このあいだの晩晩 evening九時ごろ九時ごろ around nine (o'clock)になって、与次郎が雨雨 rainのなかを突然突然 suddenly; unexpectedlyやって来てやって来て came by、あたまからあたまから right off; without preliminaries大いに大いに very much; greatly弱った弱った be in a bad wayと言う言う said; stated。見る見る look (at)と、いつになくいつになく unusually顔顔 faceの色色 colorが悪い悪い pale (complexion)。はじめは秋雨秋雨 cold autumn rainにぬれた冷たい冷たい cold空気空気 airに吹かれすぎた吹かれすぎた be overexposed to (the elements)からのことと思って思って thought; assumedいたが、座について座について take a seat見ると、悪いのは顔色ばかりではない。珍しく珍しく uncharacteristically消沈して消沈して be lethargic; seem dejectedいる。三四郎が「ぐあいでもよくないのか」と尋ねる尋ねる ask; inquireと、与次郎は鹿鹿 deerのような目目 eyesを二度二度 two times; twiceほどぱちつかせてぱちつかせて blink (several times in succession); flutter one's eyelids、こう答えた答えた answered。
「じつは金をなくしてね。困っちまった困っちまった be troubled; be in a bind」
そこで、ちょっと心配そうな心配そうな worried-looking; anxious顔をして、煙草煙草 tobacco; cigaretteの煙煙 smokeを二、三本二、三本 several columns鼻鼻 nose; nostrilsから吐いた吐いた breathed out; expelled (smoke)。三四郎は黙って黙って in silence待って待って wait; stand byいるわけにもゆかない。どういう種類種類 type; kindの金を、どこでなくなしたなくなした lost (= なくした)のかとだんだん聞いて聞いて askみると、すぐわかった。与次郎は煙草の煙の、二、三本鼻から出切る出切る dispense with; be rid ofあいだだけ控えて控えて refrain; hold backいたばかりで、そのあとは、一部始終一部始終 the whole story; all the details from beginning to endをわけもなくわけもなく easily; in no timeすらすらとすらすらと smoothly; fluently話して話して tell; relateしまった。
与次郎のなくした金は、額額 amount; sum (of money)で二十円二十円 twenty yen、ただし人人 (other) personのものである。去年去年 the prior year広田先生広田先生 Professor Hirotaがこのまえの家家 houseを借りる借りる rent時分時分 timeに、三か月三か月 three monthsの敷金敷金 security depositに窮して窮して be hard pressed (for)、足りない足りない lacking; insufficientところを一時一時 temporarily野々宮野々宮 Nonomiya (name)さんから用達って用達って lend; advance (money)もらったことがある。しかるにしかるに howeverその金は野々宮さんが、妹妹 younger sister (usually 妹)にバイオリンバイオリン violinを買って買って buyやらなくてはならないとかで、わざわざ国元国元 hometown; native placeの親父さん親父さん fatherから送らせた送らせた had (someone) sendものだそうだ。それだからきょうがきょう必要必要 needed; requiredというほどでない代りに代りに while ...、延びれば延びるほど延びれば延びるほど the longer it takes; as the time grows longerよし子よし子 Yoshiko (Nonomiya's younger sister)が困る。よし子は現に現に in fact今今 now; the presentでもバイオリンを買わずに済まして済まして manage; make doいる。広田先生が返さない返さない not return; not repayからである。先生だって返せればとうに返すんだろうが、月々月々 month by month余裕余裕 surplus; reserveが一文一文 one mon (1/1000 yen)も出ない出ない not be forthcomingうえに、月給月給 (monthly) salary以外に以外に outside of; in addition toけっしてかせがない男男 manだから、ついそれなりにしてあった。ところがこの夏夏 summer高等学校高等学校 high school (equivalent to modern-day college)の受験生受験生 test taker (entrance exams)の答案答案 examination paper調べ調べ assessment; gradingを引き受けた引き受けた accepted; took on (a task)時時 time; occasionの手当手当 pay; compensationが六十円六十円 sixty yenこのごろになってようやく受け取れた受け取れた received; took possession of。それでようやく義理義理 obligationを済ますことになって、与次郎がその使い使い errandを言いつかった言いつかった was ordered (to do something)。
「その金金 moneyをなくなしたんだからすまない」と与次郎与次郎 Yojirō (name)が言って言って relate; explainいる。じっさいすまないような顔つき顔つき (facial) expressionでもある。どこへ落とした落とした droppedんだと聞く聞く askと、なに落としたんじゃない。馬券馬券 horse (wagering) ticketを何枚何枚 a number of (flat objects)とか買って買って buy; purchase、みんななくなしてしまったのだと言う。三四郎三四郎 Sanshirō (name)もこれにはあきれ返ったあきれ返った was in disbelief; was flabbergasted。あまり無分別無分別 foolishness; follyの度度 degree; extentを通り越して通り越して go beyondいるので意見をする意見をする state one's opinion; give comment気気 inclinationにもならない。そのうえ本人本人 the person in questionが悄然として悄然として be dejected; be crestfallenいる。これをいつもの活発溌地活発溌地 vigorous and in high spiritsと比べる比べる compare (to)と与次郎なるものが二人二人 two peopleいるとしか思われないとしか思われない one could only conclude that ...。その対照対照 contrastが激しすぎる激しすぎる too extreme。だからおかしいのと気の毒気の毒 pitiableなのとがいっしょになって三四郎を襲って襲って attack; assailきた。三四郎は笑いだした笑いだした laughed。すると与次郎も笑いだした。
「まあいいや、どうかなるだろう」と言う。
「先生先生 the professorはまだ知らない知らない not know; be unawareのか」と聞くと、
「まだ知らない」
「野々宮野々宮 Nonomiya (name)さんは」
「むろん、まだ知らない」
「金はいつ受け取った受け取った received; took charge ofのか」
「金はこの月始まり月始まり beginning of the monthだから、きょうでちょうど二週間二週間 two weeksほどになる」
「馬券を買ったのは」
「受け取ったあくる日あくる日 next dayだ」
「それからきょうまでそのままにしておいたのか」
「いろいろ奔走した奔走した ran about; made various effortsができないんだからしかたがない。やむをえなければ今月今月 this month末末 end ofまでこのままにしておこう」
三四郎は立って立って get up; stand up、机机 deskの引出し引出し drawerをあけた。きのう母母 motherから来た来た came; arrivedばかりの手紙手紙 letterの中中 insideをのぞいて、
「金はここにある。今月は国国 country; one's native regionから早く早く early送ってきた送ってきた was sent」と言った。与次郎は、
「ありがたい。親愛なる親愛なる deeply cherished; beloved小川小川 Ogawa (Sanshirō's family name)君君 (suffix of familiarity for males)」と急に急に suddenly元気のいい元気のいい vigorous; energized声声 voiceで落語家落語家 professional storytellerのようなことを言った。
二人は十時十時 ten (o'clock)すぎ雨雨 rainを冒して冒して brave; take on、追分追分 Oiwake (place name)の通り通り avenue; broad streetへ出て出て go out (to)、角角 cornerの蕎麦屋蕎麦屋 soba shopへはいった。三四郎が蕎麦屋で酒酒 sakéを飲む飲む drinkことを覚えた覚えた learned; picked up (a habit)のはこの時時 time; occasionである。その晩は二人とも愉快に愉快に enjoyably; in good spirit飲んだ。勘定勘定 bill; checkは与次郎が払った払った paid。与次郎はなかなか人人 (other) peopleに払わせない払わせない not let pay; not allow to treat男男 fellowである。
それからきょうにいたるまで与次郎与次郎 Yojirō (name)は金金 moneyを返さない返さない didn't return; didn't give back。三四郎三四郎 Sanshirō (name)は正直正直 honestだから下宿屋下宿屋 lodging houseの払い払い paymentを気にして気にして worry overいる。催促催促 pressing; urgingはしないけれども、どうかしてくれればいいがと思って思って think、日日 daysを過ごす過ごす pass (time)うちに晦日晦日 last day of the month近くなった近くなった drew near; approached。もう一日一日 one day二日二日 two daysしか余っていないしか余っていない only ... were left。間違ったら間違ったら go wrong; take a bad turn下宿下宿 lodgingsの勘定勘定 bill; accountを延ばして延ばして delay; put offおこうなどという考え考え idea; thoughtはまだ三四郎の頭頭 head; mindにのぼらない。必ず必ず without fail与次郎が持って来て持って来て bring byくれる――とまではむろん彼彼 he; himを信用して信用して trustいないのだが、まあどうかくめんしてくめんして raise; come up with (money)みようくらいの親切気親切気 thoughtfulness; considerationはあるだろうと考えて考えて considerいる。広田先生広田先生 Professor Hirotaの評評 comment; opinionによると与次郎の頭は浅瀬浅瀬 shoal; shallowsの水水 waterのようにしじゅう移っている移っている be in transition; shiftのだそうだが、むやみに移るばかりで責任責任 responsibilityを忘れる忘れる forgetようでは困る困る be unacceptable。まさかそれほどの事それほどの事 such a situationもあるまい。
三四郎は二階二階 second floorの窓窓 windowから往来往来 road; streetをながめていた。すると向こう向こう beyond; in the distanceから与次郎が足早に足早に at a brisk paceやって来たやって来た approached。窓の下下 below; beneathまで来てあおむいて、三四郎の顔顔 faceを見上げて見上げて look up (at)、「おい、おるか」と言う言う called。三四郎は上上 aboveから、与次郎を見下して見下して look down (at)、「うん、おる」と言う。このばかみたような挨拶挨拶 greetingが上下上下 above and belowで一句一句 single phrase交換交換 exchangeされると、三四郎は部屋部屋 roomの中中 insideへ首首 head (lit: neck)を引っ込める引っ込める draw in。与次郎は梯子段梯子段 staircaseをとんとん上がってきた上がってきた ascended; climbed。
「待って待って waitいやしないか。君君 youのことだから下宿の勘定を心配して心配して worry aboutいるだろうと思って、だいぶ奔走した奔走した ran about; made various efforts。ばかげてばかげて be absurd; be idioticいる」
「文芸時評文芸時評 Literary Review (magazine)から原稿料原稿料 payment for a manuscriptをくれたか」
「原稿料って、原稿料はみんな取って取って took; receivedしまった」
「だってこのあいだは月末月末 end of the monthに取るように言っていたじゃないか」
「そうかな、それは間違いだろう。もう一文一文 one mon (1/1000 yen)も取るのはない」
「いやほかでこしらえたよ。君君 youが困る困る be in a bindだろうと思って思って think; consider」
「そうか。それは気の毒だそれは気の毒だ you needn't have put yourself out (on my account)」
「ところが困った事事 happeningができた。金はここにはない。君が取りにいかなくっちゃ取りにいかなくっちゃ have to go get」
「どこへ」
「じつは文芸時評文芸時評 Literary Review (magazine)がいけないから、原口原口 Haraguchi (name)だのなんだの二、三軒二、三軒 several places歩いた歩いた walked; made the rounds (to)が、どこも月末月末 end of the monthでつごうがつかない。それから最後に最後に finally; in the end里見里見 Satomi (Mineko's family name)の所所 placeへ行って行って go (to); call (at)――里見というのは知らない知らない don't know; not be familiar withかね。里見恭助恭助 Kyōsuke (Mineko's older brother)。法学士法学士 doctor of lawだ。美禰子美禰子 Mineko (name)さんのにいさんだ。あすこへ行ったところが、今度今度 this timeは留守留守 away; not at homeでやっぱり要領を得ない要領を得ない accomplish nothing; be to no avail。そのうち腹が減って腹が減って felt hungry歩くのがめんどうになったから、とうとう美禰子さんに会って会って met; saw (a person)話話 talk; discussionをした」
「なに昼昼 noon少し少し a little; a bit過ぎ過ぎ after; pastだから学校学校 schoolに行ってる時分時分 time (of day)だ。それに応接間応接間 reception room; parlorだからいたってかまやしない」
「そうか」
「それで美禰子さんが、引き受けて引き受けて agree to take care ofくれて、御用立て申します御用立て申します make a loanと言う言う saidんだがね」
「あの女女 woman; young ladyは自分の自分の one's own金があるのかい」
「そりゃ、どうだか知らない。しかしとにかく大丈夫大丈夫 okay; alrightだよ。引き受けたんだから。ありゃ妙な妙な odd; curious女で、年のいかない年のいかない not along in yearsくせにねえさんじみた事をするのが好き好き enjoyable; agreeableな性質性質 nature; dispositionなんだから、引き受けさえすれば、安心安心 relief; peace of mindだ。心配しないでもいい心配しないでもいい (there's) no need to worry。よろしく願って願って request; appeal (for)おけばかまわないかまわない (it's) no problem。ところがいちばんしまいになって、お金はここにありますが、あなたには渡せません渡せません won't give toと言うんだから、驚いた驚いた was surprised; was taken abackね。ぼくはそんなに不信用不信用 untrustworthyなんですかと聞く聞く askと、ええと言って笑って笑って smile; grinいる。いやになっちまった。じゃ小川小川 Ogawa (Sanshirō's family name)をよこしますかなとまた聞いたら、え、小川さんにお手渡しいたしましょうお手渡しいたしましょう hand toと言われた。どうでもかってにするがいい。君取りにいけるかい」
「取りにいかなければ、国国 the country; one's native placeへ電報電報 telegramでもかけるんだな」
「電報はよそう。ばかげている。いくら君だって借りにいける借りにいける go and borrowだろう」
これでようやく二十円二十円 twenty yenのらちがあいたらちがあいた was resolved; was settled。それが済む済む finish; be concludedと、与次郎与次郎 Yojirō (name)はすぐ広田先生広田先生 Professor Hirotaに関するに関する in connection to; concerning事件事件 affairs; happeningsの報告報告 report; updateを始めた始めた began; started on。
運動運動 movement; initiativeは着々着々 steadily歩を進めつつある歩を進めつつある was advancing; was moving forward。暇暇 (spare) timeさえあれば下宿下宿 lodgingsへ出かけて出かけて set out forいって、一人一人一人一人 one (person) by oneに相談する相談する consult; confer (with)。相談は一人一人にかぎる。おおぜい寄る寄る gather togetherと、めいめいが自分の自分の one's own存在存在 presence; beingを主張しよう主張しよう assert; emphasizeとして、ややともすれば異をたてる異をたてる sow discord; generate strife。それでなければ、自分の存在を閑却された閑却された be disregarded心持ち心持ち feeling; sentimentになって、初手初手 beginning; startから冷淡に冷淡に in a lukewarm manner; halfheartedlyかまえる。相談はどうしても一人一人にかぎる。その代りその代り in return暇はいる。金金 moneyもいる。それを苦にして苦にして worry aboutいては運動はできない。それから相談中相談中 during consultation; during discussionには広田先生の名前名前 nameをあまり出さない出さない not put forward; not mentionことにする。我々我々 we; usのための相談でなくって、広田先生のための相談だと思われる思われる be thought of (as); seem to beと、事事 mattersがまとまらなくなる。
与次郎はこの方法方法 method; approachで運動の歩を進めているのだそうだ。それできょうまでのところはうまくいった。西洋人西洋人 Westernerばかりではいけないから、ぜひとも日本人日本人 Japanese nationalを入れて入れて bring inもらおうというところまで話話 talk; discussionはきた。これから先先 ahead; in the futureはもう一ぺんもう一ぺん one more time寄って、委員委員 committee membersを選んで選んで select; choose、学長学長 deanなり、総長総長 president of a universityなりに、我々の希望希望 wish; desireを述べ述べ relate; expressにやるばかりである。もっとも会合会合 meeting; assemblyだけはほんの形式形式 formalityだから略して略して omit; dispense withもいい。委員になるべき学生学生 studentsもだいたいは知れている知れている be known。みんな広田先生に同情同情 sympathy (toward); consideration (of)を持って持って hold; harborいる連中連中 group; companyだから、談判談判 negotiationの模様模様 state; conditionによっては、こっちから先生先生 the professorの名名 nameを当局者当局者 men of authority; powers that beへ持ち出す持ち出す mention; bring upかもしれない。……
聞いて聞いて listenいると、与次郎一人で天下天下 the whole worldが自由になる自由になる be at one's disposal; be under one's controlように思われる。三四郎は少なからず少なからず more than a little; considerably与次郎の手腕手腕 capabilityに感服した感服した was impressed (by)。与次郎はまたこのあいだの晩晩 evening、原口原口 Haraguchiさんを先生の所所 placeへ連れてきた連れてきた brought; led (to)事について、弁じだした弁じだした began to talk (of)。
「あの晩、原口さんが、先生に文芸家文芸家 writers and artistsの会会 gathering; partyをやるから出ろと、勧めて勧めて suggest; encourageいたろう」と言う言う said; explained。三四郎はむろん覚えて覚えて remember; recallいる。与次郎の話によると、じつはあれも自身自身 oneselfの発起発起 proposalにかかるものだそうだ。その理由理由 reason; motiveはいろいろあるが、まず第一にまず第一に first of all手近な手近な near at hand; immediateところを言えば、あの会員会員 party members; participantsのうちには、大学大学 universityの文科文科 department of literatureで有力な有力な prominent; influential教授教授 professorsがいる。その男男 manと広田先生を接触させる接触させる bring into contact; introduceのは、このさい先生にとって、たいへんな便利便利 advantageである。先生は変人変人 eccentric (person)だから、求めて求めて of one's own volitionだれとも交際しない交際しない not socialize; not interact (with)。しかしこっちで相当の相当の appropriate; suitable機会機会 opportunityを作って作って create、接触させれば、変人なりに付合って付合って get along; keep company (with)ゆく。……
「そうかは田臭田臭 reek of the country (i.e. provincialism)だね。時に時に by the way; incidentally君もあの会へ出る出る attend; take partがいい。もう近いうち近いうち soon; any dayにあるはずだから」
「そんな偉い人ばかり出る所所 placeへ行った行った go (to)ってしかたがない。ぼくはよそう」
「また田臭を放った放った let loose; gave off。偉い人も偉くない人も社会社会 society; the worldへ頭を出した頭を出した appeared; emerged (into)順序順序 order; sequenceが違う違う be differentだけだ。なにあんな連中連中 group; company、博士博士 doctor; PhDとか学士学士 university graduateとかいったって、会って会って meet話して話して talk withみるとなんでもないものだよ。第一第一 first of all; to begin with向こうがそう偉いともなんとも思って思って regard; consider (as)やしない。ぜひ出ておくがいい。君の将来将来 futureのためだから」
「どこであるのか」
「たぶん上野上野 Ueno (place name)の精養軒精養軒 Seiyōken (name of high-end Western-style restaurant)になるだろう」
「ぼくはあんな所へ、はいったことがない。高い高い high (priced)会費会費 participants' feeを取る取る take; collectんだろう」
「まあ二円二円 two yenぐらいだろう。なに会費なんか、心配心配 worry; concernしなくってもいい。なければぼくがだしておくから」
三四郎はたちまち、さきの二十円二十円 twenty yenの件件 affair; matterを思い出した思い出した recalled。けれども不思議に不思議に strangely; oddlyおかしくならなかった。与次郎はそのうち銀座銀座 Ginza (place name)のどことかへ天麩羅天麩羅 tempuraを食いに行こう食いに行こう go and eatと言いだした言いだした proposed; suggested。金はあると言う。不思議な男男 fellowである。言いなり次第になる言いなり次第になる go along with anything; follow the lead of others三四郎もこれは断った断った declined。その代りその代り insteadいっしょに散歩散歩 walk; strollに出た。帰り帰り return; way backに岡野岡野 Okano Eisen (Japanese confectionery)へ寄って寄って stop by、与次郎は栗饅頭栗饅頭 chestnut manjū (steamed bun with filling)をたくさん買った買った bought; purchased。これを先生先生 professorにみやげに持ってゆく持ってゆく take withんだと言って、袋袋 bagをかかえて帰っていった。
三四郎三四郎 Sanshirō (name)はその晩晩 night与次郎与次郎 Yojirō (name)の性格性格 character; natureを考えた考えた considered。長く長く for a long time東京東京 Tōkyōにいるとあんなになるものかと思った思った thought; wondered。それから里見里見 Satomi (Mineko's family name)へ金金 moneyを借りに行く借りに行く go and borrowことを考えた。美禰子美禰子 Mineko (name)の所所 place; homeへ行く用事用事 business; errandができたのはうれしいような気気 feelingがする。しかし頭を下げて頭を下げて lower one's head; humble oneself金を借りるのはありがたくない。三四郎は生まれてから生まれてから since one was born; in one's life今日今日 today; the presentにいたるまで、人人 (another) personに金を借りた経験経験 experienceのない男男 fellowである。その上その上 on top of that; furthermore貸す貸す lendという当人当人 the person in questionが娘娘 young ladyである。独立した独立した independent人間人間 personではない。たとい金が自由になる自由になる have at one's disposalとしても、兄兄 older brotherの許諾許諾 consentを得ない得ない not receive; not get内証内証 private; confidentialの金を借りたとなると、借りる自分自分 oneselfはとにかく、あとで、貸した人の迷惑迷惑 troubleになるかもしれない。あるいはあの女女 woman; young ladyのことだから、迷惑にならないようにはじめからできているかとも思える。なにしろ会って会って meetみよう。会ったうえで、借りるのがおもしろくない様子様子 situationだったら、断わって断わって decline; turn down、しばらく下宿下宿 lodgingsの払い払い paymentを延ばして延ばして extend; delay; deferおいて、国国 country; one's native regionから取り寄せれば取り寄せれば call up; have send事事 matter; affairは済む済む be concluded。――当用当用 business at handはここまで考えて句切りをつけた句切りをつけた left off; gave it a rest。あとは散漫に散漫に vaguely; loosely美禰子の事が頭頭 head; mindに浮かんで来る浮かんで来る float up; surface。美禰子の顔顔 faceや手手 handsや、襟襟 neckや、帯帯 sashや、着物着物 kimono; dressやらを、想像にまかせて想像にまかせて let one's imagination run、乗けたり除ったりして乗けたり除ったりして manipulate; create and discard (lit: multiply and divide)いた。ことにあした会う時時 time; occasionに、どんな態度態度 manner; behaviorで、どんな事を言う言う sayだろうとその光景光景 sceneが十通り十通り ten versionsにも二十通り二十通り twenty versionsにもなって、いろいろに出て来る出て来る appear。三四郎は本来から本来から by natureこんな男である。用談用談 business matterがあって人と会見会見 interview; audienceの約束約束 appointmentなどをする時には、先方先方 the other partyがどう出るだろうということばかり想像する。自分が、こんな顔をして、こんな事を、こんな声声 voiceで言ってやろうなどとはけっして考えない。しかも会見が済むと後後 laterからきっとそのほうを考える。そうして後悔する後悔する have regrets。
ことに今夜今夜 this eveningは自分自分 oneselfのほうを想像する想像する imagine; consider余地余地 capacity; leewayがない。三四郎三四郎 Sanshirō (name)はこのあいだから美禰子美禰子 Mineko (name)を疑って疑って doubt; distrustいる。しかし疑うばかりでいっこうらちがあかない。そうかといって面と向かって面と向かって face to face、聞きただす聞きただす clarify; confirmべき事件事件 incident; affairは一つ一つ one (thing)もないのだから、一刀両断一刀両断 decisive action; kill or cure (lit: cut in two with a single stroke of the sword)の解決解決 solution; resolutionなどは思いもよらぬ思いもよらぬ cannot conceive ofことである。もし三四郎の安心安心 peace of mindのために解決が必要必要 necessary; neededなら、それはただ美禰子に接触する接触する contact; interact with機会機会 occasion; opportunityを利用して利用して use; take advantage of、先方先方 the other partyの様子様子 appearance; indicationsから、いいかげんに最後の最後の final; definitive判決判決 judgmentを自分に与えて与えて grant; allowしまうだけである。あしたの会見会見 interview; audienceはこの判決に欠くべからざる欠くべからざる indispensable; essential材料材料 material; inputである。だから、いろいろに向こう向こう the other partyを想像してみる。しかし、どう想像しても、自分につごうのいい光景光景 scene; scenarioばかり出てくる出てくる emerge; appear。それでいて、実際は実際は in reality; in factはなはだ疑わしい。ちょうどきたない所所 placeをきれいな写真写真 photographにとってながめているような気気 feeling; impressionがする。写真は写真としてどこまでも本当本当 real; authenticに違いないに違いない without doubtが、実物実物 the real thingのきたないことも争われない争われない indisputable; undeniableと一般でと一般で in the same way; in the same general manner、同じ同じ the sameでなければならぬはずの二つ二つ two (things)がけっして一致しない一致しない do not match; are not in agreement。
最後にうれしいことを思いついた。美禰子は与次郎与次郎 Yojirō (name)に金金 moneyを貸す貸す lendと言った言った said; agreed。けれども与次郎には渡さない渡さない hand over (to)と言った。じっさい与次郎は金銭金銭 moneyのうえにおいては、信用しにくい信用しにくい untrustworthy; undependable男男 man; fellowかもしれない。しかしその意味意味 meaning; reasonで美禰子が渡さないのか、どうだか疑わしい。もしその意味でないとすると、自分にははなはだたのもしいたのもしい hopeful; promisingことになる。ただ金を貸してくれるだけでも十分の十分の satisfactory; adequate好意好意 good will; favorである。自分に会って会って see; meet手渡しにしたい手渡しにしたい hand over in personというのは――三四郎はここまで己惚れて己惚れて be vain; indulge oneselfみたが、たちまち、
「やっぱり愚弄愚弄 mockery; ridiculeじゃないか」と考えだして考えだして began to think、急に急に suddenly赤くなった赤くなった turned red; became flushed。もし、ある人人 personがあって、その女女 woman; young ladyはなんのために君君 youを愚弄するのかと聞いたら聞いたら asked; inquired、三四郎はおそらく答ええなかったろう答ええなかったろう likely couldn't have answered。しいて考えてみろと言われたら、三四郎は愚弄そのものに興味興味 interest; fascinationをもっている女だからとまでは答えたかもしれない。自分の己惚れを罰する罰する punishためとはまったく考ええなかったに違いない。――三四郎は美禰子のために己惚れしめられたんだと信じて信じて believeいる。
翌日翌日 the next dayはさいわい教師教師 instructorが二人二人 two (people)欠席して欠席して be absent、昼昼 noonからの授業授業 classesが休みになった休みになった were canceled。下宿下宿 lodgingsへ帰る帰る returnのもめんどうだから、途中で途中で on the way一品料理一品料理 a la carte itemsの腹をこしらえて腹をこしらえて have a meal、美禰子美禰子 Mineko (name)の家家 houseへ行った行った went (to)。前前 front ofを通った通った passed byことはなんべんでもある。けれどもはいるのははじめてである。瓦葺瓦葺 tile roofingの門門 entry gateの柱柱 post; pillarに里見里見 Satomi (Mineko's family name)恭助恭助 Kyōsuke (name of Mineko's older brother)という標札標札 nameplateが出ている出ている be set out; be displayed。三四郎三四郎 Sanshirō (name)はここを通るたびに、里見恭助という人人 personはどんな男男 manだろうと思う思う think about; wonder。まだ会った会った meetことがない。門は締まって締まって be closed; be fastenedいる。潜り潜り side gateからはいると玄関玄関 entry hallまでの距離距離 distanceは存外存外 contrary to expectation短かい短かい short。長方形の長方形の rectangular御影石御影石 graniteが飛び飛びに飛び飛びに at intervals敷いて敷いて set out; lay outある。玄関は細い細い slender; narrowきれいな格子格子 latticeworkでたてきってたてきって closed tightlyある。ベルを押す押す push; press。取次ぎ取次ぎ answering the door; receiving visitorsの下女下女 maidservantに、「美禰子さんはお宅お宅 at homeですか」と言った言った asked時時 time; moment、三四郎は自分ながら自分ながら in spite of oneself気恥ずかしい気恥ずかしい embarrassed; awkwardような妙な妙な strange; curious心持ち心持ち feeling; sensationがした。ひとの玄関で、妙齢の女妙齢の女 young ladyの在否在否 presenceを尋ねた尋ねた inquire (about)ことはまだない。はなはだ尋ねにくい気気 feelingがする。下女のほうは案外案外 unexpectedlyまじめである。しかもうやうやしい。いったん奥奥 interiorへはいって、また出て来て出て来て come out; appear、丁寧に丁寧に politelyお辞儀お辞儀 bowをして、どうぞと言うからついて上がる上がる enter (up into)と応接間応接間 reception room; parlorへ通した通した led (to)。重い重い heavy窓掛け窓掛け curtainsの掛かって掛かって be hungいる西洋室西洋室 Western-style roomである。少し少し a little; a bit暗い暗い dark; dim。
下女はまた、「しばらく、どうか……」と挨拶して挨拶して make a salutation出て行った出て行った went out; exited。三四郎は静かな静かな quiet部屋部屋 roomの中中 middleに席を占めた席を占めた took a seat。正面正面 directly aheadに壁壁 wallを切り抜いた切り抜いた be cut into小さい小さい small暖炉暖炉 fireplace; hearthがある。その上上 aboveが横横 sideways; horizontalに長い長い long鏡鏡 mirrorになっていて前に蝋燭立蝋燭立 candle holderが二本二本 two (columns)ある。三四郎は左右左右 left and rightの蝋燭立のまん中に自分の顔顔 faceを写して見て写して見て saw reflected; looked at in the mirror、またすわった。
すると奥奥 interiorの方方 directionでバイオリンバイオリン violinの音音 soundがした。それがどこからか、風風 wind; breezeが持って来て持って来て carry in; bring捨てて行った捨てて行った took away; discardedように、すぐ消えて消えて vanish; dissipateしまった。三四郎三四郎 Sanshirō (name)は惜しい惜しい regrettable; disappointing気気 feelingがする。厚く厚く thickly張った張った upholstered椅子椅子 chairの背背 backによりかかって、もう少し少し a little; a bitやればいいがと思って思って think耳を澄まして耳を澄まして listen carefully; strain one's earsいたが、音はそれぎりでやんだ。約約 about; approximately一分一分 one minuteもたつうちに、三四郎はバイオリンの事の事 concerning ...を忘れた忘れた forgot。向こう向こう the other side; the opposite sideにある鏡鏡 mirrorと蝋燭立蝋燭立 candle holdersをながめている。妙に妙に strangely; curiously西洋の西洋の Western; occidentalにおいがする。それからカソリックカソリック Catholicの連想連想 association; suggestion; hint ofがある。なぜカソリックだか三四郎にもわからない。その時時 time; momentバイオリンがまた鳴った鳴った sounded; rang out。今度今度 this timeは高い高い high音音 (musical) noteと低い低い low音が二、三度二、三度 several times急に急に rapidly続いて続いて in succession響いた響いた reverberated。それでぱったりぱったり suddenly; abruptly消えてしまった。三四郎はまったく西洋の音楽音楽 musicを知らない知らない not know; not be familiar with。しかし今今 (just) nowの音は、けっして、まとまったものの一部分一部分 one part ofをひいたとは受け取れない受け取れない cannot take (as); cannot interpret (as)。ただ鳴らしただけである。その無作法に無作法に curtly; indecorouslyただ鳴らしたところが三四郎の情緒情緒 mood; spiritによく合った合った fit; agreed with。不意に不意に unexpectedly; out of the blue天天 the heavensから二、三粒二、三粒 several (spheres)落ちて来た落ちて来た came falling down; dropped、でたらめのでたらめの random; haphazard雹雹 hailのようである。
女女 woman; young ladyの声声 voiceはうしろで聞こえた聞こえた sounded; was heard。三四郎は振り向かなければならなかった振り向かなければならなかった had to turn around。女と男男 man; fellowはじかにじかに directly顔を見合わせた顔を見合わせた looked at each other。その時女は廂廂 eaves - hair style with curled front overhang (short for 廂髪)の広い広い wide; broad髪髪 (head of) hairをちょっと前前 forwardに動かして動かして move礼礼 salutationをした。礼をするにはおよばないくらいに親しい親しい familiar; intimate態度態度 manner; behaviorであった。男のほうはかえって椅子椅子 chairから腰を浮かして腰を浮かして stand up頭を下げた頭を下げた bowed。女は知らぬふうをして、向こうへ回って回って circle round to、鏡を背に、三四郎の正面正面 directly in frontに腰をおろした。
女女 sheは「まあ」と言った。まあと言ったわりに顔顔 faceは驚いていない驚いていない not showing surprise。かえって笑って笑って smile; grinいる。すこしたって、「悪い悪い bad; no goodかたね」とつけ加えたつけ加えた added。三四郎は答えずにいた。
「馬券であてるのは、人人 a personの心心 heart; soul; feelingsをあてるよりむずかしいじゃありませんか。あなたは索引のついている索引のついている be indexed; be parsed人の心さえあててみようとなさらないのん気なのん気な carefree; happy-go-luckyかただのに」
「いやじゃないが、お兄いさんお兄いさん older brotherに黙ってに黙って without telling、あなたから借りちゃ借りちゃ borrow、好くない好くない not good; ill advisedからです」
「どういうわけで? でも兄兄 older brotherは承知している承知している is aware; is in agreementんですもの」
「そうですか。じゃ借りてもいい。――しかし借りないでもいい。家家 homeへそう言って言って ask; requestやりさえすれば、一週間一週間 one weekぐらいすると来ます来ます come; arriveから」
「御迷惑御迷惑 trouble; botherなら、しいて……」
美禰子美禰子 Mineko (name)は急に急に suddenly冷淡冷淡 cool; detachedになった。今今 now; the presentまでそばにいたものが一町一町 1 chō (about 110 meters; about 120 yards)ばかり遠のいた遠のいた became distant; backed away (from)気気 feelingがする。三四郎三四郎 Sanshirō (name)は借りておけばよかったと思った思った thought。けれども、もうしかたがない。蝋燭立蝋燭立 candle holderを見て見て look atすましている。三四郎は自分から進んで自分から進んで of one's own accord、ひとのきげんをとったことのない男男 manである。女も遠ざかったぎり近づいて来ない近づいて来ない not come near; not come closer。しばらくするとまた立ち上がった立ち上がった stood up。窓窓 windowから戸外戸外 outsideをすかして見てすかして見て look through to; peer through at、
「降りそう降りそう look to rain; look like rainもありませんね」と言う。三四郎も同じ同じ same調子調子 tone (of voice)で、「降りそうもありません」と答えた答えた answered。
「降らなければ、私私 I; meちょっと出て来よう出て来よう go out (usually 出て来よう)かしら」と窓の所所 placeで立ったまま言う。三四郎は帰ってくれ帰ってくれ please go; please leaveという意味意味 meaning; nuanceに解釈した解釈した understood; took as。光る光る shine; be bright絹絹 silkを着換えた着換えた changed (clothes)のも自分のためではなかった。
「もう帰りましょう」と立ち上がった。美禰子は玄関玄関 entry hallまで送って来た送って来た see a person (to); accompany a person (as far as)。沓脱沓脱 platform for removing (or putting on) shoesへ降りて降りて descend; step down (to)、靴靴 shoesをはいていると、上上 aboveから美禰子が、
「そこまでごいっしょに出ましょう出ましょう go out。いいでしょう」と言った。三四郎は靴の紐紐 (shoe) lacesを結びながら結びながら tie、「ええ、どうでも」と答えた。女女 young ladyはいつのまにか、和土和土 hard-packed (clay) floorの上へ下りた下りた descended; stepped down (to)。下りながら三四郎の耳耳 earのそばへ口口 mouthを持ってきて持ってきて bring to、「おこっていらっしゃるの」とささやいた。ところへ下女下女 maidservantがあわてながら、送りに送りに to see (someone) off出て来た出て来た came out; appeared。
二人二人 two (people)は半町半町 half a chō (about 50 meters; about 60 yards)ほど無言のまま無言のまま without words; in silence連れだって来た連れだって来た accompanied (each other)。そのあいだ三四郎三四郎 Sanshirō (name)はしじゅう美禰子美禰子 Mineko (name)の事の事 concerning ...を考えて考えて think about; considerいる。この女女 woman; young ladyはわがままに育った育った was raised; was brought upに違いないに違いない no doubt ...。それから家庭家庭 home; householdにいて、普通の普通の usual; ordinary女性女性 woman; female以上以上 more thanの自由自由 freedomを有して有して have; possess、万事万事 all things意のごとく意のごとく as one wishes; as one likesふるまうふるまう behave; conduct oneselfに違いない。こうして、だれの許諾許諾 consentも経ずに経ずに without going through; bypassing、自分自分 oneselfといっしょに、往来往来 road; streetを歩く歩く walk; strollのでもわかる。年寄り年寄り elder; agedの親親 parentsがなくって、若い若い young兄兄 (older) brotherが放任放任 noninterference; giving free reign主義主義 principle; approachだから、こうもできるのだろうが、これがいなかであったらさぞ困る困る be a problem; cause troubleことだろう。この女に三輪田三輪田 Miwata (family name)のお光お光 Omitsu (name)さんのような生活生活 lifeを送れ送れ pass (one's life); spend (one's time)と言ったら言ったら told; requested、どうする気気 intentionかしらん。東京東京 Tōkyōはいなかと違って違って be different、万事があけ放しあけ放し wide openだから、こちらの女は、たいていこうなのかもわからないが、遠くから遠くから from a distance想像して想像して imagine; inferみると、もう少し少し a little; a bitは旧式旧式 old style; traditionalのようでもある。すると与次郎与次郎 Yojirō (name)が美禰子をイブセンイブセン Henrik Johan Ibsen (Norwegian Playwright, 1828 – 1906, whose works include A Doll's House)流流 style; mannerと評した評した remarked; commentedのもなるほどと思い当る思い当る suddenly understand。ただし俗礼俗礼 (societal) conventions; normsにかかわらないところだけがイブセン流なのか、あるいは腹の底腹の底 deep in one's heartの思想思想 thoughts; ideasまでも、そうなのか。そこはわからない。
そのうち本郷本郷 Hongō (place name)の通り通り thoroughfareへ出た出た came (to)。いっしょに歩いている二人は、いっしょに歩いていながら、相手相手 companion; the other partyがどこへ行く行く go (to)のだか、まったく知らない知らない not know。今今 now; this point (in time)までに横町横町 side street; laneを三つ三つ three (things)ばかり曲がった曲がった turned (through)。曲がるたびに、二人の足足 feet; legsは申し合わせたように申し合わせたように as if by prior agreement無言のまま同じ同じ same方角方角 directionへ曲がった。本郷の通りを四丁目四丁目 Yonchōme (fourth sub-district)の角角 cornerへ来る来る come (to)途中で途中で on the way、女が聞いた聞いた asked。
「どこへいらっしゃるの」
「あなたはどこへ行くんです」
二人はちょっと顔を見合わせた顔を見合わせた looked at each other。三四郎はしごくまじめである。女はこらえきれずにまた白い白い white歯歯 teethをあらわした。
「いっしょにいらっしゃい」
二人は四丁目の角を切り通し切り通し roadcut (road cut through a hill)の方方 directionへ折れた折れた turned (toward)。三十間三十間 30 ken (about 55 meters; about 60 yards)ほど行くと、右側右側 right sideに大きな大きな large西洋館西洋館 Western-style buildingがある。美禰子はその前前 front ofにとまった。帯帯 sashの間間 (obi) foldsから薄い薄い thin帳面帳面 account bookと、印形印形 seal (for certifying transactions)を出して出して take out、
三四郎三四郎 Sanshirō (name)は手手 handを出して出して put out; put forward、帳面帳面 account bookを受取った受取った took; received。まん中まん中 middleに小口小口 small amount; small sum当座当座 current account預金通帳預金通帳 (deposit) passbook; bankbook (usually 預金通帳)とあって、横横 sideに里見里見 Satomi (Mineko's family name)美禰子美禰子 Mineko (name)殿殿 (formal suffix - used with business customers)と書いてある書いてある be written; be inscribed。三四郎は帳面と印形印形 seal (for certifying transactions)を持った持った hold; haveまま、女女 woman; young ladyの顔顔 faceを見て見て look at立った立った stood (in place); didn't move。
「三十円三十円 thirty yen」と女が金高金高 sum of moneyを言った言った stated。あたかも毎日毎日 every day銀行銀行 bankへ金金 moneyを取りに取りに to (go) get行きつけた行きつけた went regularly; frequented者者 personに対するに対する directed toward口ぶり口ぶり manner of speakingである。さいわい、三四郎は国国 country; one's native placeにいる時分時分 period (of time)、こういう帳面を持ってたびたび豊津豊津 Toyotsu (place name)まで出かけた出かけた set out for; traveled toことがある。すぐ石段石段 stone stepsを上って上って climbed; ascended、戸戸 doorをあけて、銀行銀行 bankの中中 insideへはいった。帳面と印形を係りの者係りの者 person on duty; clerkに渡して渡して hand to、必要の必要の required; necessary金額金額 amount (of money)を受け取って受け取って receive出て出て come outみると、美禰子は待って待って waitいない。もう切り通し切り通し roadcut (road cut through a hill)の方方 directionへ二十間二十間 20 ken (about 36 meters; about 40 yards)ばかり歩きだして歩きだして set out walkingいる。三四郎は急いで急いで hurrying; in a rush追いついた追いついた caught up。すぐ受け取ったものを渡そうとして、ポッケットへ手を入れる入れる put into; insertと、美禰子が、
「丹青会丹青会 Tanseikai (name of a group)の展覧会展覧会 exhibitionを御覧になって御覧になって (have you) seen」と聞いた聞いた asked。
「まだ見ません」
「招待券招待券 complimentary ticketsを二枚二枚 two (tickets)もらったんですけれども、つい暇暇 leisure timeがなかったものだからまだ行かずにいたんですが、行ってみましょうか」
「行ってもいいです」
「行きましょう。もうじき閉会閉会 closure; end (of an event)になりますから。私私 I; me、一ぺん一ぺん one time; onceは見ておかないと原口原口 Haraguchi (name)さんに済まない済まない wrongful (toward someone)のです」
「原口さんが招待券をくれたんですか」
「ええ。あなた原口さんを御存じ御存じ acquainted (with someone)なの?」
「広田先生広田先生 Professor Hirotaの所所 place; homeで一度一度 once会いました会いました met」
「おもしろいかたでしょう。馬鹿囃子馬鹿囃子 festival music; parade musicを稽古なさる稽古なさる practice; train inんですって」
「このあいだは鼓鼓 tsuzumi (hourglass drum whose tension can be adjusted while playing)をならいたいと言っていました。それから――」
「ええ、高等高等 first class; high gradeモデルモデル modelなの」と言った。男男 heはこれより以上にこれより以上に beyond this気の利いた気の利いた clever; tactfulことが言えない性質性質 nature; dispositionである。それで黙って黙って fall silentしまった。女女 sheはなんとか言ってもらいたかったらしい。
三四郎三四郎 Sanshirō (name)はまた隠袋隠袋 pocketへ手手 handを入れた入れた put in; inserted。銀行銀行 bankの通帳通帳 account book (usually 通帳)と印形印形 seal (for certifying transactions)を出して出して take out; produce、女に渡した渡した handed (to)。金金 moneyは帳面の間間 midstにはさんでおいたはずである。しかるに女が、
「お金は」と言った。見る見る lookと、間にはない。三四郎はまたポッケットを探った探った searched。中中 insideから手ずれ手ずれ wear from handlingのした札札 (bank) notesをつかみ出した。女は手を出さない。
「預かって預かって take charge of; keepおいてちょうだい」と言った。三四郎はいささか迷惑迷惑 bother; burdenのような気気 feelingがした。しかしこんな時時 time; occasionに争う争う quarrel; disputeことを好まぬ好まぬ prefer to avoid男男 man; fellowである。そのうえ往来往来 road; streetだからなおさら遠慮遠慮 restraintをした。せっかく握った握った grasp; clutch (in one's hand)札をまたもとの所所 place; locationへ収めて収めて put away; put back、妙な妙な odd; strange女だと思った思った thought。
学生学生 studentsが多く多く in great number通る通る pass by; pass through。すれ違うすれ違う pass (each other)時にきっと二人二人 two (people)を見る。なかには遠くから遠くから from a distance目をつけて目をつけて have an eye on; take notice of来る来る come; approach者者 personsもある。三四郎は池の端池の端 Ikenohata (place name)へ出る出る arrive (at)までの道道 road; wayをすこぶる長く長く lengthy感じた感じた felt。それでも電車電車 (electric) trainに乗る乗る ride気にはならない。二人とものそのそ歩いて歩いて walk; strollいる。会場会場 event siteへ着いた着いた arrivedのはほとんど三時三時 three (o'clock)近く近く nearly; almostである。妙な看板看板 sign; placardが出ている。丹青会丹青会 Tanseikai (name of a group)という字字 charactersも、字の周囲周囲 periphery; surroundingについている図案図案 design; graphicsも、三四郎の目にはことごとく新しい新しい novel; fresh。しかし熊本熊本 Kumamoto (Sanshirō's home region)では見ることのできない意味意味 meaningで新しいので、むしろ一種異様の一種異様の eccentric; peculiar感感 feeling; impressionがある。中はなおさらである。三四郎の目にはただ油絵油絵 oil paintingと水彩画水彩画 water color paintingの区別区別 distinctionが判然と判然と clearly映ずる映ずる appear; be apparentくらいのものにすぎない。
それでも好悪好悪 likes and dislikesはある。買って買って buy; purchaseもいいと思うのもある。しかし巧拙巧拙 skill; craftsmanshipはまったくわからない。したがって鑑別力鑑別力 ability to judgeのないものと、初手初手 beginning; startからあきらめた三四郎は、いっこう口をあかない口をあかない make no comment; offer no opinion。
長い間長い間 long time外国外国 foreign landsを旅行して旅行して travel歩いた歩いた wandered; traversed兄妹兄妹 (older) brother and (younger) sisterの絵絵 paintings; worksがたくさんある。双方双方 both (parties)とも同じ同じ same姓姓 surname; family nameで、しかも一つ所一つ所 one place; the same placeに並べて並べて set out; arrangeかけてある。美禰子はその一枚一枚 one (painting)の前前 front ofにとまった。
「ベニスベニス Veniceでしょう」
これは三四郎三四郎 Sanshirō (name)にもわかった。なんだかベニスらしい。ゴンドラゴンドラ gondolaにでも乗って乗って ride (in)みたい心持ち心持ち feelingがする。三四郎は高等学校高等学校 high school (equivalent to modern-day college)にいる時分時分 period; timeゴンドラという字字 wordを覚えた覚えた learned。それからこの字が好き好き favored; to one's likingになった。ゴンドラというと、女女 woman; young ladyといっしょに乗らなければすまないような気気 feelingがする。黙って黙って in silence; without speaking青い青い blue水水 waterと、水と左右左右 left and right; both sidesの高い高い tall家家 housesと、さかさに映る映る be reflected家の影影 shape; formと、影の中中 middle; insideにちらちらする赤い赤い red片片 piece; chipとをながめていた。すると、
三四郎は一歩一歩 one step退いて退いて step back; move back、今今 (just) now通って来た通って来た passed through道道 way; pathの片側片側 one sideを振り返って見た振り返って見た looked back at。同じように外国の景色景色 sceneryをかいたものが幾点となく幾点となく some number ofかかっている。
「違う違う differentんですか」
「一人一人 one; single (person)と思って思って thinkいらしったの」
「ええ」と言って、ぼんやりしている。やがて二人二人 two (people)が顔を見合わした顔を見合わした looked at each other。そうして一度に一度に at the same time笑いだした笑いだした laughed。美禰子は、驚いた驚いた surprisedように、わざと大きな大きな large目目 eyesをして、しかもいちだんと調子を落とした調子を落とした subdued小声小声 whisper; murmurになって、
「ずいぶんね」と言いながら、一間一間 1 ken (about 2 meters; about 2 yards)ばかり、ずんずんずんずん quickly; rapidly先先 aheadへ行って行って proceedしまった。三四郎は立ちどまったまま立ちどまったまま standing still; rooted in place、もう一ぺんもう一ぺん one more timeベニスの掘割り掘割り canal; waterwayをながめだした。先へ抜けた抜けた slipped (ahead)女は、この時時 time; moment振り返った。三四郎は自分の自分の one's own方方 directionを見ていない。女は先へ行く足足 feet; stepsをぴたりと留めた留めた stopped。向こう向こう beyond; aheadから三四郎の横顔横顔 (facial) profileを熟視して熟視して gaze at; scrutinizeいた。
「里見さん」
だしぬけにだしぬけに all of a sudden; unexpectedlyだれか大きな声大きな声 loud voiceで呼んだ呼んだ called out to者者 personがある。
美禰子美禰子 Mineko (name)も三四郎三四郎 Sanshirō (name)も等しく等しく equally; alike顔を向け直した顔を向け直した turned to look。事務室事務室 officeと書いた書いた be written; be posted; be labeled入口入口 entranceを一間一間 1 ken (about 2 meters; about 2 yards)ばかり離れて離れて separated from; away from、原口原口 Haraguchi (name)さんが立って立って standいる。原口さんのうしろに、少し少し a little; partially重なり合って重なり合って hidden; obscured (from view)、野々宮野々宮 Nonomiya (name)さんが立っている。美禰子は呼ばれた呼ばれた be called by原口よりは、原口より遠く遠く distantの野々宮を見た見た looked at。見るやいなや、二、三歩二、三歩 several stepsあともどりをして三四郎のそばへ来た来た came (to)。人人 people; othersに目立たぬ目立たぬ indiscernible; unnoticeableくらいに、自分の自分の one's own口口 mouthを三四郎の耳耳 earへ近寄せた近寄せた drew near to; brought near to。そうして何か何か somethingささやいた。三四郎には何を言った言った saidのか、少しもわからない。聞き直そうとする聞き直そうとする try to ascertain (by asking someone to repeat)うちに、美禰子は二人二人 two (people)の方方 directionへ引き返していった引き返していった went back (toward)。もう挨拶挨拶 greeting; salutationをしている。野々宮は三四郎に向かって、
「妙な妙な odd; curious連連 companion; companyと来ましたね」と言った。三四郎が何か答えようとする答えようとする try to respond; be about to answerうちに、美禰子が、
「似合う似合う suit; matchでしょう」と言った。野々宮さんはなんとも言わなかった。くるりとうしろを向いた。うしろには畳一枚畳一枚 one tatami matほどの大きな大きな large絵絵 paintingがある。その絵は肖像画肖像画 portraitである。そうしていちめんに黒い黒い black; dark。着物着物 clothing; outfitも帽子帽子 hatも背景背景 backgroundから区別区別 distinctionのできないほど光線光線 lightを受けて受けて receiveいないなかに、顔ばかり白い白い white; pale。顔はやせて、頬頬 cheekの肉肉 fleshが落ちて落ちて be fallen; be sunkenいる。
「模写模写 copy; reproductionですね」と野々宮さんが原口さんに言った。原口は今今 now; at presentしきりに美禰子に何か話して話して discussいる。――もう閉会閉会 close of an eventである。来観者来観者 visitors (to an exhibit)もだいぶ減った減った become fewer; be diminished。開会開会 opening of an eventの初め初め beginning; initial periodには毎日毎日 every day事務所事務所 officeへ来ていたが、このごろはめったに顔を出さないめったに顔を出さない rarely put in an appearance。きょうはひさしぶりに、こっちへ用用 businessがあって、野々宮さんを引っ張って来た引っ張って来た brought alongところだ。うまく出っくわした出っくわした met (by chance); bumped intoものだ。この会会 event; exhibitをしまうと、すぐ来年来年 next yearの準備準備 preparationにかからなければならないから、非常に非常に exceedingly忙しい忙しい busy。いつもは花花 flowers; blossomsの時分時分 period (of time)に開く開く open; hold (an event)のだが、来年は少し会員会員 membersのつごうで早く早く earlyするつもりだから、ちょうど会を二つ二つ two (things)続けて続けて in succession開くと同じ同じ same; equivalentことになる。必死の必死の frantic; desperate勉強勉強 diligence; hard workをやらなければならない。それまでにぜひ美禰子の肖像肖像 portraitをかきあげてしまうつもりである。迷惑迷惑 burden; impositionだろうが大晦日大晦日 New Year's Eveでもかかしてくれ。
「その代りその代り in exchangeここん所ここん所 this place; hereへかけるつもりです」
「じゃ、こうなさい。この奥奥 interiorの別室別室 special roomにね。深見深見 Fukami (name)さんの遺画遺画 legacy worksがあるから、それだけ見て見て look at、帰り帰り return (trip); one's way homeに精養軒精養軒 Seiyōken (name of high-end Western-style restaurant)へいらっしゃい。先へ先へ beforehand; in advance行って行って go; proceed (to)待って待って waitいますから」
「ありがとう」
「深見さんの水彩水彩 watercolorsは普通の普通の usual; ordinary水彩のつもりで見ちゃいけませんよ。どこまでも深見さんの水彩なんだから。実物実物 actual objectsを見る気気 intentionにならないで、深見さんの気韻気韻 dignity; refinementを見る気になっていると、なかなかおもしろいところが出てきます出てきます come out; become apparent」と注意して注意して advise、原口原口 Haraguchi (name)は野々宮野々宮 Nonomiya (name)と出て行った。美禰子美禰子 Mineko (name)は礼を言って礼を言って express one's thanksその後影後影 receding formを見送った見送った saw off; watched go。二人二人 two (people)は振り返らなかった振り返らなかった didn't look back。
女女 woman; young ladyは歩をめぐらして歩をめぐらして redirecting one's steps、別室へはいった。男男 man; fellowは一足一足 one stepあとから続いた続いた followed。光線光線 light; lightingの乏しい乏しい meager; sparse暗い暗い dark; dim部屋部屋 roomである。細長い細長い long and narrow壁壁 wallに一列一列 one rowにかかっている深見先生先生 teacher; masterの遺画を見ると、なるほど原口さんの注意したごとくほとんど水彩ばかりである。三四郎三四郎 Sanshirō (name)が著しく著しく considerably; strikingly感じた感じた feltのは、その水彩の色色 colorsが、どれもこれも薄くて薄くて thin; attenuated、数数 number; varietyが少なくって少なくって few、対照対照 contrastに乏しくって、日向日向 sunlight; the light of dayへでも出さない出さない not expose (to)と引き立たない引き立たない don't stand out; aren't activeと思う思う thinkほど地味に地味に modestly; subtlyかいてあるという事事 fact; situationである。その代りその代り on the other hand; at the same time筆筆 brushがちっとも滞って滞って be stagnant; be stuckいない。ほとんど一気呵成に一気呵成に in a single stroke; without pause仕上げた仕上げた finished; completed趣趣 appearance; aspectがある。絵の具絵の具 paint; colorsの下下 beneath; belowに鉛筆鉛筆 pencilの輪郭輪郭 outlineが明らかに明らかに clearly透いて見える透いて見える show throughのでも、洒落な洒落な frank; candid画風画風 style of paintingがわかる。人間人間 human (figures)などになると、細くて長くて、まるで殻竿殻竿 husk flail (for threshing grain - series of hinged rods) のようである。ここにもベニスベニス Veniceが一枚一枚 one (painting)ある。
女はまたまっ白なまっ白な pure white歯歯 teethをあらわした。けれどもなんとも言わない。
「用用 matter of importanceでなければ聞かなくってもいいです」
「用じゃないのよ」
三四郎三四郎 Sanshirō (name)はまだ変な変な odd; peculiar顔顔 (facial) expressionをしている。曇った曇った cloudy; overcast秋秋 autumnの日日 dayはもう四時四時 four (o'clock)を越した越した passed。部屋部屋 roomは薄暗くなってくる薄暗くなってくる grow dim。観覧人観覧人 visitors; viewersはきわめて少ない少ない few。別室別室 special roomのうちには、ただ男女二人男女二人 couple; pair (male and female)の影影 forms; figuresがあるのみである。女は絵絵 paintingを離れて離れて move away from、三四郎の真正面真正面 right in frontに立った。
「野々宮野々宮 Nonomiya (name)さん。ね、ね」
「野々宮さん……」
「わかったでしょう」
美禰子美禰子 Mineko (name)の意味意味 meaningは、大波大波 large waveのくずれるごとく一度に一度に at once; in an instant三四郎の胸胸 bosom; heartを浸した浸した soaked; swamped。
「野々宮さんを愚弄した愚弄した teased; toyed withのですか」
「なんで?」
女の語気語気 tone; manner of speakingはまったく無邪気無邪気 innocenceである。三四郎は忽然として忽然として all of a sudden; in an instant、あとを言う勇気勇気 courage; nerveがなくなった。無言のまま無言のまま without speaking; in silence二、三歩二、三歩 several steps動きだした動きだした began to move; started away。女はすがるようについて来たついて来た followed after。
「あなたを愚弄したんじゃないのよ」
三四郎はまた立ちどまった。三四郎は背の高い背の高い tall (in stature)男男 manである。上上 aboveから美禰子を見おろした。
「ほんとうにいいの?」と美禰子美禰子 Mineko (name)が小さい小さい small; low (voice)声声 voiceで聞いた聞いた asked。向こう向こう beyond; the other directionから二、三人連二、三人連 a small group; a party of several peopleの観覧者観覧者 visitors; viewersが来る来る came; approached。
「ともかく出ましょう出ましょう leave; go out」と三四郎三四郎 Sanshirō (name)が言った言った said; replied。下足下足 outdoor shoes (exchanged for slippers on entering)を受け取って受け取って received; retrieved、出ると戸外戸外 outdoors; outsideは雨雨 rainだ。
「精養軒精養軒 Seiyōken (name of high-end Western-style restaurant)へ行きます行きます go (to)か」
美禰子は答えなかった答えなかった didn't answer。雨のなかをぬれながら、博物館博物館 museum前前 front ofの広い広い wide; open原原 fieldのなかに立った立った stood。さいわい雨は今今 (just) now降りだした降りだした started fallingばかりである。そのうえ激しく激しく strong; intenseはない。女女 woman; young ladyは雨のなかに立って、見回しながら見回しながら looking around、向こうの森森 woods; treesをさした。
「あの木木 treesの陰陰 shade; shelterへはいりましょう」
少し少し a little; a bit待てば待てば waitやみそうである。二人二人 two (people)は大きな大きな large杉杉 cedar (tree)の下下 beneathにはいった。雨を防ぐ防ぐ avoid; protect (against)にはつごうのよくない木である。けれども二人とも動かない動かない didn't move。ぬれても立っている。二人とも寒くなった寒くなった felt cold; became chilled。女が「小川小川 Ogawa (Sanshirō's family name)さん」と言う。男男 man; fellowは八の字を寄せて八の字を寄せて frown; knit one's brows、空空 skyを見ていた顔顔 faceを女の方方 directionへ向けた向けた turned toward。
女は瞳を定めて瞳を定めて fix one's gaze、三四郎を見た。三四郎はその瞳のなかに言葉言葉 wordsよりも深き深き deep; profound訴え訴え appealを認めた認めた recognized。――必竟必竟 after allあなたのためにした事事 act; deedじゃありませんかと、二重瞼二重瞼 contoured eyelidsの奥奥 interior; depthsで訴えている。三四郎は、もう一ぺんもう一ぺん once more、
「だから、いいです」と答えた。
雨はだんだん濃くなった濃くなった became thick; became heavy; intensified。雫雫 dropsの落ちない落ちない don't fall場所場所 placeはわずかしかない。二人はだんだん一つ所一つ所 one place; the same placeへかたまってきた。肩肩 shoulderと肩とすれ合うすれ合う brush togetherくらいにして立ちすくんで立ちすくんで be huddledいた。雨の音音 soundのなかで、美禰子が、
「さっきのお金お金 moneyをお使いなさいお使いなさい please make use of」と言った。