はやむをえず精出して精出せいだして exert oneself講義講義こうぎ lecture筆記して筆記ひっきして take notesいた。講義が済んでんで conclude; be finishedから、ゆうべの約束約束やくそく promise; pledgeどおり広田先生広田ひろた先生せんせい Professor Hirotaうち house寄るる drop by; pay a visit相変らず相変あいかわらず as always静かしずか quiet; stillである。先生は茶の間ちゃ tea room; hearth roomに長くなって寝てて rest; sleepいた。ばあさんに、どうかなすったのかと聞くと、そうじゃないのでしょう、ゆうべあまりおそくなったので、眠いねむい sleepy; drowsyと言って、さっきお帰りになるかえりになる return homeと、すぐに横におなりなすったよこにおなりなすった lay downのだと言う。長いからだのうえ top of小夜着小夜着こよぎ small quilt掛けてあるけてある spread over; laid over。三四郎は小さな声ちいさなこえ small voice; quiet voiceで、またばあさんに、どうして、そうおそくなったのかと聞いた。なにいつでもおそいのだが、ゆうべのは勉強勉強べんきょう studies; workじゃなくって、佐々木佐々木ささき Sasaki (Yojirō's family name)さんと久しくひさしく for the first time in a whileお話はなし talk; discussionをしておいでだったというこたえ answer; responseである。勉強が佐々木に代ったかわった changed (to); was replaced (by)から、昼寝昼寝ひるね napをする説明説明せつめい explanationにはならないが、与次郎が、ゆうべ先生に例のれいの the aforementioned; that certain ...話をしたこと act; factだけはこれで明瞭明瞭めいりょう clear; evidentになった。ついでに与次郎が、どうしかられたかを聞いておきたいのだが、それはばあさんが知ろうろう know; have knowledge ofはずがないし、肝心の肝心かんじんの vital; all-important与次郎は学校学校がっこう school取り逃してにがして let get awayしまったからしかたがない。きょうの元気のいいところをみると、大したたいした significant; eventful事件事件じけん affair; happeningにはならずに済んだのだろう。もっとも与次郎の心理現象心理しんり現象げんしょう workings of one's mindはとうてい三四郎にはわからないのだから、じっさいどんなことがあったか想像はできない想像そうぞうはできない can't imagine; have no idea

三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)長火鉢長火鉢ながひばち long hibachi (brazier); rectangular hibachiまえ front ofへすわった。鉄瓶鉄瓶てつびん iron kettleがちんちん鳴ってって ring; soundいる。ばあさんは遠慮をして遠慮えんりょをして out of deference下女部屋下女げじょ部屋べや maidservant's room引き取ったった retired to; withdrew to。三四郎はあぐらをかいて、鉄瓶に手をかざしてをかざして hold one's hand up (toward)先生先生せんせい professor起きるきる wake upのを待ってって wait forいる。先生は熟睡して熟睡じゅくすいして sleep soundlyいる。三四郎は静かしずか quiet; stillでいい心持ち心持こころもち feeling; moodになった。つめ fingernailsで鉄瓶をたたいてみた。熱いあつい hot heated water茶碗茶碗ちゃわん tea cupについでふうふう吹いていて blow (on)飲んだんだ drank; sipped。先生は向こうこう away; the other directionをむいて寝ている。二、三日三日さんにち several daysまえに頭を刈ったあたまった had a haircutとみえて、かみ hairがはなはだ短かいみじかい short; close-cropped (hair)ひげ mustacheのはじが濃くく thickly出てて appear; be visibleいる。はな noseも向こうを向いていて turn toward; face towardいる。鼻の穴はなあな nostrilsすうすう言うすうすうう wheeze gently安眠安眠あんみん restful slumber; peaceful sleepだ。

三四郎は返そうかえそう return (something)思っておもって think (to do)持って来たってた brought withハイドリオタフヒアハイドリオタフヒア Hydriotaphia (Sir Thomas Browne, published in 1658)出してして take out読みはじめたみはじめた began to read。ぽつぽつ拾い読みひろみ browsing; skimmingをする。なかなかわからない。はか grave; tombなか insideはな flowers投げるげる throw; tossことが書いてあるいてある was writtenローマ人ローマじん Romans薔薇薔薇ばら roses affect する affect アッフェクトする ("affect")と書いてある。なんの意味意味いみ meaningだかよく知らないらない don't know; can't tellが、おおかた好むこのむ like; have preference forとでも訳するやくする translateんだろうと思った。ギリシア人ギリシアじん Greeks Amaranth Amaranth アマランス (amaranth)用いるもちいる use; employと書いてある。これも明瞭でない明瞭めいりょうでない unclear; hard to follow。しかし花の nameには違いないにはちがいない no doubt ...。それから少しすこし a little; a bitさきへ行くく proceedと、まるでわからなくなった。ページページ pageから eyes離してはなして remove from先生を見たた looked at。まだ寝ている。なんでこんなむずかしい書物書物しょもつ book自分自分じぶん oneself貸したした lentものだろうと思った。それから、このむずかしい書物が、なぜわからないながらも、自分の興味興味きょうみ interestをひくのだろうと思った。最後に最後さいごに finally広田先生広田ひろた先生せんせい Professor Hirota必竟必竟ひっきょう after all; in the endハイドリオタフヒアだと思った。

そうすると、広田先生がむくりと起きたきた woke upくび headだけ持ち上げてげて lift up、三四郎を見た。

「いつ来たた came; arrivedの」と聞いたいた asked三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)はもっと寝てて sleep; restおいでなさいと勧めたすすめた suggested; offered。じっさい退屈退屈たいくつ tedium; boredomではなかったのである。先生先生せんせい professorは、

「いや起きるきる wake up」と言ってって say; answer起きた。それから例のごとくれいのごとく as always; per habit哲学哲学てつがく philosophyけむり smoke吹きはじめたきはじめた began to expel。煙が沈黙沈黙ちんもく silence; quietのあいだに、ぼう staff; columnになって出るる appear

「ありがとう。書物書物しょもつ book返しますかえします return

「ああ。――読んだんだ readの」

「読んだけれどもよくわからんです。第一第一だいいち first off; for starters標題標題ひょうだい titleがわからんです」

ハイドリオタフヒアハイドリオタフヒア Hydriotaphia (Sir Thomas Browne, published in 1658)

「なんのことですか」

「なんのことかぼくにもわからない。とにかくギリシア語ギリシア Greek (language)らしいね」

三四郎はあとを尋ねるたずねる ask; inquire勇気勇気ゆうき nerve抜けてけて fade; dissipateしまった。先生はあくびを一つひとつ one (thing)した。

「ああ眠かったねむかった was sleepy。いい心持ち心持こころもち mood; feelingに寝た。おもしろい夢を見てゆめて have a dreamね」

先生はおんな woman; girlの夢だと言っている。それを話すはなす tell of; relateのかと思ったらおもったら thought (public) bath行かないかかないか shall we go (to)と言いだした。二人二人ふたり two (people)手ぬぐいぬぐい towel; washclothをさげて出かけたかけた departed; set out

湯から上がってがって come (up) out of、二人が板の間いた wooden-floored areaにすえてある器械器械きかい apparatusうえ top of乗ってって stand on身長身長たけ height; stature測ってはかって measureみた。広田先生広田ひろた先生せんせい Professor Hirota五尺六寸五尺ごしゃく六寸ろくすん 5 shaku and 6 sun (about 170 cm; about 5' 7")ある。三四郎は四寸五分四寸よんすん五分ごぶ (5 shaku and) 4.5 sun (about 165 cm; about 5' 5")しかない。

「まだのびるかもしれない」と広田先生が三四郎に言った。

「もうだめです。三年来三年来さんねんらい three years runningこのとおりです」と三四郎が答えたこたえた answered

「そうかな」と先生が言った。自分自分じぶん oneselfをよっぽど子供子供こども childのように考えてかんがえて consider; regard (as)いるのだと三四郎は思った。いえ house帰ったかえった returnedとき time、先生が、よう business; other things to doがなければ話していってもかまわないと、書斎書斎しょさい study doorをあけて、自分がさきへはいった。三四郎はとにかく、例のれいの the aforementioned; that certain用事用事ようじ matter; affair片づけるかたづける take care of; settle義務義務ぎむ duty; obligationがあるから、続いてつづいて followはいった。

佐々木佐々木ささき Sasaki (Yojirō's family name)は、まだ帰らないようですな」

「きょうはおそくなるとか言って断わってことわって give notice; excuse oneselfいた。このあいだから演芸会演芸会えんげいかい performance; showのことでだいぶん奔走して奔走ほんそうして running aboutいるようだが、世話好き世話好せわずき officious; meddlesomeなんだか、駆け回るまわる run around; hurry aboutことが好きき to one's likingなんだか、いっこう要領を得ない要領ようりょうない unfocusedおとこ man; fellowだ」

親切親切しんせつ kind-hearted; of a good natureなんですよ」

目的目的もくてき aim; objective; intentionsだけは親切親切しんせつ kind-hearted; of a good natureなところも少しすこし a little; a bitあるんだが、なにしろ、あたま mind; brainできでき construction; qualityがはなはだ不親切な不親切ふしんせつな unkind; unhelpfulものだから、ろくなことはしでかさないしでかさない not do; not accomplish。ちょっと見るる watch; observeと、要領を得ている要領ようりょうている is on task; is getting somewhere。むしろ得すぎている。けれども終局終局しゅうきょく final outcomeへゆくと、なんのために要領を得てきたのだか、まるでめちゃくちゃになってしまう。いくら言ってって tell; advise直さないなおさない can't fix; can't set straightからほうっておく。あれは悪戯悪戯いたずら mischiefをしに世の中なか the world; this world生まれて来たまれてた was born intoおとこ man; fellowだね」

三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)はなんとか弁護弁護べんご defenseみち way; meansがありそうなものだと思ったおもった thought; consideredが、現にげんに in actuality結果結果けっか result; outcome悪いわるい no good; unfavorable実例実例じつれい example; case; precedentがあるんだから、しようがない。話を転じたはなしてんじた changed the subject

「あの新聞新聞しんぶん newspaper記事記事きじ article; story御覧でした御覧ごらんでした saw; looked atか」

「ええ、見た」

「新聞に出るる appearまではちっとも御存じなかった御存ごぞんじなかった didn't know; weren't awareのですか」

「いいえ」

お驚きなすったおどろきなすった were surprisedでしょう」

「驚くって――それはまったく驚かないこともない。けれども世の中のこと matters; affairsはみんな、あんなものだと思ってるから、若いわかい youngひと person; manほど正直に正直しょうじきに honestly; squarely驚きはしない」

御迷惑御迷惑ごめいわく trouble; aggravationでしょう」

「迷惑でないこともない。けれどもぼくくらい世の中に住み古したふるした lived a while; had the benefit of experience年配年配ねんぱい older; on in years人間人間にんげん personなら、あの記事を見て、すぐ事実事実じじつ fact; truthだと思い込むおもむ assume; be convinced人ばかりもないから、やっぱり若い人ほど正直に迷惑とは感じないかんじない not feel; not perceive (as)与次郎与次郎よじろう Yojirō (name)社員社員しゃいん (company) employee知ったった know; be acquainted withもの personがあるから、その男に頼んでたのんで request; ask; rely on真相真相しんそう truth; actual facts書いていて writeもらうの、あの投書投書とうしょ letter to the editor; letter from a reader出所出所でどころ origin; source捜してさがして search out制裁を加える制裁せいさいくわえる take actions againstの、自分の自分じぶんの one's own雑誌雑誌ざっし magazine; periodical十分十分じゅうぶん adequate; sufficient反駁反駁はんばく refutation; rebuttalをいたしますのと、善後策善後策ぜんごさく countermeasure; remedial action了見了見りょうけん intention; inclinationくだらないくだらない worthless; petty事をいろいろ言うが、そんな手数をする手数てかずをする go to the trouble of ...ならば、はじめからよけいな事を起こさないこさない not instigateほうが、いくらいいかわかりゃしない」

「まったく先生先生せんせい professorのためを思ったおもった was thinking ofからです。悪気悪気わるぎ ill intent; maliceじゃないです」

「悪気でやられてたまるものか。第一第一だいいち first of all; for one thingぼくのために運動運動うんどう activity; movement; campaignをするものがさ、ぼくの意向意向いこう ideas; intentions聞かないでかないで without asking、かってな方法方法ほうほう method; means講じたりこうじたり come up with; work outかってな方針方針ほうしん plan; course of action立てたてた formulated; establishedひにはひには in the case that ...; in the event of ...最初から最初さいしょから from the startぼくの存在存在そんざい existence愚弄して愚弄ぐろうして trifle with; toy withいると同じおなじ the sameことじゃないか。存在を無視されて無視むしされて be ignored; be disregardedいるほうが、どのくらい体面体面たいめん dignity; reputation保つたもつ preserve; retainにつごうがいいかしれやしない」

三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)はしかたなしに黙ってだまって remain silentいた。

「そうして、偉大なる偉大いだいなる great; mighty暗闇暗闇くらやみ darkness; voidなんて愚にもつかないにもつかない ridiculous; nonsensicalものを書いていて write; compose。――新聞新聞しんぶん newspaperにはきみ youが書いたとしてあるが実際実際じっさい reality佐々木佐々木ささき Sasaki (Yojirō's family name)が書いたんだってね」

「そうです」

「ゆうべ佐々木が自白した自白じはくした confessed; came clean。君こそ迷惑迷惑めいわく trouble; annoyanceだろう。あんなばかな文章文章ぶんしょう writing; compositionは佐々木よりほかに書くもの personはありゃしない。ぼくも読んでみたんでみた gave (it) a read実質実質じっしつ substanceもなければ、品位品位ひんい grace; styleもない、まるで救世軍救世軍きゅうせいぐん Salvation Army太鼓太鼓たいこ drumのようなものだ。読者読者どくしゃ reader悪感情悪感情あくかんじょう animosity; resentment引き起こすこす stir up; arouseために、書いてるとしか思われやしない。徹頭徹尾徹頭徹尾てっとうてつび from beginning to end; throughout故意故意こい calculation; (ill) purposeだけで成り立っているっている consist of; be comprised of常識常識じょうしき good senseのある者が見ればれば look at; read、どうしてもためにするためにする have an ulterior motive; have an axe to grindところがあって起稿した起稿きこうした drafted; composedものだと判定判定はんてい judgment; determinationがつく。あれじゃぼくが門下生門下生もんかせい disciple; followerに書かしたと言われるわれる have it said that ...はずだ。あれを読んだとき time; occasionには、なるほど新聞の記事記事きじ article; storyはもっともだと思った」

広田先生広田ひろた先生せんせい Professor Hirotaはそれで話を切ったはなしった stopped talking; concludedはな nose; nostrilsから例によってれいによって as usualけむり smokeをはく。与次郎与次郎よじろう Yojirō (name)はこの煙の出方出方でかた manner (of emerging); form; shapeで、先生の気分気分きぶん feeling; moodをうかがうことができると言っている。濃くく thicklyまっすぐにほとばしるほとばしる surge forth; well up時は、哲学哲学てつがく philosophy絶好頂絶好頂ぜっこうちょう pinnacle; peak (of)達したたっした reached; attainedさいで、ゆるくくずれる時は、心気心気しんき mood; sentiment平穏平穏へいおん tranquil; calm、ことによるとひやかされるひやかされる be teased; be ribbed恐れおそれ fear; concernがある。煙が、鼻のした below彽徊して彽徊ていかいして lingerひげ mustache未練未練みれん attachment; affectionがあるように見える時は、瞑想瞑想めいそう contemplation入るる enter (into)。もしくは詩的詩的してき poetic感興感興かんきょう inspirationがある。もっとも恐るべきは穴の先あなさき outlet; exit pointうず swirls; eddiesである。渦が出ると、たいへんにしかられる。与次郎の言うことだから、三四郎はむろんあてにはしない。しかしこのさいだから気をつけてをつけて pay attention; be attentive煙の形状形状かたち shape; formをながめていた。すると与次郎の言ったような判然たる判然はんぜんたる clear; definite煙はちっとも出て来ないない didn't emerge; didn't appearその代りそのかわり on the other hand; at the same time出るものは、たいていなたいていな most; almost all資格資格しかく characteristicsをみんなそなえてそなえて possess; be endowed withいる。

三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)がいつまでたっても、恐れ入ったおそった be overwhelmed; feel sheepish; feel smallように控えてひかえて refrainいるので、先生先生せんせい professorはまた話しはじめたはなしはじめた began to speak

済んだんだ finished; concluded; bygoneこと matters; affairsは、もうやめよう。佐々木佐々木ささき Sasaki (Yojirō's family name)昨夜昨夜さくや last nightことごとくあやまってしまったから、きょうあたりはまた晴々して晴々せいせいして freshly; brightly例のごとくれいのごとく in the usual manner飛んで歩いてんであるいて fly about; flit aboutいるだろう。いくら陰でかげで in the shadows; behind someone's back不心得不心得ふこころえ indiscretion; imprudence責めためた criticizeって、当人当人とうにん the person in question; he平気で平気へいきで paying no heed; without concern切符切符きっぷ ticketsなんぞ売ってって sell; peddle歩いていてはしかたがない。それよりもっとおもしろいはなし talkをしよう」

「ええ」

「ぼくがさっき昼寝昼寝ひるね napをしているとき time、おもしろいゆめ dream見たた saw; had (a dream)。それはね、ぼくが生涯生涯しょうがい lifetimeにたった一ぺんいっぺん one time; once会ったった met; saw; encounteredおんな girlに、突然突然とつぜん suddenly夢のなか middle; midst再会した再会さいかいした met againという小説小説しょうせつ novel; storybookじみたお話だが、そのほうが、新聞新聞しんぶん newspaper記事記事きじ article; storyより聞いていて hearいても愉快愉快ゆかい pleasant; enjoyableだよ」

「ええ。どんな女ですか」

十二、三十二じゅうにさん twelve or thirteenのきれいな女だ。かお face黒子黒子ほくろ mole; beauty spotがある」

三四郎は十二、三と聞いて少しすこし a little; a bit失望した失望しつぼうした was disappointed

「いつごろお会いになったのですか」

二十年二十年にじゅうねん twenty yearsばかりまえ」

三四郎はまた驚いたおどろいた was surprised

「よくその女ということがわかりましたね」

「夢だよ。夢だからわかるさ。そうして夢だから不思議不思議ふしぎ wonder; mysteryでいい。ぼくがなんでも大きなおおきな largeもり forest; woodsの中を歩いている。あの色のさめたいろのさめた of faded colorなつ summer洋服洋服ようふく Western clothes着てて wearね、あの古いふるい old; worn帽子帽子ぼうし hatをかぶって。――そうその時はなんでも、むずかしい事を考えてかんがえて consider; think about; contemplateいた。すべて宇宙宇宙うちゅう universe法則法則ほうそく rules; laws変らないかわらない not change; be immutableが、法則に支配される支配しはいされる be ruled by; fall underすべて宇宙のものは必ずかならず invariably; without fail変る。するとその法則は、もの objects; matterのほかに存在していなくてはならない存在そんざいしていなくてはならない must exist。――さめてみるとつまらないが夢の中だからまじめにそんな事を考えて森のした below; beneath通って行くとおってく pass through; traverseと、突然その女に会った。行き会ったった met in passingのではない。向こうこう the other partyはじっと立ってって standいた。見ると、むかし long agoのとおりの顔をしている。昔のとおりの服装服装なり dress; attireをしている。かみ hairも昔の髪である。黒子もむろんあった。つまり二十年まえ見た時と少しも変らない十二、三の女である。ぼくがその女に、あなたは少しも変らないというと、その女はぼくにたいへん年をお取りなすったとしをおりなすった gotten on in years; agedという。つぎ nextにぼくが、あなたはどうして、そう変らずにいるのかと聞くと、この顔の年、この服装のつき month、この髪の dayがいちばん好きき to one's likingだから、こうしていると言うう said; answered。それはいつの事かと聞くと、二十年まえ、あなたにお目にかかったにかかった saw; encountered時だという。それならぼくはなぜこう年を取ったんだろうと、自分自分じぶん oneselfで不思議がると、女が、あなたは、その時よりも、もっと美しいうつくしい beautifulほうへほうへとお移りなさりたがるうつりなさりたがる want to move on (to)からだと教えておしえて tell; informくれた。その時ぼくが女に、あなたは painting; work of artだと言うと、女がぼくに、あなたは poem; poetryだと言った」

「それからどうしました」と三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)聞いたいた asked

「それからきみ you来たた arrived; were hereのさ」と言うう said; replied

二十年二十年にじゅうねん twenty yearsまえに会ったった met; sawというのはゆめ dreamじゃない、本当の本当ほんとうの actual; real; genuine事実事実じじつ fact; truthなんですか」

「本当の事実なんだからおもしろい」

「どこでお会いになったんですか」

先生先生せんせい professorはな nose; nostrilsはまたけむり smoke吹き出したした poured forth; expelled。その煙をながめて、当分当分とうぶん for a time; for a while黙ってだまって remain silentいる。やがてこう言った。

憲法憲法けんぽう (Meiji) Constitution発布発布はっぷ proclamation; promulgation明治二十二年明治めいじ二十二にじゅうにねん 22nd year of the Meiji era (1889)だったね。そのとき time; occasionもり Mori (Arinori Mori; 1847-1889)文部大臣文部もんぶ大臣だいじん Minister of Education殺されたころされた was killed; was murdered。君は覚えていまいおぼえていまい likely don't remember。いくつかな君は。そう、それじゃ、まだ赤ん坊あかぼう baby; small child時分時分じぶん time; periodだ。ぼくは高等学校高等学校こうとうがっこう high school (equivalent to modern-day college)生徒生徒せいと studentであった。大臣大臣だいじん (government) minister葬式葬式そうしき funeral参列する参列さんれつする attend; participate (in)のだと言って、おおぜい鉄砲鉄砲てっぽう rifles; gunsかついでかついで shoulder出たた set out; departed墓地墓地ぼち cemetery行くく go; proceed (to)のだと思ったらおもったら thought; assumed、そうではない。体操体操たいそう physical education教師教師きょうし instructor竹橋内竹橋内たけばしうち Takebashiuchi (place name)引っ張って行ってってって lead (to)道ばたみちばた roadside整列さした整列せいれつさした aligned; put into formation我々我々われわれ we; usはそこへ立ったった stood; were in placeなり、大臣のひつぎ coffin; casket送るおくる send offことになった。 (in) nameは送るのだけれども、じつは見物した見物けんぶつした watched; looked on atのも同然同然どうぜん same as; no different thanだった。その day寒いさむい cold日でね、いま now; the presentでも覚えておぼえて rememberいる。動かずにうごかずに without moving; motionless立っていると、くつ shoesした bottomsあし feet痛むいたむ hurt; ache隣のとなりの neighboring; next toおとこ man; fellowがぼくの鼻を見てて look at赤いあかい red赤いと言った。やがて行列行列ぎょうれつ procession来たた arrived。なんでも長いながい long; drawn outものだった。寒い目の前まえ before one's eyes静かなしずかな quiet; silent馬車馬車ばしゃ horse cart; carriageくるま carts; rickshaws何台となく何台なんだいとなく a great number of (carts)通るとおる pass by。そのうちに今話したはなした talked of; described小さなちいさな youngむすめ girlがいた。今、その時の模様模様もよう spectacle; scene思い出そうおもそう recall; recollectとしても、ぼうとしてとても明瞭に明瞭めいりょうに clearly; vividly浮かんで来ないかんでない doesn't appear; won't come into view。ただこのおんな girlだけは覚えている。それもとし yearsをたつにしたがってだんだん薄らいで来たうすらいでた has faded; has grown dim、今では思い出すこともめったにない。きょう夢を見るまえまでは、まるで忘れてわすれて forget; put out of one's mindいた、けれどもその当時当時とうじ time in question頭の中あたまなか (in) one's mind焼きつけられたきつけられた was burned into; was imprintedように熱いあつい ardent; intense印象印象いんしょう impression持ってって have; possessいた。――妙なみょうな strange; curiousものだ」

「それからその女にはまるで会わないんですか」

「まるで会わない」

「じゃ、どこのだれだかまったくわからないんですか」

「むろんわからない」

尋ねてたずねて inquire; investigateみなかったですか」

「いいや」

「先生はそれで……」と言ったが急にきゅうに suddenlyつかえたつかえた halted (one's speech)

「それで?」

「それで結婚結婚けっこん marriageをなさらないんですか」

先生先生せんせい professor笑いだしたわらいだした laughed out loud

「それほど浪漫的な浪漫的ロマンチックな romantic人間人間にんげん person; manじゃない。ぼくはきみ youよりもはるかに散文的散文的さんぶんてき prosaic; conventional; pragmaticにできている」

「しかし、もしそのおんな girl来たらたら appearedおもらいになったでしょう」

「そうさね」と一度一度いちど once; for a moment考えたかんがえた considered; thought overうえで、「もらったろうね」と言ったった said; answered三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)気の毒などくな pitying; sympatheticようなかお facial expressionをしている。すると先生がまた話し出したはなした spoke

「そのために独身独身どくしん bachelorhood余儀なくされた余儀よぎなくされた was forced intoというと、ぼくがその女のために不具にされた不具ふぐにされた was maimed; was handicapped同じ事おなこと the same thingになる。けれども人間には生まれついてまれついて by nature結婚結婚けっこん marriageのできない不具もあるし。そのほかいろいろ結婚のしにくい事情事情じじょう situation; circumstances持ってって have; ownいるもの personがある」

「そんなに結婚を妨げるさまたげる preclude; hinder事情が世の中なか the world; societyにたくさんあるでしょうか」

先生はけむり smokeあいだ midstから、じっと三四郎を見てて look atいた。

ハムレットハムレット Hamletは結婚したくなかったんだろう。ハムレットは一人一人ひとり one personしかいないかもしれないが、あれに似たた similarひと peopleはたくさんいる」

「たとえばどんな人です」

「たとえば」と言って、先生は黙っただまった fell silent。煙がしきりに出るる emerge; appear。「たとえば、ここに一人のおとこ man; fellowがいる。ちち father早くはやく (too) soon; prematurely死んでんで die; pass awayはは mother一人を頼りたより reliance; dependence育ったそだった be raised; be brought upとする。その母がまた病気病気びょうき illnessにかかって、いよいよ息を引き取るいきる breath one's last; pass awayという、まぎわに、自分自分じぶん oneselfが死んだら誰某誰某だれそれがし a certain person; so-and-so世話になれ世話せわになれ receive assistanceという。子供子供こども child会ったった metこともない、知りもしないりもしない not know人を指名する指名しめいする name; indicate (by name)理由理由わけ reason; circumstances聞くく askと、母がなんとも答えないなんともこたえない gives no answer。しいて聞くとじつは誰某がお前のまえの your本当の本当ほんとうの true; actualおとっさんだとかすかなこえ voiceで言った。――まあはなし storyだが、そういう母を持った childがいるとする。すると、その子が結婚に信仰を置かなくなる信仰しんこうかなくなる lose faith inのはむろんだろう」

「そんな人はめったにないでしょう」

めったには無いめったにはい uncommon; rareだろうが、いることはいる」

「しかし先生のは、そんなのじゃないでしょう」

先生はハハハハと笑った。

「君はたしかおっかさんがいたね」

「ええ」

「おとっさんは」

「死にました」

「ぼくの母は憲法憲法けんぽう (Meiji) Constitution発布発布はっぷ proclamation; promulgation翌年翌年よくねん following yearに死んだ」