Sanshirō - Chapter 1

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うとうととしてうとうととして nap; doze off目がさめるがさめる wake upおんな woman; young ladyはいつのまにか、隣のとなりの next to; neighboringじいさんとはなし talk; conversation始めてはじめて start; beginいる。このじいさんはたしかに前のまえの previous前のえき stationから乗ったった boardedいなか者いなかもの person from the countryである。発車発車はっしゃ departure; leaving the stationまぎわにまぎわに just before; on the brink of頓狂な頓狂とんきょうな flurried; wildこえ voice出してして put forth駆け込んで来てんでて came running into、いきなり肌をぬいだはだをぬいだ stripped to the waist思ったらおもったら noticed; realized背中背中せなか back (body)お灸きゅう moxibustion (burning moxa on the skin to treat ailments)のあとがいっぱいあったので、三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)記憶記憶きおく memory残ってのこって remainいる。じいさんがあせ sweatをふいて、肌を入れてはだれて put one's shirt (back) on、女の隣に腰をかけたこしをかけた sat downまでよく注意して注意ちゅういして attentively見てて observe; watchいたくらいである。

女とは京都京都きょうと Kyōtoからの相乗り相乗あいのり riding togetherである。乗ったとき time; occasionから三四郎の目についたについた caught one's attention第一第一だいいち first of allいろ color (complexion)黒いくろい dark。三四郎は九州九州きゅうしゅう Kyūshūから山陽線山陽線さんようせん Sanyō (train) line移ってうつって transferred (to)、だんだん京大阪京大阪きょうおおさか Kyōto-Ōsaka region近づいて来るちかづいてる draw near to; approachうちに、女の色が次第に次第しだいに gradually白くしろく light; fair (complexion)なるのでいつのまにか故郷故郷こきょう one's home town遠のくとおのく move away from; leave behindような哀れあわれ sadness; emotion感じてかんじて feel; perceiveいた。それでこの女が車室車室しゃしつ (train) compartmentにはいって来た時は、なんとなく異性異性いせい opposite sex味方味方みかた ally; compatriot得たた gained心持ち心持こころもち feelingがした。この女の色はじっさい九州色であった。

三輪田三輪田みわた Miwata (family name)お光みつ Omitsu (name)さんと同じおなじ same; similar色である。くに one's native country立つつ depart fromまぎわまでは、お光さんは、うるさいうるさい pesky; bothersome女であった。そばを離れるはなれる distance oneself fromのが大いにおおいに greatlyありがたかった。けれども、こうしてみると、お光さんのようなのもけっして悪くはないわるくはない not so bad

ただ顔だちかおだち facial features; looksからいうと、この女のほうがよほど上等上等じょうとう superior; more highly refinedである。くち mouth締まりまり tightness; firmnessがある。目がはっきりしている。ひたい foreheadがお光さんのようにだだっ広くないだだっぴろくない not unduly wide。なんとなくいい心持ちにできあがっている。それで三四郎は五分五分ごふん five minutes一度一度いちど one time; onceぐらいは目を上げてげて raise; lift女のほう directionを見ていた。時々時々ときどき sometimesは女と自分の自分じぶんの one's own目がゆきあたることもあった。じいさんが女の隣へ腰をかけた時などは、もっとも注意して、できるだけ長いながい long; lengthyあいだ、女の様子様子ようす form; appearanceを見ていた。その時女はにこりと笑ってわらって smiled; grinned、さあおかけと言ってって say; remarkじいさんにせき seat; room to sit譲ってゆずって accommodate; make room forいた。それからしばらくして、三四郎は眠くねむく sleepy; drowsyなって寝てて sleepしまったのである。

その寝てて sleepいるあいだにおんな woman; young ladyとじいさんは懇意になって懇意こんいになって become friendsはなし talk; conversation始めたはじめた started; beganものとみえる。 eyesをあけた三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)黙ってだまって in silence二人二人ふたり two (people)の話を聞いていて listen (to)いた。女はこんなことを言うう say; relate。――

子供子供こども child; children玩具玩具おもちゃ toysはやっぱり広島広島ひろしま Hiroshimaより京都京都きょうと Kyōtoのほうが安くってやすくって lower in price; less expensiveいいものがある。京都でちょっとよう businessがあって降りたりた disembarkedついでに、蛸薬師蛸薬師たこやくし Tako Yakushi temple (officially called Eifukuji)のそばで玩具を買って来たってた went and bought久しぶりひさしぶり after a long whileくに native country帰ってかえって return (home)子供に会うう see; spend time withのはうれしい。しかしおっと husband仕送り仕送しおくり remittancesがとぎれて、しかたなしにおや one's parentsさと village; home townへ帰るのだから心配心配しんぱい worry; concernだ。夫はくれ Kure (part of Hiroshima; formerly home of the Kure Naval Arsenal)にいて長らくながらく for a long time; for a good while海軍海軍かいぐん navy職工職工しょっこう workman; mechanicをしていたが戦争中戦争中せんそうちゅう during the war (Russo-Japanese War; 1904-5)旅順旅順りょじゅん Port Arthur or Ryojun (currently Lüshunkou, a district of Dalian)ほう area; environs行ってって go (to)いた。戦争が済んでんで be concluded; be settledからいったん帰って来た。まもなくあっちのほうが金がもうかるかねがもうかる make moneyといって、また大連大連たいれん Dairen or Tairen (currently Dalian)出かせぎかせぎ working away from homeに行った。はじめのうちは音信音信たより correspondence; lettersもあり、月々月々つきつき monthly; every monthのものもちゃんちゃんと送ってきたおくってきた arrived; was sentからよかったが、この半年半年はんとし half yearばかりまえ beforeから手紙手紙てがみ lettersも金もまるで来なくなってなくなって stopped arrivingしまった。不実な不実ふじつな unfaithful; hardhearted性質性質たち character; natureではないから、大丈夫大丈夫だいじょうぶ okay; all rightだけれども、いつまでも遊んであそんで be idle; be out of work食べてべて live; subsistいるわけにはゆかないので、安否安否あんぴ safety; welfareのわかるまではしかたがないから、里へ帰って待ってって waitいるつもりだ。

じいさんは蛸薬師も知らずらず not know of、玩具にも興味興味きょうみ interestがないとみえて、はじめのうちはただはいはいと返事返事へんじ responseだけしていたが、旅順以後以後いご from; following急にきゅうに suddenly同情同情どうじょう sympathy; (emotional) engagement催してもよおして show signs of、それは大いにおおいに very much; greatly気の毒どく unfortunate; too badだと言いだした。自分の自分じぶんの one's own childも戦争中兵隊兵隊へいたい soldierにとられて、とうとうあっちで死んでんで dieしまった。いったい戦争はなんのためにするものだかわからない。あとで景気景気けいき the times; prosperityでもよくなればだが、大事な大事だいじな precious子は殺されるころされる be killed物価物価しょしき prices (usually 諸式; equivalent to 物価ぶっか)高くなるたかくなる increase; go up (prices)。こんなばかげたものはない。 the world; societyのいい時分時分じぶん time; periodに出かせぎなどというものはなかった。みんな戦争のおかげだ。なにしろ信心信心しんじん faith; trust大切大切たいせつ importantだ。生きてきて be alive働いてはたらいて workingいるに違いないちがいない no doubt。もう少しすこし a bit待っていればきっと帰って来るかえってる come back。――じいさんはこんなこと things; mattersを言って、しきりに女を慰めてなぐさめて comfort (someone)いた。やがて汽車汽車きしゃ (steam) trainがとまったら、ではお大事に大事だいじに take careと、女に挨拶挨拶あいさつ civilities; salutationをして元気よく元気げんきよく with vigor出て行ったった departed; went on one's way

じいさんに続いてつづいて following after降りたりた descended; got off (the train)もの people四人四人よにん four (people)ほどあったが、入れ代ってかわって in exchange; in passing乗ったった boarded; got on (the train)のはたった一人一人ひとり one (person)しかない。もとから込み合ったった crowded; congested客車客車きゃくしゃ passenger car; passenger compartment (train)でもなかったのが、急にきゅうに suddenly寂しくなったさびしくなった became empty; seemed deserted日の暮れたれた sun went downせいかもしれない。駅夫駅夫えきふ station employee屋根屋根やね roofをどしどし踏んでんで stepping on; walking overうえ aboveから灯のついたのついた lighted; litランプをさしこんでゆく。三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)思い出したおもした rememberedように前のまえの previous停車場停車場ステーション station; stop買ったった bought弁当弁当べんとう bentō; boxed meal食いだしたいだした started eating

くるま train動きだしてうごきだして began to move二分二分にふん two minutesもたったろうと思うころ、例のれいの the aforementionedおんな woman; young ladyはすうと立ってって stood up; rose三四郎のよこ beside; (space) next to通り越してとおして passed by車室車室しゃしつ compartmentそと outside; exterior出て行ったった went out (to)。このとき time; moment女のおび sashいろ colorがはじめて三四郎の eye; field of viewにはいった。三四郎はあゆ ayu (kind of fish)煮びたしびたし stewed fishあたま headをくわえたまま女の後姿後姿うしろすがた receding form; view from the back side見送っていた見送みおくっていた watched walk away便所便所べんじょ toiletに行ったんだなと思いながらしきりに食っている。

女はやがて帰って来たかえってた returned; came back今度今度こんど this time正面正面しょうめん the front (side)見えたえた was visible。三四郎の弁当はもうしまいがけである。した below; down向いていて looking toward一生懸命に一生懸命いっしょうけんめいに with utmost effortはし chopsticks突っ込んでんで thrusting into二口二口ふたくち two bites三口三口みくち three bitesほおばったほおばった stuffed one's mouth withが、女は、どうもまだ元のもとの previous; from beforeせき seatへ帰らないらしい。もしやと思って、ひょいと目を上げてげて lift; raise見るとやっぱり正面に立っていた。しかし三四郎が目を上げると同時に同時どうじに at the same time as女は動きだした。ただ三四郎の横を通って、自分の自分じぶんの one's own座へ帰るべきところを、すぐとまえ front; forward来てて came (to)、からだを横へ向けて、まど windowから首を出してくびして leaned out; stuck one's head out静かにしずかに silently外をながめだした。かぜ wind強くつよく strongly; brisklyあたって、びん side locksがふわふわするところが三四郎の目にはいった。この時三四郎はからになった弁当のおり small wooden box (for packing food)力いっぱいにちからいっぱいに as hard as one can窓からほうり出したほうりした threw out。女の窓と三四郎の窓は一軒おき一軒いっけんおき separated by one positionとなり next to; neighboringであった。風に逆らってさくらって going againstなげた折のふた lid白くしろく white舞いもどったいもどった came fluttering backように見えた時、三四郎はとんだことをしたのかと気がついてがついて realized、ふと女のかお faceを見た。顔はあいにく列車の外に出ていた。けれども、女は静かにくび head (lit: neck)引っ込めてめて withdraw; pull back更紗更紗さらさ printed cotton; calicoのハンケチでひたい foreheadのところを丁寧に丁寧ていねいに carefully; thoroughlyふき始めたふきはじめた began to wipe。三四郎はともかくもあやまるほうが安全安全あんぜん safe; prudentだと考えたかんがえた thought; considered

「ごめんなさい」と言ったった said

女は「いいえ」と答えたこたえた answered。まだ顔をふいている。三四郎はしかたなしに黙ってしまっただまってしまった kept silent。女も黙ってしまった。そうしてまた首を窓から出した。さん three、四人の乗客乗客じょうきゃく passengers暗いくらい dim; darkランプの下で、みんな寝ぼけたぼけた weary; half asleep顔をしている。口をきいてくちをきいて talk; converseいる者はだれもない。汽車汽車きしゃ (steam) trainだけがすさまじいすさまじい terrific; tremendousおと soundをたてて行く。三四郎は目を眠ったつぶった closed (one's eyes) (usually つぶった)

しばらくすると「名古屋名古屋なごや Nagoyaはもうじきでしょうか」と言うう say; remarkおんな woman; young ladyこえ voiceがした。見るる lookといつのまにか向き直ってなおって repositioned; turned及び腰になっておよごしになって leaning overかお face三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)のそばまでもって来てもってて bringいる。三四郎は驚いたおどろいた was surprised

「そうですね」と言ったが、はじめて東京東京とうきょう Tōkyō行くく go (to)んだからいっこう要領を得ない要領ようりょうない have no idea

「このぶん segmentでは遅れますおくれます be lateでしょうか」

「遅れるでしょう」

「あんたも名古屋へお降りり get off; disembarkで……」

「はあ、降ります」

この汽車汽車きしゃ (steam) trainは名古屋どまりであった。会話会話かいわ conversationはすこぶる平凡平凡へいぼん usual; ordinaryであった。ただ女が三四郎の筋向こう筋向すじむこう diagonally opposite腰をかけたこしをかけた sat downばかりである。それで、しばらくのあいだはまた汽車のおと soundだけになってしまう。

次のつぎの nextえき stationで汽車がとまったとき time; occasion、女はようやく三四郎に名古屋へ着いたらいたら arrive迷惑迷惑めいわく trouble; inconvenienceでも宿屋宿屋やどや inn案内して案内あんないして guide; escortくれと言いだした。一人一人ひとり aloneでは気味が悪い気味きみわるい feel uneasyからと言って、しきりにしきりに earnestly; persistently頼むたのむ request。三四郎ももっとももっとも reasonable; rationalだと思ったおもった thought; considered。けれども、そう快くこころよく readily; willingly引き受けるける accept (a task); take on inclinationにもならなかった。なにしろ知らないらない unknown; unfamiliar女なんだから、すこぶる躊躇躊躇ちゅうちょ hesitation; indecisionしたにはしたが、断然断然だんぜん resolutely; decisively断ることわる refuse; turn down勇気勇気ゆうき courage; boldness出なかったなかった wasn't forthcomingので、まあいいかげんな生返事生返事なまへんじ vague answer; noncommittal answerをしていた。そのうち汽車は名古屋へ着いた。

大きなおおきな large行李行李こうり luggage; trunk新橋新橋しんばし Shinbashi (place in Tōkyō)まで預けてあずけて check (baggage); entrustあるから心配心配しんぱい worry; concernはない。三四郎はてごろなズックズック canvas; duck clothかばん bagかさ umbrellaだけ持ってって carry改札場改札場かいさつば wicket; ticket gateを出た。あたま headには高等学校高等学校こうとうがっこう high school (equivalent to modern-day college)夏帽夏帽なつぼう summer hat (school hat worn with the summer uniform)をかぶっている。しかし卒業卒業そつぎょう graduationしたしるしに徽章徽章きしょう emblem; insigniaだけはもぎ取ってもぎって tear off; pull offしまった。昼間昼間ひるま daytime見るる look atとそこだけいろ color新しいあたらしい fresh; new。うしろから女がついて来るついてる follow along。三四郎はこの帽子帽子ぼうし hatに対してたいして concerning; because of少々少々しょうしょう somewhat; a bitきまりが悪かったきまりがわるかった felt awkward; felt embarrassed。けれどもついて来るのだからしかたがない。女のほうでは、この帽子をむろん、ただのきたない帽子と思っている。

九時半九時半くじはん nine thirty着くく arriveべき汽車汽車きしゃ (steam) train四十分四十分よんじゅっぷん forty minutesほど遅れたおくれた was lateのだから、もう十時十時じゅうじ ten (o'clock)はまわっている。けれども暑いあつい warm; hot (weather)時分時分じぶん season; time of the yearだからまち town; streetsはまだ宵の口よいくち early eveningのようににぎやかだ。宿屋宿屋やどや inn目の前まえ before one's eyes two三軒三軒さんげん three (buildings; shops)ある。ただ三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)にはちとりっぱすぎるように思われたおもわれた seemed (to be)。そこで電気燈電気燈でんきとう electric lightのついている三階作り三階作さんがいづくり three-story constructionの前をすまして通り越してとおして pass by、ぶらぶら歩いて行ったあるいてった walked; went by walking。むろん不案内の不案内ふあんないの unfamiliar土地土地とち place; localityだからどこへ出るる appear; arrive (at)かわからない。ただ暗いくらい dark; dimly litほう directionへ行った。おんな woman; young ladyはなんともいわずについて来るついてる follow along。すると比較的比較的ひかくてき relatively寂しいさびしい lonely横町横町よこちょう side streetかど cornerから二軒目二軒目にけんめ second place御宿御宿おんやど Onyado (name of an inn)という看板看板かんばん sign; placard見えたえた was visible。これは三四郎にも女にも相応な相応そうおうな suitable; befittingきたない看板であった。三四郎はちょっと振り返ってかえって turn around; look back一口一口ひとくち a word; in short女にどうですと相談した相談そうだんした consultedが、女は結構結構けっこう fineだというんで、思いきってずっとはいった。上がり口がりくち entrance; front door二人連れ二人連ふたりづれ couple; two (people) togetherではないと断ることわる warn; tellはずのところを、いらっしゃい、――どうぞお上がり――御案内御案内ごあんない show (the guests)――うめ plum四番四番よんばん number 4などとのべつにしゃべられたので、やむをえず無言無言むごん speechless; without a wordのまま二人とも梅の四番へ通されてとおされて were shown (to)しまった。

下女下女げじょ maidちゃ tea持って来るってる bringあいだ二人はぼんやり向かい合ってかいって facing each otherすわっていた。下女が茶を持って来て、お風呂風呂ふろ bathをと言ったった said; suggestedとき time; momentは、もうこの婦人婦人ふじん lady自分の自分じぶんの one's own連れれ companionではないと断るだけの勇気勇気ゆうき boldness; courage出なかったなかった wasn't forthcoming。そこで手ぬぐいぬぐい wash towelぶら下げてぶらげて trailing; carryingお先へさきへ beg your pardon (for going first)挨拶挨拶あいさつ civilitiesをして、風呂場風呂場ふろば bathing roomへ出て行った。風呂場は廊下廊下ろうか hallway突き当りあたり end (of a street or hallway)便所便所べんじょ toiletとなり next to; neighboring positionにあった。薄暗くって薄暗うすくらくって dimly lit、だいぶ不潔不潔ふけつ filthy; unsanitaryのようである。三四郎は着物着物きもの kimono; clothing脱いでいで took off (clothes)風呂桶風呂桶ふろおけ bathtubなか inside飛び込んでんで jumped into少しすこし a bit; a little考えたかんがえた considered; thought (about things)。こいつはやっかいだとじゃぶじゃぶやっていると、廊下に足音足音あしおと sound of footstepsがする。だれか便所へはいった様子様子ようす signs; indicationsである。やがて出て来たた came out hands洗うあらう wash。それが済んだらんだら be finished、ぎいと風呂場の door半分半分はんぶん halfwayあけた。例のれいの the aforementioned; that ...女が入口入口いりぐち entranceから、「ちいと流しましょうながしましょう wash; scrubか」と聞いたいた asked。三四郎は大きなおおきな big; loud (voice)こえ voiceで、

「いえ、たくさんです」と断った。しかし女は出ていかない。かえってはいって来た。そうしておび belt; sash解きだしたきだした began to loosen。三四郎といっしょに hot water使う使つかう use intentionとみえる。べつに恥かしいはずかしい shy; embarrassed様子も見えない。三四郎はたちまち湯槽湯槽ゆぶね tub飛び出したした jumped out of。そこそこにからだをふいて座敷座敷ざしき room帰ってかえって returned (to)座蒲団座蒲団ざぶとん cushionうえ top ofにすわって、少なからずすくなからず to no small degree驚いておどろいて be surprised; be mortifiedいると、下女が宿帳宿帳やどちょう inn registerを持って来た。

三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)宿帳宿帳やどちょう inn register取り上げてげて picked up福岡県福岡県ふくおかけん Fukuoka Prefecture京都郡京都郡みやこぐん Miyako District真崎村真崎村まさきむら Masaki Village小川小川おがわ Ogawa (family name)三四郎二十三年二十三年にじゅうさんねん twenty three years (Sanshirō is twenty two by Western age accounting)学生学生がくせい student正直に正直しょうじきに honestly; truthfully書いたいた wrote; recordedが、おんな woman; young ladyのところへいってまったく困ってこまって be at a lossしまった。 bath (lit: hot water)から出るる come out (from)まで待ってって waitいればよかったと思ったおもった thoughtが、しかたがない。下女下女げじょ maidがちゃんと控えてひかえて be in waitingいる。やむをえず同県同県どうけん same prefecture同郡同郡どうぐん same district同村同村どうそん same village同姓同姓どうせい same family nameはな Hana (name)二十三年とでたらめでたらめ nonsenseを書いて渡したわたした handed over; handed back。そうしてしきりに団扇団扇うちわ (round) fan使って使つかって useいた。

やがて女は帰って来たかえってた returned; came back。「どうも、失礼いたしました失礼しつれいいたしました I beg your pardon」と言ってって saidいる。三四郎は「いいや」と答えたこたえた answered; responded

三四郎はかばん bagなか insideから帳面帳面ちょうめん notebook取り出してして took out日記日記にっき diary; journalをつけだした。書くこと things; matters何もなにも (not) anythingない。女がいなければ書く事がたくさんあるように思われたおもわれた it seemed that ...。すると女は「ちょいと出てまいります」と言って部屋部屋へや roomを出ていった。三四郎はますます日記が書けなくなった。どこへ行ったった went (to)んだろうと考え出したかんがした began to wonder

そこへ下女が床をのべに来るとこをのべにる came to prepare the bedding広いひろい wide蒲団蒲団ふとん futon; bedding一枚一枚いちまい one pieceしか持って来ないしかってない only brought ...から、床は二つふたつ two (things)敷かなくてはいけないかなくてはいけない need to spread (futon; bedding)と言うと、部屋が狭いせまい small; confinedとか、蚊帳蚊帳かや mosquito nettingが狭いとか言ってらちがあかないらちがあかない went nowhere; made little progress。めんどうがるようにもみえる。しまいにはただいま番頭番頭ばんとう desk clerkがちょっと出ましたから、帰ったら聞いていて ask (about)持ってまいりましょうと言って、頑固に頑固がんこに stubbornly; obstinately一枚の蒲団を蚊帳いっぱいに敷いて出て行った。

それから、しばらくするとおんな woman; young lady帰って来たかえってた came back; returned。どうもおそくなりましてと言うう said; remarked蚊帳蚊帳かや mosquito nettingかげ shadow何かなにか somethingしているうちに、がらんがらんというおと sound; noiseがした。子供子供こども childrenにみやげの玩具玩具おもちゃ toys鳴ったった clanged; rattledに違いないちがいない no doubt。女はやがて風呂敷包み風呂敷包ふろしきづつみ cloth-wrapped bundleをもとのとおりに結んだむすんだ tied up; tied togetherとみえる。蚊帳の向こうこう other side; far sideで「お先へさきへ goodnight」と言うこえ voiceがした。三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)はただ「はあ」と答えたこたえた answered; respondedままで、敷居敷居しきい doorsill尻を乗せてしりせて sat on団扇団扇うちわ (round) fan使って使つかって useいた。いっそこのままで夜を明かしてかして pass the night; sit up all nightしまおうかとも思ったおもった considered; thought about (doing)。けれども mosquitosがぶんぶん来るる come; arriveそと outside; in the openではとてもしのぎきれない。三四郎はついと立ってって arose; stood upかばん bagなか insideから、キャラコのシャツとズボン下ズボンした underpants出してして took out、それを素肌素肌すはだ bare skin着けてけて put on、そのうえ over; on top ofからこん navy blue兵児帯兵児帯へこおび wide sash締めためた fastened。それから西洋西洋せいよう Western-style手拭手拭タウエル towel二筋二筋ふたすじ two (strips)持ったった held; carriedまま蚊帳の中へはいった。女は蒲団蒲団ふとん futon; beddingの向こうのすみでまだ団扇を動かしてうごかして wave; move (hand fan)いる。

失礼です失礼しつれいです excuse meが、わたし I癇症癇症かんしょう particular (about cleanliness)でひとの蒲団に寝るる sleepのがいやだから……少しすこし a bit; a little蚤よけのみよけ flea barrier工夫工夫くふう means; contrivanceをやるから御免なさい御免ごめんなさい please don't take offense

三四郎はこんなことを言って、あらかじめ、敷いてあるいてある had been spread out敷布敷布シート sheet; cover余ってあまって extra; protrudingいるはじ edge (usually はし)を女の寝ているほう directionへ向けてぐるぐる巻きだしたきだした began to roll。そうして蒲団のまん中まんなか center; middle白いしろい white長いながい long仕切り仕切しきり partition; dividerこしらえたこしらえた made; built。女は向こうへ寝返りを打った寝返ねがえりをった rolled onto one's side while sleeping。三四郎は西洋手拭を広げてひろげて spread out、これを自分の自分じぶんの one's own領分領分りょうぶん territoryに二枚続きにつづきに contiguously長くながく lengthwise敷いて、その上に細長く細長ほそながく narrowly; slenderly寝た。そのばん nightは三四郎の handsあし feetもこのはば width狭いせまい narrow西洋手拭の外には一寸一寸いっすん 1 sun (3 cm; 1 inch)出なかったなかった didn't stray from。女は一言一言ひとこと one word口をきかなかったくちをきかなかった didn't speak。女もかべ wallを向いたままじっとして動かなかった。

 nightようようようよう finally; at long last明けたけた broke (night); opened (into morning)かお face洗ってあらって washぜん (breakfast) tray向かったかった facedとき time; occasionおんな the womanはにこりと笑ってわらって smiled; grinned、「ゆうべはのみ fleas出ませんでしたませんでした didn't come outか」と聞いたいた asked三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)は「ええ、ありがとう、おかげさまで」というようなことをまじめに答えながらこたえながら while answeringした down; belowを向いて、お猪口猪口ちょく small cup葡萄豆葡萄豆ぶどうまめ sweet beansをしきりに突っつきだしたっつきだした poked at

勘定をして勘定かんじょうをして settle one's bill; settle one's account宿宿やど innを出て、停車場停車場ステーション station着いたいた arrived (at)時、女ははじめて関西線関西線かんさいせん Kansai Line四日市四日市よっかいち Yokkaichi (place name)ほう direction行くく go (toward)のだということを三四郎に話したはなした told; disclosed。三四郎の汽車汽車きしゃ (steam) trainはまもなく来たた arrived時間時間じかん time; scheduleのつごうで女は少しすこし a bit待ち合わせるわせる wait forこととなった。改札場改札場かいさつば ticket gateのきわまで送って来たおくってた came to see (someone) off女は、

「いろいろごやっかいになりまして、……ではごきげんよう」と丁寧に丁寧ていねいに politely; respectfullyお辞儀辞儀じぎ salutationをした。三四郎はかばん bagかさ umbrella片手片手かたて one hand持ったった held; carriedまま、あいた hand例のれいの the aforementioned古帽子古帽子ふるぼうし old hat取ってって take off; remove、ただ一言一言ひとこと one word; a single word

「さよなら」と言ったった said。女はその顔をじっとながめていた、が、やがておちついた調子調子ちょうし tone; mannerで、

「あなたはよっぽど度胸のない度胸どきょうのない timid; faintheartedかたですね」と言って、にやりと笑った。三四郎はプラットフォームのうえ on (to)はじき出されたはじきされた cast out; rejectedような心持ち心持こころもち feelingがした。くるま (train) carなか insideへはいったら両方両方りょうほう both sidesみみ earsがいっそうほてりだしたほてりだした began to feel hot; became flushed。しばらくはじっと小さくなっていたちいさくなっていた became small; made oneself inconspicuous。やがて車掌車掌しゃしょう conductor鳴らすらす blow; ring口笛口笛くちぶえ whistle長いながい long列車列車れっしゃ trainはて endから果まで響き渡ったひびわたった echoed across。列車は動きだすうごきだす began moving。三四郎はそっとまど windowから首を出したくびした looked out (from)。女はとくの昔とくのむかし a good while agoにどこかへ行ってって wentしまった。大きなおおきな large時計時計とけい clockばかりが目についたについた came into view; caught one's eye。三四郎はまたそっと自分の自分じぶんの one's ownせき seat帰ったかえった returned (to)乗合い乗合のりあい fellow passengersはだいぶいる。けれども三四郎の挙動挙動きょどう behavior; doings注意する注意ちゅういする notice; pay attention (to)ようなもの person一人一人ひとり one (person)もない。ただ筋向こう筋向すじむこう diagonally oppositeにすわったおとこ manが、自分の席に帰る三四郎をちょっと見たた looked at

三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)はこのおとこ man見られたられた was seen; was observedとき time; moment、なんとなくきまりが悪かったきまりがわるかった felt awkward; felt self-consciousほん bookでも読んでんで read気をまぎらかそうをまぎらかそう distract oneself; take one's mind off something思っておもって thought (to do)かばん bagをあけてみると、昨夜昨夜さくや the previous night西洋西洋せいよう Western-style手拭手拭タウエル towelが、うえ topのところにぎっしり詰まってまって be stuffed; be packedいる。そいつをそばへかき寄せてかきせて gather (to one side)そこ bottomのほうから、手にさわったにさわった met one's touch; could be feltやつをなんでもかまわず引き出すす pull outと、読んでもわからないベーコンの論文集論文集ろんぶんしゅう collection of essays出たた appeared; surfaced。ベーコンには気の毒どく feel sorry forなくらい薄っぺらなうすっぺらな flimsy粗末な粗末そまつな crude; shoddy仮綴仮綴かりとじ (paperback) bindingである。元来元来がんらい from the start; to begin with汽車汽車きしゃ (steam) trainなか inside; onboard (train)で読む了見了見りょうけん thought; intentionもないものを、大きなおおきな large行李行李こうり baggage; trunk入れそくなったれそくなった neglected to packから、片づけるかたづける clean up; make a final checkついでに提鞄提鞄さげかばん hand luggageの底へ、ほかの two三冊三冊さんさつ three volumes (books)といっしょにほうり込んでほうりんで threw inおいたのが、運悪く運悪うんわるく unluckily当選した当選とうせんした selected; choseのである。三四郎はベーコンの二十三ページ二十三にじゅうさんページ page 23開いたひらいた opened (to)他のの other本でも読めそうにはない。ましてベーコンなどはむろん読む intention; inclinationにならない。けれども三四郎はうやうやしく二十三ページを開いて、万遍なく万遍まんべんなく thoroughlyページ全体全体ぜんたい entirety見回して見回みまわして look over; surveyいた。三四郎は二十三ページのまえ (in) front of一応一応いちおう once; for what it's worth昨夜のおさらいをするおさらいをする review; play over in one's mind気である。

元来あのおんな woman; young ladyはなんだろう。あんな女が世の中なか the world; societyにいるものだろうか。女というものは、ああおちついて平気平気へいき coolness; composureでいられるものだろうか。無教育な無教育むきょういくな uneducated; ignorantのだろうか、大胆な大胆だいたんな bold; daringのだろうか。それとも無邪気な無邪気むじゃきな innocent; simple-mindedのだろうか。要するにようするに in short; in the endいけるところまでいってみなかったから、見当がつかない見当けんとうがつかない have no idea思いきっておもいきって resolutely; decisivelyもう少しすこし a little; a bitいってみるとよかった。けれども恐ろしいおそろしい frightening別れぎわにわかれぎわに at the point of partingあなたは度胸のない度胸どきょうのない timid; faintheartedかただと言われたわれた was told時には、びっくりした。二十三年二十三年にじゅうさんねん twenty three years (aged twenty two by Western accounting)弱点弱点じゃくてん weakness; shortcoming一度に一度いちどに at one time露見した露見ろけんした be exposed; be laid bareような心持ち心持こころもち feelingであった。おや parentでもああうまく言いあてるうまくいあてる guess correctly; hit the markものではない。――

三四郎はここまで来てて came (to); arrived (at)、さらにしょげてしまったしょげてしまった became utterly dispiritedどこの馬の骨だかわからない者どこのうまほねだかわからないもの a person from who knows whereに、頭の上がらないあたまがらない can't lift one's head; be thoroughly humbledくらいどやされたどやされた took a drubbingような feelingがした。ベーコンの二十三ページに対してたいして concerningも、はなはだ申し訳がないもうわけがない act unforgivablyくらいに感じたかんじた felt

どうも、ああ狼狽しちゃ狼狽ろうばいしちゃ be embarrassed; be flusteredだめだ。学問学問がくもん learning; scholarship大学生大学生だいがくせい university studentもあったものじゃない。はなはだ人格人格じんかく character; personality関係して関係かんけいして concern; be related toくる。もう少しはしようがあったろう。けれども相手相手あいて the other partyがいつでもああ出るる come at (one); appearとすると、教育教育きょういく education受けたけた received自分自分じぶん oneselfには、あれよりほかに受けようがないとも思われる。するとむやみに女に近づいてちかづいて approach; go nearはならないというわけになる。なんだか意気地がない意気地いくじがない have no backbone; lack nerve非常に非常ひじょうに terribly窮屈窮屈きゅうくつ rigid; constrainedだ。まるで不具不具かたわ deformity; handicapにでも生まれたまれた was born (as)ようなものである。けれども……

三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)急にきゅうに suddenly気をかえてをかえて change one's thoughts別のべつの different; separate世界世界せかい worldのことを思い出したおもした remembered。――これから東京東京とうきょう Tōkyō行くく go (to)大学大学だいがく universityにはいる。有名な有名ゆうめいな famous; renowned学者学者がくしゃ scholars接触する接触せっしょくする come into contact (with)趣味趣味しゅみ interest; taste品性品性ひんせい character備わったそなわった possess; be endowed with学生学生がくせい students交際する交際こうさいする interact (with); socialize (with)図書館図書館としょかん library研究研究けんきゅう researchをする。著作著作ちょさく original writingをやる。世間世間せけん the world; society喝采する喝采かっさいする applaud; acclaimはは motherがうれしがる。というような未来未来みらい futureだらしなくだらしなく indulgently考えてかんがえて thought about; considered大いにおおいに greatly元気元気げんき spirits; vitality回復して回復かいふくして recoverみると、べつに二十三ページ二十三にじゅうさんページ page 23のなかにかお face埋めてうずめて buryいる必要必要ひつよう need; necessityがなくなった。そこでひょいと頭を上げたげた raised。すると筋向こう筋向すじむこう diagonally oppositeにいたさっきのおとこ manがまた三四郎のほう direction見てて lookいた。今度今度こんど this timeは三四郎のほうでもこの男を見返した見返みかえした looked back (at)

ひげ mustache濃くく thicklyはやしている。面長の面長おもながの oval-facedやせぎすのやせぎすの thin; slender、どことなく神主神主かんぬし Shinto priestじみた男であった。ただ鼻筋鼻筋はなすじ bridge of the noseがまっすぐに通ってとおって go along; pass throughいるところだけが西洋西洋せいよう Westernらしい。学校教育学校教育がっこうきょういく formal education; schooling受けつつあるけつつある in the process of receiving三四郎は、こんな男を見るときっと教師教師きょうし teacher; instructorにしてしまう。男は白地白地しろじ white ground; white base (color)かすり kimono with splashed patternsした under; beneathに、鄭重に鄭重ていちょうに respectfully; gallantly白い襦袢襦袢じゅばん undergarment重ねてかさねて layer; stack紺足袋紺足袋こんたび navy blue socksをはいていた。この服装服装ふくそう attire; dressからおして、三四郎は先方先方せんぽう the other party中学校中学校ちゅうがっこう middle schoolの教師と鑑定した鑑定かんていした judged; assessed。大きな未来を控えてひかえて have (in front of one)いる自分からみると、なんだかくだらなくくだらなく trifling; insignificant感ぜられるかんぜられる felt; regarded (as)。男はもう四十四十しじゅう fortyだろう。これよりさきもう発展発展はってん development; growthしそうにもない。

男はしきりに煙草煙草タバコ tobacco; cigaretteをふかしている。長いながい longけむり smoke (trails)鼻の穴はなあな nostrilから吹き出してして blow out; expel腕組腕組うでぐみ crossing one's armsをしたところはたいへん悠長悠長ゆうちょう relaxed; at easeにみえる。そうかと思うとむやみに便所便所べんじょ toilet何かなにか something立つつ get up (for)。立つとき time; occasionにうんと伸びび stretchをすることがある。さも退屈そう退屈たいくつそう bored; idleである。となり next to乗り合わせた人わせたひと fellow travelerが、新聞新聞しんぶん newspaper読みがらみがら read and discarded (newspaper)をそばに置くく set; placeのに借りてりて borrowみる inclination出さないさない not show。三四郎はおのずからおのずから as a matter of courseみょう curiousになって、ベーコンの論文集論文集ろんぶんしゅう collection of essays伏せてせて turn over; lay face downしまった。ほかの小説小説しょうせつ novelでも出してして take out本気に本気ほんきに seriously; earnestly読んでみようとも考えたが、面倒面倒めんどう trouble; botherだからやめにした。それよりはまえ in front (of)にいる人の新聞を借りたくなった。あいにく前の人はぐうぐう寝てて sleep; dozeいる。三四郎は hand延ばしてばして stretch out; reach out新聞に手をかけながら、わざと「おあきですか」と髭のある男に聞いたいた asked。男は平気な平気へいきな indifferent; casualかお face; expressionで「あいてるでしょう。お読みなさい」と言ったった said。新聞を手に取ったった took三四郎のほうはかえって平気でなかった。

あけてみると新聞新聞しんぶん newspaperにはべつに見るる see; look atほどのこと things; mattersものっていない。いち one二分二分にふん two minutes通読して通読つうどくして read throughしまった。律義に律義りちぎに with care; properly畳んでたたんで foldもとの場所場所ばしょ place; location返しながらかえしながら returning (something)、ちょっと会釈会釈えしゃく bow; gesture of recognitionすると、向こうこう the other partyでも軽くかるく lightly挨拶挨拶あいさつ greeting; salutationをして、

きみ you高等学校高等学校こうとうがっこう high school (equivalent to modern-day college)生徒生徒せいと studentですか」と聞いたいた asked; inquired

三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)は、かぶっている古帽子古帽子ふるぼうし old hat; well-worn hat徽章徽章きしょう emblem; insigniaあと traces; evidenceが、このおとこ man目に映ったうつった caught one's eyeのをうれしく感じたかんじた felt

「ええ」と答えたこたえた answered

東京東京とうきょう Tōkyōの?」と聞き返したかえした asked in returnとき time; moment、はじめて、

「いえ、熊本熊本くまもと Kumamoto (city in Kyūshū)です。……しかし……」と言ったった saidなり黙ってだまって be silent; keep quietしまった。大学生大学生だいがくせい university studentだと言いたかったけれども、言うほどの必要必要ひつよう necessityがないからと思っておもって consider遠慮した遠慮えんりょした refrained; held back相手相手あいて the other partyも「はあ、そう」と言ったなり煙草煙草タバコ tobacco; cigarette吹かしてかして puff; smoke (tobacco)いる。なぜ熊本の生徒が今ごろいまごろ at this time東京へ行くく go (to)んだともなんとも聞いてくれない。熊本の生徒には興味興味きょうみ interestがないらしい。この時三四郎のまえ front of寝てて sleep; dozeいた男が「うん、なるほど」と言った。それでいてたしかに寝ている。ひとりごとでもなんでもない。ひげ mustacheのあるひと person; manは三四郎を見てにやにやと笑ったわらった smiled; grinned。三四郎はそれを機会機会しお opportunity; chance (= 機会きかい)に、

「あなたはどちらへ」と聞いた。

「東京」とゆっくり言ったぎりである。なんだか中学校中学校ちゅうがっこう middle school先生先生せんせい teacherらしくなくなってきた。けれども三等三等さんとう third class乗ってって ride; travelいるくらいだからたいしたものでないことは明らかあきらか clear; evidentである。三四郎はそれで談話談話だんわ talk; conversation切り上げたげた stopped; cut short。髭のある男は腕組腕組うでぐみ folding one's armsをしたまま、時々時々ときどき occasionally下駄下駄げた (wooden) clog前歯前歯まえば front prop; front supportで、拍子を取って拍子ひょうしって keep time (with)ゆか floor鳴らしたりらしたり beat (drum); tap out (a sound)している。よほど退屈退屈たいくつ boredomにみえる。しかしこの男の退屈は話したがらないはなしたがらない not want to talk退屈である。

汽車汽車きしゃ (steam) train豊橋豊橋とよはし Toyohashi (place name)着いたいた arrived (at)とき time; moment寝ていたていた was asleep; was dozingおとこ manむっくりむっくり abruptly起きてきて woke up目をこすりながらをこすりながら rubbing (his) eyes降りて行ったりてった disembarked。よくあんなにつごうよく目をさますことができるものだと思ったおもった thought; was impressed。ことによると寝ぼけて停車場停車場ていしゃば station間違えた間違まちがえた get (something) wrongんだろうと気づかいながらづかいながら worrying (about); being concernedまど windowからながめていると、けっしてそうでない。無事に無事ぶじに without mishap改札場改札場かいさつば ticket gate通過して通過つうかして pass through正気の正気しょうきの sane; reasonable人間人間にんげん personのように出て行ったった went (on his way)三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)安心して安心あんしんして be reassuredせき seat向こう側こうがわ opposite side移したうつした switched; changed (to)。これでひげ mustacheのあるひと person; man隣り合わせとなわせ neighboringになった。髭のある人は入れ代ってかわって changing places、窓から首を出してくびして lean out (of)水蜜桃水蜜桃すいみつとう peaches買ってって buyいる。

やがて二人二人ふたり two (people)のあいだに果物果物くだもの fruit置いていて set; place

食べませんかべませんか would you like (to eat) some?」と言ったった said

三四郎はれい thanks; appreciationを言って、一つひとつ one (thing)食べた。髭のある人は好きき fondness (for something)とみえて、むやみに食べた。三四郎にもっと食べろと言う。三四郎はまた一つ食べた。二人が水蜜桃を食べているうちにだいぶ親密親密しんみつ friendly; familiarになっていろいろなはなし talk; discussion始めたはじめた began; initiated

その男のせつ explanationによると、もも peach果物果物くだもの fruitのうちでいちばん仙人めいている仙人せんにんめいている having the air of an ascetic。なんだか馬鹿みたような馬鹿ばかみたような unexpected; indescribableあじ flavorがする。第一第一だいいち first of all核子核子たね seed; pit恰好恰好かっこう shape; form無器用無器用ぶきよう awkward; ungainlyだ。かつあな holesだらけでたいへんおもしろくできあがっていると言う。三四郎ははじめて聞く説だが、ずいぶんつまらないことを言う人だと思った。

つぎ nextにその男がこんなことを言いだした。子規子規しき Shiki (haiku poet Masaoka Shiki; contemporary of Sōseki)は果物がたいへん好きだった。かついくらでも食えるえる is capable of eating男だった。ある時大きなおおきな large樽柿樽柿たるがき persimmons sweetened in a saké cask十六十六じゅうろく sixteen食ったことがある。それでなんともなかった。自分自分じぶん oneselfなどはとても子規のまねはできない。――三四郎は笑ってわらって laughing; smiling聞いていた。けれども子規のはなし talk; story (of)だけには興味興味きょうみ interestがあるような feelingがした。もう少しすこし a little子規のことでも話そうかと思っていると、

「どうも好きなものにはしぜんと hand出るる reach out (for); extendものでね。しかたがない。ぶた pig; hogなどは手が出ない代りにかわりに instead ofはな nose; snoutが出る。豚をね、縛ってしばって tie; bind動けないうごけない can't moveようにしておいて、その鼻のさき tipへ、ごちそうを並べてならべて lay out; line up置くと、動けないものだから、鼻の先がだんだん延びてびて extend (itself)くるそうだ。ごちそうに届くとどく reach; arrive (at)までは延びるそうです。どうも一念一念いちねん an ardent wish; wholehearted desireほど恐ろしいおそろしい frightfulものはない」と言って、にやにや笑っている。まじめだか冗談冗談じょうだん joke; jestだか、判然と判然はんぜんと clearly区別区別くべつ distinctionしにくいような話し方はなかた manner of speakingである。

「まあお互にたがいに mutually; both (of us)ぶた pigs; hogsでなくってしあわせだ。そうほしいもののほう directionへむやみにはな nose延びてびて extend (itself); growいったら、今ごろいまごろ by now汽車汽車きしゃ (steam) trainにも乗れないれない can't boardくらい長くなってながくなって become long困るこまる be troubledに違いないちがいない no doubt ...

三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)吹き出したした laughed out loud。けれども相手相手あいて companion; other party存外存外ぞんがい unexpectedly静かしずか quietである。

「じっさいあぶない。レオナルド・ダ・ヴィンチというひと personもも peachみき trunk (tree)砒石砒石ひせき arsenic注射して注射ちゅうしゃして injectedね、その fruitへもどく poison回るまわる go around; circulateものだろうか、どうだろうかという試験試験しけん test; experimentをしたことがある。ところがその桃を食ってって eat死んだんだ died人がある。あぶない。気をつけないとをつけないと if one isn't carefulあぶない」と言いながらいながら while saying、さんざん食い散らしたらした made a mess through eating水蜜桃水蜜桃すいみつとう peach核子核子たね seed; pitやらかわ peel; skinやらを、ひとまとめに新聞新聞しんぶん newspaperくるんでくるんで wrap up (in)まど windowそと outsideなげ出したなげした threw; tossed

今度今度こんど this timeは三四郎も笑うわらう laugh inclination起こらなかったこらなかった didn't occur。レオナルド・ダ・ヴィンチという name聞いていて heard少しくすこしく a little; somewhat辟易した辟易へきえきした winced; was dauntedうえに、なんだかゆうべのおんな woman; young ladyのことを考え出してかんがして recalled; remembered妙にみょうに oddly; strangely不愉快不愉快ふゆかい uncomfortable; cheerlessになったから、謹んでつつしんで humbly黙ってしまっただまってしまった fell silent。けれども相手はそんなことにいっこう気がつかないらしい。やがて、

東京東京とうきょう Tōkyōはどこへ」と聞きだした。

「じつははじめてで様子様子ようす situation; circumstancesがよくわからんのですが……さしあたりさしあたり for the time beingくに one's native place寄宿舎寄宿舎きしゅくしゃ dormitoryへでも行こうこう go (to)かと思っていますおもっています thinking (of doing)」と言う。

「じゃ熊本熊本くまもと Kumamoto (city in Kyūshū)はもう……」

「今度卒業卒業そつぎょう graduationしたのです」

「はあ、そりゃ」と言ったがおめでたいとも結構結構けっこう fine; splendidだともつけなかった。ただ「するとこれから大学大学だいがく universityへはいるのですね」といかにも平凡平凡へいぼん ordinaryであるかのごとく聞いた。

三四郎はいささか物足りなかった物足ものたりなかった was unsatisfiedその代りそのかわり in return; in exchange

「ええ」という二字二字にじ two characters挨拶挨拶あいさつ civilities片づけたかたづけた dispensed with

 department; collegeは?」とまた聞かれる。

一部一部いちぶ first divisionです」

法科法科ほうか college of lawですか」

「いいえ文科文科ぶんか college of liberal artsです」

「はあ、そりゃ」とまた言った。三四郎はこのはあ、そりゃを聞くたびに妙になる。向こうこう the other party大いにおおいに considerably偉いえらい remarkable; illustriousか、大いに人を踏み倒してたおして trample downいるか、そうでなければ大学にまったく縁故縁故えんこ affinity; relationship同情同情どうじょう sympathetic feelingsもないおとこ manに違いないちがいない no doubt ...。しかしそのうちのどっちだか見当がつかない見当けんとうがつかない have no ideaので、この男に対するたいする with respect to態度態度たいど attitude; postureもきわめて不明瞭不明瞭ふめいりょう unclear; indeterminateであった。

浜松浜松はままつ Hamamatsu (place name)二人とも二人ふたりとも the two of them申し合わせたもうわせた agreed in advanceように弁当弁当べんとう boxed lunch; packaged meal食ったった ate。食ってしまっても汽車汽車きしゃ (steam) train容易に容易よういに easily出ないない didn't departまど windowから見るる look (out from)と、西洋人西洋人せいようじん Westerner four五人五人ごにん five (people)列車列車れっしゃ trainまえ front of 行ったり来たりしてったりたりして coming and going; passing byいる。そのうちの一組一組ひとくみ one pair; one couple夫婦夫婦ふうふ husband and wifeとみえて、暑いあつい hot (weather)のに手を組み合わせてわせて holding handsいる。おんな woman上下とも上下うえしたとも both top and bottomまっ白なまっしろな pure white着物着物きもの dress; clothingで、たいへん美しいうつくしい beautiful; lovely三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)生まれてからまれてから in one's life (lit: since being born)今日今日こんにち today; the present至るいたる reach; arrive atまで西洋人というものを五、六人六人ろくにん six (people)しか見たことがない。そのうちの二人は熊本熊本くまもと Kumamoto (city in Kyūshū)高等学校高等学校こうとうがっこう high school (equivalent to modern-day college)教師教師きょうし teachers; instructorsで、その二人のうちの一人一人ひとり one (person)運悪く運悪うんわるく unfortunately; sadlyせむしせむし hunchbacked; ricketyであった。女では宣教師宣教師せんきょうし missionaryを一人知っているっている know; be acquainted with。ずいぶんとんがったかお faceで、きす (kind of fish; sillago japonica)またはかます barracuda類していたるいしていた was akin to; resembled。だから、こういう派手な派手はでな gorgeousきれいな西洋人は珍しいめずらしい unusualばかりではない。すこぶる上等上等じょうとう high class; superiorに見える。三四郎は一生懸命に一生懸命いっしょうけんめいに as much as one canみとれていた。これではいばるいばる swagger; hold one's head highのももっともだと思ったおもった thought自分自分じぶん oneselfが西洋へ行って、こんなひと peopleのなかにはいったらさだめしさだめし surely; no doubt肩身の狭い肩身かたみせまい feel smallことだろうとまで考えたかんがえた thought; considered。窓の前を通るとき time; moment二人のはなし conversation熱心に熱心ねっしんに keenly; earnestly聞いていて listenみたがちっともわからない。熊本の教師とはまるで発音発音はつおん pronunciation違うちがう differようだった。

ところへ例のれいの the aforementionedおとこ manくび head (lit: neck)うしろ behind; in back ofから出してして stick out

「まだ出そうもないのですかね」と言いながらいながら sayingいま (just) now行き過ぎたぎた went by; passed by西洋の夫婦をちょいと見て、

「ああ美しい」と小声小声こごえ whisper; murmurに言って、すぐに生欠伸生欠伸なまあくび slight yawnをした。三四郎は自分がいかにもいなか者いなかもの bumpkin; provincial (person)らしいのに気がついてがついて noticed; realized、さっそく首を引き込めてめて pulled in; drew in着座した着座ちゃくざした took (his) seat。男もつづいてせき seat返ったかえった returned (to)。そうして、

「どうも西洋人は美しいですね」と言った。

三四郎はべつだんのこたえ answer; responseも出ないのでただはあと受けてけて accepted笑っていたわらっていた smiled。するとひげ mustacheの男は、

お互いたがい we; us哀れあわれ wretched; a sorry lotだなあ」と言い出した。「こんな顔をして、こんなに弱ってよわって be weak; be feebleいては、いくら日露戦争日露戦争にちろせんそう Russo-Japanese War (1904-1905)勝ってって prevail; win一等国一等国いっとうこく first-class power; world powerになってもだめですね。もっとも建物建物たてもの buildings; architectureを見ても、庭園庭園ていえん garden; parkを見ても、いずれも顔相応相応そうおう suited for; befittingのところだが、――あなたは東京東京とうきょう Tōkyōがはじめてなら、まだ富士山富士山ふじさん Mt Fujiを見たことがないでしょう。今に見えるから御覧なさい御覧ごらんなさい take a look。あれが日本一日本一にほんいち foremost in Japan名物名物めいぶつ feature; attractionだ。あれよりほかに自慢する自慢じまんする be proud ofものは何もないなにもない there is nothing。ところがその富士山は天然自然天然自然てんねんしぜん nature; natural worldむかし long agoからあったものなんだからしかたがない。我々我々われわれ weがこしらえたものじゃない」と言ってまたにやにや笑っている。三四郎は日露戦争以後以後いご after; followingこんな人間人間にんげん person出会う出会であう meet; encounterとは思いもよらなかった。どうも日本人日本人にほんじん Japanese (person)じゃないような feelingがする。

「しかしこれからは日本日本にほん Japanもだんだん発展する発展はってんする develop; grow; thriveでしょう」と弁護した弁護べんかいした spoke in defense of。すると、かのおとこ manは、すましたすました calm; deliberateもので、

滅びるほろびる go to ruin; meet with destructionね」と言ったった said; remarked。――熊本熊本くまもと Kumamoto (city in Kyūshū)でこんなことを口に出せばくちせば say; utter、すぐなぐられる。悪くするとわるくすると in the worst case国賊国賊こくぞく traitor (to one's country)取り扱いあつかい handling; treatmentにされる。三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)頭の中あたまなか in one's headのどこのすみにもこういう思想思想しそう idea; concept入れるれる put into; harbor余裕余裕よゆう allowance; marginはないような空気空気くうき atmosphereのうちで生長した生長せいちょうした grew up (in)。だからことによると自分自分じぶん oneselfとし years; age若いわかい youngのに乗じてじょうじて taking advantage of、ひとを愚弄する愚弄ぐろうする make sport of; ridiculeのではなかろうかとも考えたかんがえた considered。男は例のごとくれいのごとく as usual; characteristicallyにやにや笑ってにやにやわらって grinいる。そのくせ言葉つき言葉ことばつき manner of speakingはどこまでもおちついている。どうも見当がつかない見当けんとうがつかない not know what to make ofから、相手相手あいて companion; comradeになるのをやめて黙ってしまっただまってしまった remained silent。すると男が、こう言った。

「熊本より東京東京とうきょう Tōkyō広いひろい expansive; spacious。東京より日本日本にほん Japanは広い。日本より……」でちょっと切ったった broke; pausedが、三四郎のかお face見るる look at耳を傾けてみみかたむけて listen; pay attentionいる。

「日本より頭の中のほうが広いでしょう」と言った。「とらわれちゃとらわれちゃ be taken; be shackled byだめだ。いくら日本のためを思ったおもった think of; take into considerationって贔屓贔屓ひいき favoritism; partiality引き倒したおし downfall; destructionになるばかりだ」

この言葉を聞いたいた heardとき time; moment、三四郎は真実に真実しんじつに truly; in fact熊本を出たた left (behind); departed (from)ような心持ち心持こころもち feelingがした。同時に同時どうじに at the same time熊本にいた時の自分は非常に非常ひじょうに exceedingly卑怯卑怯ひきょう docile; servileであったと悟ったさとった became aware of; became conscious of

そのばん evening三四郎は東京に着いたいた arrivedひげ mustacheの男は別れるわかれる part ways時まで名前名前なまえ name明かさなかったかさなかった didn't mention; didn't reveal。三四郎は東京へ着きさえすれば、このくらいの男は到るところいたるところ all over; wherever one goesにいるものと信じてしんじて believed、べつに姓名姓名せいめい name尋ねようたずねよう ask; inquireともしなかった。