Sanshirō - Chapter 12

vocabulary bar - use mouse hover or touch to display furigana and definition of underlined terms

演芸会演芸会えんげいかい performance; showは比較的比較的ひかくてき relatively寒い寒さむい cold時時とき timeに開かれた開ひらかれた was held。年年とし yearはようやく押し詰まってくる押おし詰つまってくる approach the end (of the year)。人人ひと peopleは二十日二十日はつか twenty days足らず足たらず less than; just short ofの目のさき目めのさき before one's eyes; in front of oneに春春はる New Year (archaic usage)を控えた控ひかえた awaited; prepared for。市市いち marketplaceに生きる生いきる make a livingものは、忙しからんとして忙いそがしからんとして clamor busilyいる。越年越年おつねん closing out of the old yearの計計はかりごと planning; schemingは貧者貧者ひんじゃ poor men; working-class folkの頭頭こうべ headsに落ちた落おちた fell (onto)。演芸会はこのあいだにあって、すべてののどかのどか calm; quietなるものと、余裕余裕よゆう leeway; allowanceあるものと、春と暮暮くれ end of the yearの差別差別さべつ differentiation; distinctionを知らぬ知しらぬ be unaffected by; be indifferent toものとを迎えた迎むかえた greeted; welcomed。

それが、いくらでもいる。たいていは若い若わかい young男女男女なんにょ men and women; both gendersである。一日目一日目いちじつめ first day; opening dayに与次郎与次郎よじろう Yojirō (name)が、三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)に向かってに向むかって to; toward大成功大成功だいせいこう overwhelming successと叫んだ叫さけんだ exclaimed。三四郎は二日目二日目ふつかめ second dayの切符切符きっぷ ticketを持って持もって have; holdいた。与次郎が広田先生広田ひろた先生せんせい Professor Hirotaを誘って行け誘さそって行いけ go and inviteと言う言いう tell; instruct。切符が違う違ちがう differentだろうと聞けば聞きけば ask、むろん違うと言う。しかし一人で一人ひとりで alone; by oneselfほうっておくと、けっして行く気づかいがない気きづかいがない there's little chance of ...; it's unlikely that ...から、君君きみ youが寄って寄よって stop by引っ張り出す引ひっ張ぱり出だす draw out; drag outのだと理由理由わけ reason; motiveを説明説明せつめい explainして聞かせた。三四郎は承知した承知しょうちした agreed; accepted。

夕刻夕刻ゆうこく eveningに行って行いって go; visitみると、先生は明るい明あかるい brightランプランプ lampの下下した beneathに大きな大おおきな big; large本本ほん bookを広げて広ひろげて open; spreadいた。

「おいでになりませんか」と聞くと、先生は少し少すこし a little; a bit笑いながら笑わらいながら smiling; grinning、無言のまま無言むごんのまま without speaking首を横に振った首くびを横よこに振ふった shook (his) head sideways。子供子供こども childのような所作所作しょさ movement; gestureをする。しかし三四郎には、それが学者学者がくしゃ scholarらしく思われた思おもわれた impressed one as ...。口をきかないところ口くちをきかないところ absence of wordsがゆかしくゆかしく praiseworthy; respectable思われたのだろう。三四郎は中腰中腰ちゅうごし half-sittingになって、ぼんやりしていた。先生は断わった断ことわった refused; declinedのが気の毒になった気きの毒どくになった felt bad about。

「君行くなら、いっしょに出よう出でよう go out; depart。ぼくも散歩散歩さんぽ walk; strollながら、そこまで行くから」

先生は黒い黒くろい black回套回套まわし mantle; capeを着て着きて wear; put on出た。懐手懐手ふところで hands tucked in pockets (can also mean idle, or with time on one's hands)らしいがわからない。空空そら skyが低く低ひくく lowたれている。星星ほし starsの見えない見みえない not visible寒さである。

「雨雨あめ rainになるかもしれない」

「降る降ふる fall; precipitateと困る困こまる have difficultiesでしょう」

「出入り出入ではいり ingress and egress; coming and goingにね。日本日本にほん Japanの芝居小屋芝居小屋しばいごや playhouse; theaterは下足下足げそく outdoor shoes (i.e. outdoor shoes are exchanged for slippers on entering)があるから、天気天気てんき weatherのいい時時とき timesですらたいへんな不便不便ふべん inconvenienceだ。それで小屋小屋こや small theaterの中中なか inside; interiorは、空気空気くうき airが通わなくって通かよわなくって doesn't circulate、煙草煙草タバコ tobaccoが煙って煙けむって give off smoke、頭痛頭痛ずつう headacheがして、――よく、みんな、あれで我慢我慢がまん perseverance; enduranceができるものだ」

「ですけれども、まさか戸外戸外こがい outdoorsでやるわけにもいかないからでしょう」

「お神楽お神楽かぐら Shinto music and danceはいつでも外外そと outsideでやっている。寒い時でも外でやる」

三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)は、こりゃ議論にならない議論ぎろんにならない not worth arguing; beside the pointと思って思おもって think; consider、答答こたえ answer; replyを見合わせて見合みあわせて suspend; refrain fromしまった。

「ぼくは戸外がいい。暑く暑あつく hot (weather)も寒くもない、きれいな空空そら skyの下下した beneathで、美しい美うつくしい beautiful; pure; fresh空気を呼吸して呼吸こきゅうして breathe、美しい芝居が見たい見みたい would like to see。透明な透明とうめいな transparent; clean; clear空気のような、純粋純粋じゅんすい genuine; trueで簡単な簡単かんたんな simple; uncomplicated芝居ができそうなものだ」

「先生先生せんせい professorの御覧になった御覧ごらんになった saw夢夢ゆめ dreamでも、芝居にしたらそんなものができるでしょう」

「君君きみ youギリシアの芝居ギリシアの芝居しばい Greek theaterを知って知しって know of; be familiar withいるか」

「よく知りません。たしか戸外でやったんですね」

「戸外。まっ昼間まっ昼間ぴるま full daylight; broad daylight。さぞいい心持ち心持こころもち feeling; moodだったろうと思う。席席せき seatingは天然の天然てんねんの natural石石いし stoneだ。堂々堂々どうどう magnificent; grandとしている。与次郎与次郎よじろう Yojirō (name)のようなものは、そういう所所ところ placeへ連れて行って連つれて行いって take (to)、少し少すこし a little; a bit見せてやるといい」

また与次郎の悪口悪口わるくち criticismが出た出でた appeared; surfaced。その与次郎は今ごろ今いまごろ at this time窮屈な窮屈きゅうくつな cramped; confined会場会場かいじょう event site; venueのなかで、一生懸命に一生懸命いっしょうけんめいに with utmost effort、奔走し奔走ほんそうし run aboutかつ斡旋して斡旋あっせんして take care of (people); accommodate大得意大得意だいとくい triumph; self-satisfaction; high spiritsなのだからおもしろい。もし先生を連れて行かなかろうものなら、先生はたしてはたして sure enough; as expected来ない来こない won't come; won't show。たまにはこういう所へ来て来きて come (to)見るのが、先生のためにはどのくらいいいかわからないのだのに、いくらぼくが言って言いって tell; conveyも聞かない聞きかない won't listen。困ったものだなあ。と嘆息する嘆息たんそくする sigh; lamentにきまっているからなおおもしろい。

先生先生せんせい professorはそれからギリシアギリシア Greeceの劇場劇場げきじょう theaterの構造構造こうぞう structure; workingsを詳しく詳くわしく in detail話して話はなして explain; relateくれた。三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)はこの時時とき time; occasion先生から、[ TheatronTheatronテアトロン  theater (seating area),  OrchêstraOrchêstraオルケストラ  chorus area (in front of the stage),  SkênêSkênêスケーネ  changing room; prop room (in back of the main stage),  Proskênion Proskênionプロスケニオン  front stage; main stage] などという字字じ wordsの講釈講釈こうしゃく lecture; expositionを聞いた聞きいた heard。なんとかいうドイツ人ドイツ人じん German (person)の説説せつ opinion; viewによるとアテンアテン Aten (the disk of the sun, deified, in Egyptian mythology)の劇場は一万七千人一万いちまん七千ななせん人にん seventeen thousand peopleをいれる席席せき seatsがあったということも聞いた。それは小さい小ちいさい smallほうである。もっとも大きい大おおきい largeのは、五万人五万ごまん人にん fifty thousand peopleをいれたということも聞いた。入場券入場券にゅうじょうけん admission ticketは象牙象牙ぞうげ ivoryと鉛鉛なまり lead (metal)と二通り二通ふたとおり two kindsあって、いずれも賞牌賞牌メダル medal; medallionみたような恰好恰好かっこう form; shapeで、表表おもて frontに模様模様もよう patternが打ち出して打うち出だして embossed; hammered (into)あったり、彫刻彫刻ちょうこく engravingが施して施ほどこして perform; applyあるということも聞いた。先生はその入場券の価価あたい priceまで知って知しって knowいた。一日一日いちにち one dayだけの小芝居小芝居こしばい minor drama (performance)は十二銭十二じゅうに銭せん 20 sen (0.20 yen)で、三日三日みっか three days続き続つづき continuing; in a rowの大芝居大芝居おおしばい major drama (performance)は三十五銭三十さんじゅう五ご銭せん 35 sen (0.35 yen)だと言った言いった said; explained。三四郎がへえ、へえと感心して感心かんしんして be impressedいるうちに、演芸演芸えんげい performance会場会場かいじょう venueの前前まえ front ofへ出た出でた came (to); arrived (at)。

さかんに電燈電燈でんとう (electric) lightingがついている。入場者入場者にゅうじょうしゃ visitors; attendeesは続々続々ぞくぞく in succession; one after another寄って来る寄よって来くる gather; draw near。与次郎与次郎よじろう Yojirō (name)の言ったよりも以上以上いじょう more thanの景気景気けいき activityである。

「どうです、せっかくだからおはいりになりませんか」

「いやはいらない」

先生はまた暗い暗くらい dark; dim方方ほう directionへ向いて向むいて turn (toward)行った行いった went; departed。

三四郎は、しばらく先生の後影後影うしろかげ receding figureを見送って見送みおくって look after; see off; watch move awayいたが、あとから、車車くるま car; rickshawで乗りつける乗のりつける ride up to人人ひと peopleが、下足下足げそく outdoor shoes札札ふだ token; receiptを受け取る受うけ取とる receive; accept手間手間てま time; effortも惜しそう惜おしそう feel regret at; seem to begrudgeに、急いで急いそいで hurriedlyはいって行くのを見て、自分自分じぶん oneselfも足早に足早あしばやに at a quick pace入場した入場にゅうじょうした entered; went in。前へ押された押おされた was pushedと同じ同おなじ the sameことである。

入口入口いりぐち entranceに四、五人四し、五人ごにん four or five people用のない用ようのない idle人が立って立たって standいる。そのうちの袴袴はかま hakama (men's formal pleated skirt)を着けた着つけた wore男男おとこ man; fellowが入場券を受け取った。その男の肩肩かた shoulderの上上うえ aboveから場内場内じょうない interior (of a venue)をのぞいて見ると、中中なか insideは急に急きゅうに suddenly広く広ひろく broad; spaciousなっている。かつはなはだ明るい明あかるい bright。三四郎は眉眉まゆ eyebrowsに手を加えないばかりにして手てを加くわえないばかりにして be about to raise one's hand to、導かれた導みちびかれた was guided; was led席に着いた着ついた took one's place。狭い狭せまい cramped; confined所所ところ placeに割り込みながら割わり込こみながら wedging oneself into、四方四方しほう all directions; all sidesを見回す見回みまわす look around; surveyと、人間人間にんげん peopleの持って来た持もって来きた brought along色色いろ colorsで目目め eyesがちらちらする。自分の目を動かす動うごかす moveからばかりではない。無数の無数むすうの countless人間に付着した付着ふちゃくした adhere to; cling to色が、広い空間空間くうかん space; roomで、たえずめいめいに、かつかってに、動くからである。

舞台舞台ぶたい stageではもう始まって始はじまって start; beginいる。出てくる出でてくる come out; appear人物人物じんぶつ personage; character; figureが、みんな冠冠かんむり courtier's capをかむってかむって wear on one's head、沓沓くつ shoes; footgearをはいていた。そこへ長い長ながい long輿輿こし palanquinをかついで来たかついで来きた came shouldering。それを舞台のまん中まん中なか middle; centerでとめた者者もの person; individualがある。輿をおろすと、中中なか insideからまた一人一人ひとり one personあらわれた。その男男おとこ manが刀刀かたな katana; swordを抜いて抜ぬいて draw out、輿を突き返した突つき返かえした pushed back; blocked; hinderedのと斬り合い斬きり合あい sword fight; crossing of swordsを始めた。――三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)にはなんのことかまるでわからない。もっとも与次郎与次郎よじろう Yojirō (name)から梗概梗概こうがい outline; summaryを聞いた聞きいた heardことはある。けれどもいいかげんに聞いていた。見れば見みれば see; watchわかるだろうと考えて考かんがえて think; assume、うんなるほどと言って言いって say; remarkいた。ところが見れば毫も毫ごうも (not) at allその意を得ない意いを得えない have no idea (what something means)。三四郎の記憶記憶きおく memoryにはただ入鹿入鹿いるか Soga no Iruka (statesman; assassinated in 645)の大臣大臣おとど (government) minister; noblemanという名前名前なまえ name; titleが残って残のこって be left; remainいる。三四郎はどれが入鹿だろうかと考えた。それはとうてい見込みがつかない見込みこみがつかない have no chance; be hopeless。そこで舞台全体全体ぜんたい whole; entiretyを入鹿のつもりでながめていた。すると冠でも、沓でも、筒袖筒袖つつそで tight sleeveの衣服衣服きもの clothing; outfitsでも、使う使つかう use言葉言葉ことば words; languageでも、なんとなく入鹿臭く臭くさく smacking of; feeling likeなってきた。実実じつ truth; realityをいうと三四郎には確然たる確然かくぜんたる clear; distinct入鹿の観念観念かんねん notion; conceptionがない。日本歴史日本にほん歴史れきし Japanese historyを習った習ならった learned; studiedのが、あまりに遠い遠とおい distant過去過去かこ pastであるから、古い古ふるい old; ancient入鹿の事事こと matters; affairsもつい忘れて忘わすれて forgetしまった。推古天皇推古すいこ天皇てんのう Empress Suiko (reigned 593-628)の時時とき time; eraのようでもある。欽明天皇欽明きんめい天皇てんのう Emperor Kinmei (reigned approximately 539-571)の御代御代みよ imperial reignでもさしつかえない気気き feeling; senseがする。応神天皇応神おうじん天皇てんのう Emperor Ōjin (reigned approximately 270-310)や聖武天皇聖武しょうむ天皇てんのう Emperor Shōmu (reigned 724-749)ではけっしてないと思う思おもう think; regard。三四郎はただ入鹿じみたじみた imparting the sense of心持ち心持こころもち feelingを持って持もって haveいるだけである。芝居芝居しばい play; dramaを見るにはそれでたくさんだと考えて、唐唐から China (archaic)めいためいた in the style of; in the manner of装束装束しょうぞく costumesや背景背景はいけい backdrop; settingをながめていた。しかし筋筋すじ plot; storylineはちっともわからなかった。そのうち幕になった幕まくになった the curtain fell。

幕になる少し少すこし a little; a bitまえに、隣の隣となりの next to; neighboring男が、そのまた隣の男に、登場登場とうじょう appear (on stage)人物の声声こえ voiceが、六畳敷六畳ろくじょう敷じき six-mat room (about 10 sq meters; about 100 sq ft)で、親子親子おやこ parent and child差向かい差向さしむかい face to faceの談話談話だんわ talk; conversationのようだ。まるで訓練訓練くんれん practice; trainingがないと非難して非難ひなんして criticizeいた。そっち隣のそっち隣どなりの the next one over男は登場人物の腰が据わらない腰こしが据すわらない be fidgety; be restive。ことごとくひょろひょろしてひょろひょろして totter; be unsteadyいると訴えて訴うったえて complain (of)いた。二人二人ふたり two (people)は登場人物の本名本名ほんみょう real name; true identityをみんな暗んじて暗そらんじて have thorough knowledge ofいる。三四郎は耳を傾けて耳みみを傾かたむけて listen in二人の談話を聞いていた。二人ともりっぱな服装服装なり dress; attireをしている。おおかた有名な有名ゆうめいな esteemed; renowned人人ひと personsだろうと思った。けれどももし与次郎にこの談話を聞かせたらさだめしさだめし surely; certainly反対する反対はんたいする object; disagreeだろうと思った。その時うしろの方方ほう directionでうまいうまいなかなかうまいと大きな声大おおきな声こえ loud voiceを出した出だした put forth者がある。隣の男は二人ともうしろを振り返った振ふり返かえった turned (to look)。それぎり話話はなし talk; conversationをやめてしまった。そこで幕がおりた。

あすこ、ここに席を立つ席せきを立たつ rise from one's seat者者もの personsがある。花道花道はなみち main isle from stage to rear of theaterから出口出口でぐち exitへかけて、人人ひと peopleの影影かげ figures; formsがすこぶる忙しい忙いそがしい busy; restless。三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)は中腰中腰ちゅうごし half-risingになって、四方四方しほう all sidesをぐるりと見回した見回みまわした looked around; surveyed。来ている来きている be there; have arrivedはずの人はどこにも見えない。本当本当ほんとう truthをいうと演芸中演芸中えんげいちゅう during the performanceにもできるだけは気をつけて気きをつけて be attentive; be on the watch (for)いた。それで知れない知しれない unable to discover; unable to find outから、幕になったらば幕まくになったらば when the curtain fallsと内々内々ないない inwardly; to oneself心あて心こころあて expectation; anticipationにしていたのである。三四郎は少し少すこし a little; a bit失望した失望しつぼうした was disappointed。やむをえず目目め eyesを正面正面しょうめん front; straight aheadに帰した帰かえした returned。

隣隣となり next to; neighboringの連中連中れんじゅう pair (of men)はよほど世間が広い世間せけんが広ひろい have a large circle of acquaintances男たち男おとこたち menとみえて、左右左右さゆう left and right; both sidesを顧みて顧かえりみて look over one's shoulder、あすこにはだれがいる。ここにはだれがいるとしきりに知名知名ちめい well-known; of reputeの人の名名な namesを口にする口くちにする call out; mention。なかには離れながら離はなれながら across a distance、互いに互たがいに mutually挨拶挨拶あいさつ greeting; salutationをしたのも、一、二人一いち、二人ににん several (people)ある。三四郎はおかげでこれら知名な人の細君細君さいくん wivesを少し覚えた覚おぼえた came to recognize。そのなかには新婚したばかりの新婚しんこんしたばかりの just married; newly wed者もあった。これは隣の一人一人いちにん one (person)にも珍しかった珍めずらしかった was curious; was novelとみえて、その男はわざわざ眼鏡眼鏡めがね glassesをふき直してふき直なおして wiped anew; cleaned anew、なるほどなるほどと言って言いって say; remark見ていた。

すると、幕のおりた舞台舞台ぶたい stageの前前まえ front ofを、向こう向むこう the far sideの端端はじ end; edgeからこっちへ向けて向むけて head toward、小走りに小走こばしりに at a half run与次郎与次郎よじろう Yojirō (name)がかけて来た。三分の二三分さんぶんの二に two thirdsほどの所所ところ place; locationで留まった留とまった stopped; halted。少し及び腰及および腰ごし bending forward (from the waist)になって、土間土間どま parterre; parquet circle (theater seating)の中中なか insideをのぞき込みながらのぞき込こみながら peering into、何か何なにか something話して話はなして say; relate; explainいる。三四郎はそれを見当見当けんとう aim; markにねらいをつけた。――舞台の端に立った与次郎から一直線に一直線いっちょくせんに in a direct line、二、三間二に、三間さんげん two or three ken (about 4 meters; about 5 yards)隔てて隔へだてて separated; apart美禰子美禰子みねこ Mineko (name)の横顔横顔よこがお (face in) profileが見えた。

そのそばにいる男は背中背中せなか backを三四郎に向けている。三四郎は心のうちに心こころのうちに to oneself、この男が何かの拍子に何なにかの拍子ひょうしに by some chance、どうかしてこっちを向いてくれればいいと念じて念ねんじて hoped; wished (for)いた。うまいぐあいにその男は立った。すわりくたびれたとみえて、枡枡ます theater boxの仕切り仕切しきり partitionに腰をかけて腰こしをかけて sit against、場内場内じょうない interior (of a venue)を見回しはじめた。その時時とき time; occasion三四郎は明らかに明あきらかに clearly; distinctly野々宮野々宮ののみや Nonomiya (name)さんの広い広ひろい wide; broad額額ひたい forehead; browと大きな大おおきな large目を認める認みとめる recognizeことができた。野々宮さんが立つとともに、美禰子のうしろにいたよし子よし子こ Yoshiko (Nonomiya's younger sister)の姿姿すがた figure; formも見えた。三四郎はこの三人三人さんにん three (people)のほかに、まだ連連つれ companion; companyがいるかいないかを確かめよう確たしかめよう verify; ascertainとした。けれども遠くから遠とおくから from a distance見ると、ただ人がぎっしり詰まってぎっしり詰つまって be packed in tightlyいるだけで、連といえば土間全体全体ぜんたい whole; entiretyが連とみえるまでだからしかたがない。美禰子と与次郎のあいだには、時々時々ときどき from time to time談話談話だんわ words (of conversation)が交換されつつある交換こうかんされつつある continue to be exchangedらしい。野々宮さんもおりおりおりおり occasionally; at times口を出す口くちを出だす put a word inと思われると思おもわれる seemed to ...; appeared to ...。

すると突然突然とつぜん suddenly原口原口はらぐち Haraguchi (name)さんが幕幕まく curtainの間間あいだ midstから出て来た出でて来きた emerged; appeared。与次郎与次郎よじろう Yojirō (name)と並んで並ならんで come next to; be side-by-sideしきりに土間土間どま parterre; parquet circle (theater seating)の中中なか insideをのぞきこむ。口口くち mouthはむろん動かして動うごかして moveいるのだろう。野々宮野々宮ののみや Nonomiya (name)さんは合い図合あい図ず signal; signのような首首くび headを縦に縦たてに vertically; up and down振った振ふった nodded。その時原口さんはうしろから、平手平手ひらて palm; open handで、与次郎の背中背中せなか backをたたいた。与次郎はくるりと引っ繰り返って引ひっ繰くり返かえって turn around; do an about-face、幕の裾裾すそ hem; lower edgeをもぐってどこかへ消えうせた消きえうせた disappeared; vanished。原口さんは、舞台舞台ぶたい stageを降りて降おりて descend from、人人ひと peopleと人との間を伝わって伝つたわって pass among; move through、野々宮さんのそばまで来た。野々宮さんは、腰を立てて腰こしを立たてて straighten up原口さんを通した通とおした let pass; made way for。原口さんはぽかりと人の中へ飛び込んだ飛とび込こんだ plunged into。美禰子美禰子みねこ Mineko (name)とよし子よし子こ Yoshiko (Nonomiya's younger sister)のいるあたりで見えなくなった見みえなくなった disappeared from view。

この連中連中れんじゅう groupの一挙一動一挙一動いっきょいちどう one's every actionを演芸演芸えんげい performance以上以上いじょう more thanの興味興味きょうみ interestをもって注意して注意ちゅういして be attentive to; followいた三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)は、この時時とき time; moment急に急きゅうに suddenly原口流原口はらぐち流りゅう in the manner of Haraguchi; Haraguchi-styleの所作所作しょさ movement; actionがうらやましくなった。ああいう便利な便利べんりな convenient; pragmatic方法方法ほうほう method; techniqueで人のそばへ寄る寄よる approach; draw near toことができようとは毫も毫ごうも (not) at all思いつかなかった思おもいつかなかった hadn't thought of; hadn't hit upon。自分自分じぶん oneselfもひとつまねてまねて follow suit; imitateみようかしらと思った。しかしまねるという自覚自覚じかく consciousness; awareness (of)が、すでに実行実行じっこう practice; executionの勇気勇気ゆうき boldness; courageをくじいたくじいた discouraged; unnervedうえに、もうはいる席席せき seatは、いくら詰めて詰つめて crowd; squeeze togetherも、むずかしかろうという遠慮遠慮えんりょ discretion; reserveが手伝って手伝てつだって lend a hand; assist、三四郎の尻尻しり haunchesは依然として依然いぜんとして still; as yet、もとの席を去りえなかった去さりえなかった couldn't move from。

そのうち幕があいて、ハムレットハムレット Hamletが始まった始はじまった started; began。三四郎は広田先生広田ひろた先生せんせい Professor Hirotaのうちで西洋西洋せいよう the Westのなんとかいう名優名優めいゆう famous actorのふんしたふんした acted out; portrayedハムレットの写真写真しゃしん photographを見たことがある。今今いま now; at present三四郎の目の前目めの前まえ before one's eyesにあらわれたハムレットは、これとほぼ同様同様どうよう identicalの服装服装なり clothing; attire; dressをしている。服装ばかりではない。顔顔かお face; facial expressionまで似ている似にている be similar; be alike。両方両方りょうほう bothとも八の字を寄せて八はちの字じを寄よせて knit one's brows; frownいる。

このハムレットハムレット Hamletは動作動作どうさ movementsがまったく軽快軽快けいかい light; nimbleで、心持ち心持こころもち mood; feeling; sensationがいい。舞台舞台ぶたい stageの上上うえ top ofを大いに大おおいに grandly動いて動うごいて move; shift、また大いに動かせる。能掛り能掛のうがかり resembling a noh performanceの入鹿入鹿いるか Soga no Iruka (statesman; assassinated in 645)とはたいへん趣趣おもむき appearance; tenorを異にして異ことにして differ; be distinct (from)いる。ことに、ある時時とき time; moment、ある場合場合ばあい situationに、舞台のまん中まん中なか middle; centerに立って立たって stand、手手て hands; armsを広げて広ひろげて spread outみたり、空空そら skies; the heavensをにらんでみたりするときは、観客観客かんきゃく spectators; audienceの眼中に眼中がんちゅうに in one's eyesほかのものはいっさい入り込む入いり込こむ enter into; encroach upon余地余地よち room; marginのないくらい強烈な強烈きょうれつな strong; intense刺激刺激しげき sensation; thrillを与える与あたえる bestow; grant; impart (to)。

その代りその代かわり on the other hand; at the same time台詞台詞せりふ speech; one's linesは日本語日本語にほんご Japanese (language)である。西洋語西洋語せいようご European language; Western languageを日本語に訳した訳やくした translated日本語である。口調口調くちょう tone; expressionには抑揚抑揚よくよう intonation; inflectionがある。節奏節奏せっそう rhythmもある。あるところは能弁すぎる能弁のうべんすぎる too smooth; too eloquentと思われる思おもわれる seem to be ...くらい流暢に流暢りゅうちょうに fluently出る出でる appear; emerge。文章文章ぶんしょう composition; writing (style)もりっぱである。それでいて、気が乗らない気きが乗のらない is not engaging; does not move one。三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)はハムレットがもう少し少すこし a little; a bit日本人日本人にほんじん Japanese (person)じみたじみた imparting the sense ofことを言って言いって speak; utterくれればいいと思った。おっかさん、それじゃおとっさんにすまないじゃありませんかと言いそうなところで、急に急きゅうに suddenlyアポロアポロ Apolloなどを引合いに出して引合ひきあいに出だして appeal to as a witness; bring to bear (on a matter)、のん気のん気き carefree; easygoingにやってしまう。それでいて顔つき顔かおつき (facial) expression; countenanceは親子親子おやこ parent and child (mother and son)とも泣きだしそう泣なきだしそう on the verge of tearsである。しかし三四郎はこの矛盾矛盾むじゅん contradiction; inconsistencyをただ朧気に朧気おぼろげに vaguely; indistinctly感じた感かんじた sensed; perceivedのみである。けっしてつまらないと思いきる思おもいきる conclude decisivelyほどの勇気勇気ゆうき boldness; resolveは出なかった。

したがって、ハムレットに飽きた飽あきた grew tired of; lost interest in時は、美禰子美禰子みねこ Mineko (name)の方方ほう directionを見て見みて look; gazeいた。美禰子が人人ひと people; othersの影影かげ figure; formに隠れて隠かくれて be hidden (by)見えなくなる時は、ハムレットを見ていた。

ハムレットがオフェリヤオフェリヤ Opheliaに向かって向むかって turn to、尼寺へ行け尼寺あまでらへ行ゆけ get thee to a nunnery尼寺へ行けと言うところへきた時、三四郎はふと広田先生広田ひろた先生せんせい Professor Hirotaのことを考え出した考かんがえ出だした brought to mind; recollected。広田先生は言った。――ハムレットのようなものに結婚結婚けっこん marriageができるか。――なるほど本本ほん book; textで読む読よむ readとそうらしい。けれども、芝居芝居しばい play; dramaでは結婚してもよさそうである。よく思案して思案しあんして consider; reflect onみると、尼寺へ行けとの言い方言いい方かた manner of speaking; form of expressionが悪い悪わるい no good; inadequate; wantingのだろう。その証拠証拠しょうこ evidence; proofには尼寺へ行けと言われたオフェリヤがちっとも気の毒気きの毒どく pitiable; evoking sympathyにならない。

幕幕まく curtainがまたおりた。美禰子美禰子みねこ Mineko (name)とよし子よし子こ Yoshiko (Nonomiya's younger sister)が席を立った席せきを立たった rose from one's seat。三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)もつづいて立った。廊下廊下ろうか hallway; corridorまで来て来きて come (to); arrive (at)みると、二人二人ふたり two (people)は廊下の中ほど中なかほど middle; midway pointで、男男おとこ man; gentlemanと話話はなし talk; conversationをしている。男は廊下から出はいり出ではいり entrance and exit; coming and goingのできる左側左側ひだりがわ left sideの席の戸口戸口とぐち doorwayに半分半分はんぶん half; halfwayからだを出した出だした put forth; present。男の横顔横顔よこがお (face in) profileを見た見みた saw; spotted時時とき time; moment、三四郎はあとへ引き返したあとへ引ひき返かえした turned back; retreated。席へ返らずに返かえらずに without returning (to)下足下足げそく outdoor shoes (exchanged for slippers on entering)を取って取とって take; receive表表おもて out frontへ出た。

本来本来ほんらい essentially; in and of itselfは暗い暗くらい dark; dim夜夜よ evening; nightである。人の力人ひとの力ちから human effortで明るくした明あかるくした brightened; lit up所所ところ places; areaを通り越す通とおり越こす go past; move beyondと、雨雨あめ rainが落ちて落おちて fall; come down (rain)いるように思うように思おもう it seems that ...。風風かぜ windが枝枝えだ branchesを鳴らす鳴ならす rattle。三四郎は急いで急いそいで hurriedly下宿下宿げしゅく lodgingsに帰った帰かえった returned (to)。

夜半夜半よなか midnight; dead of night (usually 夜中よなか)から降りだした降ふりだした started to rain。三四郎は床床とこ beddingの中で、雨の音音おと soundを聞きながら聞ききながら while listening to、尼寺へ行け尼寺あまでらへ行ゆけ Get thee to a nunneryという一句一句いっく line; phraseを柱柱はしら pillar; mainstayにして、その周囲周囲まわり peripheryにぐるぐる彽徊した彽徊ていかいした lingered; hovered。広田先生広田ひろた先生せんせい Professor Hirotaも起きている起おきている be awakeかもしれない。先生はどんな柱を抱いて抱いだいて embrace; latch on toいるだろう。与次郎与次郎よじろう Yojirō (name)は偉大なる偉大いだいなる great; mighty暗闇暗闇くらやみ darkness; voidの中に正体なく正体しょうたいなく lost to oneself埋まっている埋うまっている buried in; immersed inに違いないに違ちがいない no doubt ...。……

あくる日あくる日ひ the next dayは少し少すこし a little; a bit熱熱ねつ feverがする。頭頭あたま headが重い重おもい heavy; languidから寝て寝ねて sleep; stay in bedいた。昼飯昼飯ひるめし lunchは床の上上うえ top ofに起き直って起おき直なおって sit up食った食くった ate。また一寝入り一寝入ひとねいり napすると今度今度こんど this time; nowは汗が出た汗あせが出でた broke out in a sweat。気がうとくなる気きがうとくなる feel detached; not be oneself; be in a daze。そこへ威勢よく威勢いせいよく energetically; cheerfully与次郎がはいって来たはいって来きた came in。ゆうべも見えず、けさも講義講義こうぎ lectureに出ないようだからどうしたかと思って尋ねた尋たずねた searched forと言う言いう said; explained。三四郎は礼を述べた礼れいを述のべた expressed one's gratitude。

「なに、ゆうべは行った行いった went; was thereんだ。行ったんだ。君君きみ youが舞台舞台ぶたい stageの上に出てきて、美禰子さんと、遠くで遠とおくで at a distance話をしていたのも、ちゃんと知っている知しっている know of; be aware of」

三四郎は少し酔った酔よった intoxicated; woozyような心持ち心持こころもち feelingである。口をききだす口くちをききだす start in talkingと、つるつるとつるつると smoothly; fluidly出る。与次郎は手を出して手てを出だして reach out one's hand、三四郎の額額ひたい forehead; browをおさえた。

「だいぶ熱がある。薬を飲まなくっちゃいけない薬くすりを飲のまなくっちゃいけない need to take some medicine。風邪を引いた風邪かぜを引ひいた caught a coldんだ」

「演芸場演芸場えんげいじょう performance venue; theaterがあまり暑すぎて暑あつすぎて too hot、明るすぎて明あかるすぎて too bright、そうして外外そと outsideへ出ると、急に急きゅうに suddenly寒すぎて寒さむすぎて too cold、暗すぎる暗くらすぎる too darkからだ。あれはよくない」

「いけないたって、しかたがないじゃないか」

「しかたがないったって、いけない」

三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)の言葉言葉ことば words; speechはだんだん短くなる短みじかくなる become shorter、与次郎与次郎よじろう Yojirō (name)がいいかげんにあしらってあしらって handle; deal withいるうちに、すうすう寝て寝ねて sleepしまった。一時間一時間いちじかん one hourほどしてまた目目め eyesをあけた。与次郎を見て見みて look at、

「君君きみ you (used here as form of address)、そこにいるのか」と言う言いう asked。今度今度こんど this timeは平生の平生へいぜいの usual; ordinary三四郎のようである。気分気分きぶん feelingはどうかと聞く聞きく askと、頭頭あたま headが重い重おもい heavy; languidと答えた答こたえた answeredだけである。

「風邪風邪かぜ a coldだろう」

「風邪だろう」

両方両方りょうほう both sides; both partiesで同じ事同おなじ事こと the same thingを言った。しばらくしてから、三四郎が与次郎に聞いた。

「君、このあいだ美禰子美禰子みねこ Mineko (name)さんの事を知ってる知しってる know aboutかとぼくに尋ねた尋たずねた asked; inquiredね」

「美禰子さんの事を? どこで?」

「学校学校がっこう schoolで」

「学校で? いつ」

与次郎はまだ思い出せない思おもい出だせない cannot recall様子様子ようす look; appearanceである。三四郎はやむをえずその前後前後ぜんご before and afterの当時当時とうじ the time in questionを詳しく詳くわしく in detail説明した説明せつめいした explained。与次郎は、

「なるほどそんな事があったかもしれない」と言っている。三四郎はずいぶん無責任無責任むせきにん irresponsibilityだと思った思おもった considered; regarded (as)。与次郎も少し少すこし a little; a bit気の毒になって気きの毒どくになって feeling bad for (someone)、考え出そうとした考かんがえ出だそうとした tried to remember。やがてこう言った。

「じゃ、なんじゃないか。美禰子さんが嫁に行く嫁よめに行いく become a bride; be married off to (another household)という話話はなし talk (of)じゃないか」

「きまったのか」

「きまったように聞いたが、よくわからない」

「野々宮野々宮ののみや Nonomiya (name)さんの所所ところ place; householdか」

「いや、野々宮さんじゃない」

「じゃ……」と言いかけてやめた。

「君、知ってるのか」

「知らない」と言い切った言いい切きった declared; asserted。すると与次郎が少し前前まえ forwardへ乗り出して乗のり出だして lean; bend oneself (forward)きた。

「どうもよくわからない。不思議な不思議ふしぎな strange; curious事があるんだが。もう少したたないと、どうなるんだか見当がつかない見当けんとうがつかない won't know; can't make sense of it all」

三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)は、その不思議な不思議ふしぎな strange; curious事事こと events; circumstancesを、すぐ話せば話はなせば tell; relateいいと思う思おもう think; be of an opinionのに、与次郎与次郎よじろう Yojirō (name)は平気な平気へいきな cool; composed; unconcernedもので、一人で一人ひとりで by oneself; on one's ownのみこんでのみこんで take in; swallow; digest、一人で不思議がっている。三四郎はしばらく我慢して我慢がまんして refrain; exercise restraintいたが、とうとう焦れったくなって焦じれったくなって become impatient; reach one's limit、与次郎に、美禰子美禰子みねこ Mineko (name)に関するに関かんする concerningすべての事実事実じじつ facts; truthsを隠さずに隠かくさずに without holding back話してくれと請求した請求せいきゅうした demanded; insisted。与次郎は笑いだした笑わらいだした laughed。そうして慰謝慰謝いしゃ solace; consolationのためかなんだか、とんだところへ話頭話頭わとう subject; topic (of conversation)を持っていって持もっていって took (to)しまった。

「ばかだなあ、あんな女女おんな woman; young ladyを思って。思ったってしかたがないよ。第一第一だいいち first off; for starters、君君きみ youと同年同年おないどし same ageぐらいじゃないか。同年ぐらいの男男おとこ man; fellowにほれるのは昔昔むかし long ago; past timesの事だ。八百屋お七八百屋やおやお七しち Oshichi (the greengrocer's daughter; executed for love-inspired arson in 1683)時代時代じだい era; time (of); ageの恋恋こい (romantic) loveだ」

三四郎は黙って黙だまって remain silentいた。けれども与次郎の意味意味いみ meaning; implicationはよくわからなかった。

「なぜというに。二十二十はたち twenty (years of age)前後前後ぜんご more or less; aroundの同じ同おなじ same年年とし ageの男女男女なんにょ male and femaleを二人二人ふたり two (people)並べて並ならべて place side by side; compareみろ。女のほうが万事万事ばんじ all things上手上手うわて more capable; more proficientだあね。男は馬鹿にされる馬鹿ばかにされる be taken for a fool; be ridiculedばかりだ。女だって、自分自分じぶん oneselfの軽蔑する軽蔑けいべつする disdain; disrespect男の所所ところ place; householdへ嫁へ行く嫁よめへ行ゆく become a bride; be married off to (another household)気気き inclinationは出ない出でない not be forthcomingやね。もっとも自分が世界世界せかい society; the worldでいちばん偉い偉えらい remarkable; eminentと思ってる女は例外例外れいがい exceptionだ。軽蔑する所へ行かなければ独身独身どくしん single; unmarriedで暮らす暮くらす live; pass one's daysよりほかに方法方法ほうほう way; meansはないんだから。よく金持ち金持かねもち person of wealthの娘娘むすめ daughterや何か何なんか some suchにそんなのがあるじゃないか、望んで望のぞんで of one's own volition嫁に来て嫁よめに来きて come as a bride (to another household)おきながら、亭主亭主ていしゅ master of the house; husbandを軽蔑しているのが。美禰子さんはそれよりずっと偉い。その代りその代かわり on the other hand; at the same time、夫として夫おっととして as a husband尊敬尊敬そんけい respect; esteem; honorのできない人人ひと person; manの所へははじめから行く気はないんだから、相手相手あいて the other party (suitor)になるものはその気でいなくっちゃいけない。そういう点点てん pointで君だのぼくだのは、あの女の夫になる資格資格しかく qualificationsはないんだよ」

三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)はとうとう与次郎与次郎よじろう Yojirō (name)といっしょにされてしまった。しかし依然として依然いぜんとして as before黙って黙だまって remain silentいた。

「そりゃ君君きみ youだって、ぼくだって、あの女女おんな woman; young ladyよりはるかに偉い偉えらい remarkable; eminentさ。お互いにお互たがいに both (of us)これでも、なあ。けれども、もう五、六年五ご、六年ろくねん five or six yearsたたなくっちゃ、その偉さ加減加減かげん degree; extent (of)がかの女の目目め eyesに映ってこない映うつってこない won't be apparent; won't register。しかして、かの女は五、六年じっとしている気づかいはない気きづかいはない there's little chance of ...; it's unlikely that ...。したがって、君があの女と結婚する結婚けっこんする marry; wed事事こと act; happeningは風馬牛風馬牛ふうばぎゅう out of the question (lit meaning: too distant even for beasts in heat)だ」

与次郎は風馬牛という熟字熟字じゅくじ (kanji) expressionを妙な妙みょうな odd; strangeところへ使った使つかった used; applied。そうして一人で一人ひとりで alone; by oneself笑って笑わらって laughedいる。

「なに、もう五、六年もすると、あれより、ずっと上等上等じょうとう top-class; first-rateなのが、あらわれて来るあらわれて来くる come by; appear on the sceneよ。日本日本にほん Japanじゃ今今いま now; at present女のほうが余っている余あまっている be in excessんだから。風邪風邪かぜ a coldなんか引いて引ひいて catch (cold)熱を出した熱ねつを出だした come down with a feverってはじまらない。――なに世の中世よの中なか the worldは広い広ひろい wide; vastから、心配する心配しんぱいする worry; fretがものはない。じつはぼくにもいろいろあるんだが、ぼくのほうであんまりうるさいから、御用御用ごよう (official) businessで長崎長崎ながさき Nagasaki (place name)へ出張する出張しゅっちょうする travel for work; depart on businessと言って言いって say; tellね」

「なんだ、それは」

「なんだって、ぼくの関係した関係かんけいした was involved with女さ」

三四郎は驚いた驚おどろいた was surprised。

「なに、女だって、君なんぞのかつて近寄った近寄ちかよった approached; become close toことのない種類種類しゅるい type; kind (of)の女だよ。それをね、長崎へ黴菌黴菌ばいきん bacteriaの試験試験しけん study; researchに出張するから当分当分とうぶん a while; for some timeだめだって断わっちまった断ことわっちまった asked leave; excused oneself。ところがその女が林檎林檎りんご applesを持って持もって bring停車場停車場ステーション stationまで送りに行く送おくりに行いく come to see (someone) offと言いだしたんで、ぼくは弱った弱よわった was in a bindね」

三四郎はますます驚いた。驚きながら聞いた聞きいた asked; inquired。

「それで、どうした」

「どうしたか知らない知しらない don't know; have no idea。林檎を持って、停車場に待って待まって waitいたんだろう」

「ひどい男男おとこ guy; fellowだ。よく、そんな悪い悪わるい low-down; devious事ができるね」

「悪い悪わるい low-down; devious事事こと act; actionで、かあいそうな事だとは知ってる知しってる know; be aware (of)けれども、しかたがない。はじめから次第次第に次第次第しだいしだいに bit by bit、そこまで運命運命うんめい destiny; fateに持っていかれる持もっていかれる be taken (by)んだから。じつはとうのさきからぼくが医科医科いか medical departmentの学生学生がくせい studentになっていたんだからなあ」

「なんで、そんなよけいな嘘嘘うそ lie; fibをつくんだ」

「そりゃ、またそれぞれの事情事情じじょう situation; circumstancesのあることなのさ。それで、女女おんな woman; young ladyが病気病気びょうき sickness; illnessの時時とき time; occasionに、診断診断しんだん medical examination; diagnosisを頼まれて頼たのまれて be requested (to do); be asked (for)困った困こまった be in a bind; be in a fixこともある」

三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)はおかしくなった。

「その時は舌舌した tongueを見て見みて look at、胸胸むね chestをたたいて、いいかげんにごまかしたが、その次次つぎ nextに病院病院びょういん hospitalへ行って行いって go (to)、見てもらいたいがいいかと聞かれた聞きかれた was askedには閉口した閉口へいこうした was stumped」

三四郎はとうとう笑いだした笑わらいだした broke into laughter; laughed out loud。与次郎与次郎よじろう Yojirō (name)は、

「そういうこともたくさんあるから、まあ安心する安心あんしんする relax; take it easyがよかろう」と言った言いった said; explained。なんの事だかわからない。しかし愉快になった愉快ゆかいになった was cheered; felt better。

与次郎はその時はじめて、美禰子美禰子みねこ Mineko (name)に関するに関かんする concerning ...不思議不思議ふしぎ intrigue; peculiarityを説明した説明せつめいした explained。与次郎の言うところによると、よし子よし子こ Yoshiko (Nonomiya's younger sister)にも結婚結婚けっこん marriageの話話はなし talk (of)がある。それから美禰子にもある。それだけならばいいが、よし子の行く行ゆく go (to)所所ところ place; householdと、美禰子の行く所が、同じ同おなじ the same人人ひと personらしい。だから不思議なのだそうだ。

三四郎も少し少すこし a little; a bitばかにされたような気気き feelingがした。しかしよし子の結婚だけはたしかである。現に現げんに actually; in fact自分自分じぶん oneselfがその話をそばで聞いていた。ことによるとその話を美禰子のと取り違えた取とり違ちがえた mixed up; confused (one thing with another)のかもしれない。けれども美禰子の結婚も、まったく嘘ではないらしい。三四郎ははっきりしたところが知りたくなった。ついでだから、与次郎に教えて教おしえて tell; informくれと頼んだ。与次郎はわけなくわけなく easily; readily承知した承知しょうちした agreed; consented。よし子を見舞い見舞みまい visit (to someone needing care)に来る来くる come; stop byようにしてやるから、じかにじかに directly; first hand聞いてみろという。うまい事を考えた考かんがえた came up with; devised。

「だから、薬薬くすり medicineを飲んで飲のんで drink; take (medicine)、待って待まって waitいなくってはいけない」

「病気が直って直なおって be cured; get betterも、寝て寝ねて stay in bed待っている」

二人二人ふたり two (people)は笑って別れた別わかれた parted。帰りがけに帰かえりがけに on the way home与次郎が、近所近所きんじょ neighborhood; vicinityの医者医者いしゃ doctorに来てもらう手続き手続てつづき arrangementsをした。

晩晩ばん eveningになって、医者医者いしゃ doctorが来た来きた came; arrived。三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)は自分自分じぶん oneselfで医者を迎えた迎むかえた received (a person)覚え覚おぼえ experienceがないんだから、はじめは少し少すこし a little; a bit狼狽した狼狽ろうばいした was flustered; was out of sorts。そのうち脈を取られた脈みゃくを取とられた have one's pulse takenのでようやく気がついた気きがついた came to oneself; regained composure。年年とし ageの若い若わかい young丁寧な丁寧ていねいな polite; courteous男男おとこ manである。三四郎は代診代診だいしん doctor's assistantと鑑定した鑑定かんていした judged to be ...; assessed as。五分五分ごふん five minutesののち病症病症びょうしょう nature of an illnessはインフルエンザインフルエンザ influenza; fluときまった。今夜今夜こんや this evening頓服頓服とんぷく (one time) dose of medicineを飲んで飲のんで drink; take (medicine)、なるべく風風かぜ (cold) outside air; draftにあたらないようにしろという注意注意ちゅうい advice; cautionである。

翌日翌日よくじつ the next day目がさめる目めがさめる open one's eyes; wake upと、頭頭あたま headがだいぶ軽くなって軽かるくなって feel lighterいる。寝て寝ねて lie in bedいれば、ほとんど常体常体じょうたい normal state (usually 常態じょうたい)に近いに近ちかい close to。ただ枕枕まくら pillowを離れる離はなれる leave; move away fromと、ふらふらする。下女下女げじょ maidservantが来て、だいぶ部屋部屋へや roomの中中なか insideが熱臭い熱臭ねつくさい stuffy (from a feverish person)と言った言いった said; remarked。三四郎は飯飯めし mealも食わずに食くわずに without eating、仰向け仰向あおむけ face up; on one's backに天井天井てんじょう ceilingをながめていた。時々時々ときどき occasionally; from time to timeうとうと眠くなる眠ねむくなる feel drowsy; doze off。明らかに明あきらかに clearly; evidently熱熱ねつ feverと疲れ疲つかれ fatigueとにとらわれたありさまである。三四郎は、とらわれたまま、逆らわずに逆さからわずに without resisting; without a struggle、寝たりさめたりするあいだに、自然自然しぜん natureに従う従したがう obey; follow; abide by一種の一種いっしゅの a certain (kind of)快感快感かいかん feeling of comfortを得た得えた realized; achieved。病症が軽いからだと思った。

四時間四時間よじかん four hours、五時間五時間ごじかん five hoursとたつうちに、そろそろ退屈退屈たいくつ tedium; restlessnessを感じだした感かんじだした started to feel。しきりに寝返りを打つ寝返ねがえりを打うつ toss and turn。外外そと outsideはいい天気天気てんき weatherである。障子障子しょうじ shōji (sliding panel)にあたる日日ひ sunlightが、次第に次第しだいに gradually影影かげ shadowを移してゆく移うつしてゆく shift; trace。雀雀すずめ sparrowが鳴く鳴なく sing; chirp (bird)。三四郎はきょうも与次郎与次郎よじろう Yojirō (name)が遊びに来て遊あそびに来きて come to visitくれればいいと思った思おもった thought; considered。

ところへ下女が障子をあけて、女女おんな woman; young ladyのお客様お客様きゃくさま visitor; guestだと言う。よし子よし子こ Yoshiko (Nonomiya's younger sister)が、そう早く早はやく soon来よう来きよう call on; visitとは待ち設けなかった待まち設もうけなかった had not anticipated。与次郎だけに敏捷な敏捷びんしょうな nimble; shrewd働き働はたらき activity; actionをした。寝たまま、あけ放しあけ放はなし left openの入口入口いりぐち entrance; doorwayに目をつけていると、やがて高い高たかい tall姿姿すがた figure; formが敷居敷居しきい threshold; sillの上上うえ top of; aboveへ現われた現あらわれた appeared。きょうは紫紫むらさき purpleの袴袴はかま hakama (divided skirt)をはいている。足足あし feetは両方両方りょうほう bothとも廊下廊下ろうか hallway; corridorにある。ちょっとはいるのを躊躇した躊躇ちゅうちょした hesitated様子様子ようす appearance; aspectが見える見みえる be discernible; be apparent。三四郎は肩肩かた shouldersを床床とこ beddingから上げて上あげて raise; lift、「いらっしゃい」と言った。

よし子よし子こ Yoshiko (Nonomiya's younger sister)は障子をたてて障子しょうじをたてて close the shōji、枕元枕元まくらもと bedside; near one's pillowへすわった。六畳の六畳ろくじょうの six-mat (about 10 sq meters; about 100 sq ft)座敷座敷ざしき (tatami-floored) roomが、取り乱してある取とり乱みだしてある be a mess; be in disarrayうえに、けさは掃除掃除そうじ cleaningをしないから、なお狭苦しい狭苦せまくるしい cramped; confining。女女おんな young ladyは、三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)に、

「寝て寝ねて lie down; restいらっしゃい」と言った言いった said; offered。三四郎はまた頭頭あたま headを枕枕まくら pillowへつけた。自分自分じぶん oneselfだけは穏やか穏おだやか relaxed; at easeである。

「臭く臭くさく foul-smelling; rankはないですか」と聞いた聞きいた asked。

「ええ、少し少すこし a little; a bit」と言ったが、べつだん臭い顔顔かお facial expressionもしなかった。「熱熱ねつ feverがおありなの。なんなんでしょう、御病気御病気ごびょうき (your) illnessは。お医者お医者いしゃ doctorはいらしって」

「医者はゆうべ来ました来きました came; called。インフルエンザインフルエンザ influenzaだそうです」

「けさ早く早はやく early佐々木佐々木ささき Sasaki (Yojirō's family name)さんがおいでになって、小川小川おがわ Ogawa (Sanshirō's family name)が病気だから見舞い見舞みまい visit (to someone needing care)に行って行いって go (to)やってください。何病何病なんびょう what (kind of) illnessだかわからないが、なんでも軽くはない軽かるくはない not minor; not trivialようだっておっしゃるものだから、私私わたくし I; meも美禰子美禰子みねこ Mineko (name)さんもびっくりしたの」

与次郎与次郎よじろう Yojirō (name)がまた少しほらを吹いたほらを吹ふいた exaggerated; stretched the truth。悪く言えば悪わるく言いえば at worst, one could say that ...、よし子を釣り出した釣つり出だした lured out; tricked (into coming)ようなものである。三四郎は人がいい人ひとがいい of generous nature; true in characterから、気の毒でならない気きの毒どくでならない felt bad about; was sorry for (something)。「どうもありがとう」と言って寝ている。よし子は風呂敷包み風呂敷ふろしき包づつみ furoshiki-wrapped bundleの中中なか insideから、蜜柑蜜柑みかん mandarin oranges; mandarinsの籠籠かご basketを出した出だした took out; produced。

「美禰子さんの御注意御注意ごちゅうい advice; instructionがあったから買ってきました買かってきました went and bought」と正直な正直しょうじきな frank; candid事事こと account (of events)を言う。どっちのお見舞お見舞みやげ gift; present (usually お土産みやげ)だかわからない。三四郎はよし子に対してに対たいして with respect to; toward礼を述べて礼れいを述のべて express one's gratitudeおいた。

「美禰子さんもあがるはずですが、このごろ少し忙しい忙いそがしい busyものですから――どうぞよろしくって……」

「何か何なにか something特別に特別とくべつに especially; in particular忙しいことができたのですか」

「ええ。できたの」と言った。大きな大おおきな large黒い黒くろい black目目め eyesが、枕についた三四郎の顔の上上うえ top ofに落ちて落おちて fell; rested (on)いる。三四郎は下下した belowから、よし子の青白い青白あおじろい pale額額ひたい forehead; browを見上げた見上みあげた looked up at。はじめてこの女に病院病院びょういん hospitalで会った会あった met昔昔むかし former time; bygone dayを思い出した思おもい出だした remembered; recalled。今今いま now; the presentでもものうげものうげ weary; listlessに見える。同時に同時どうじに at the same time快活快活かいかつ cheerful; lightheartedである。頼りになる頼たよりになる win one's trust; merit one's trustべきすべての慰謝慰謝いしゃ comfort; solaceを三四郎の枕の上にもたらしてきた。

「蜜柑蜜柑みかん mandarin orange; mandarineをむいてあげましょうか」

女女おんな young ladyは青い青あおい green葉葉は leavesの間間あいだ midstから、果物果物くだもの fruitを取り出した取とり出だした took out; produced。渇いた渇かわいた thirsty; parched人人ひと personは、香香か fragrance; aromaにほとばしるほとばしる well up; gush out甘い露甘あまい露つゆ nectarを、したたかにしたたかに a great deal飲んだ飲のんだ drank; swallowed。

「おいしいでしょう。美禰子美禰子みねこ Mineko (name)さんのお見舞お見舞みやげ gift; present (usually お土産みやげ)よ」

「もうたくさん」

女は袂袂たもと sleeve pocketから白い白しろい whiteハンケチハンケチ handkerchiefを出して手手て handsをふいた。

「野々宮野々宮ののみや Nonomiya (Yoshiko's family name)さん、あなたの御縁談御縁談ごえんだん marriage proposalはどうなりました」

「あれぎりです」

「美禰子さんにも縁談の口口くち opening; opportunity (for)があるそうじゃありませんか」

「ええ、もうまとまりました」

「だれですか、さきは」

「私私わたし I; meをもらうと言った言いった said; offeredかたなの。ほほほおかしいでしょう。美禰子さんのお兄いさんお兄あにいさん older brotherのお友だちお友ともだち friendよ。私近いうち近ちかいうち soon; before longにまた兄といっしょに家家いえ houseを持ちます持もちます have; hold; keepの。美禰子さんが行って行いって go; leaveしまうと、もうご厄介ご厄介やっかい trouble; burden (to someone else)になってるわけにゆかないから」

「あなたはお嫁お嫁よめ brideには行かないんですか」

「行きたい行ゆきたい go (to)所所ところ place; householdがありさえすれば行きますわ」

女はこう言い捨てて言いい捨すてて say in conclusion; end with心持ちよく心持こころもちよく in good spirits笑った笑わらった smiled; laughed。まだ行きたい所がないにきまっている。

三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)はその日日ひ dayから四日四日よっか four daysほど床を離れなかった床とこを離はなれなかった didn't leave (his) bed。五日目五日目いつかめ fifth dayにこわごわながらこわごわながら gingerly; with caution湯湯ゆ bathにはいって、鏡鏡かがみ mirrorを見た見みた saw; looked at。亡者亡者もうじゃ the deadの相相そう appearance; countenanceがある。思い切って思おもい切きって resolutely床屋床屋とこや barbershopへ行った。そのあくる日は日曜日曜にちよう Sundayである。

朝飯後朝飯あさめし後ご after breakfast、シャツシャツ shirt; dress shirtを重ねて重かさねて layer on (clothing)、外套外套がいとう overcoatを着て着きて wear; don、寒くない寒さむくない not (get; be) coldようにして美禰子美禰子みねこ Mineko (name)の家家いえ house; residenceへ行った行いった went (to); set out (for)。玄関玄関げんかん entry hallによし子よし子こ Yoshiko (Nonomiya's younger sister)が立って立たって stand、今今いま now; just now沓脱沓脱くつぬぎ platform for changing one's shoesへ降りようとして降おりようとして be about to descend; be about to step down (to)いる。今兄兄あに older brotherの所所ところ place; homeへ行くところだと言う言いう remark; explain。美禰子はいない。三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)はいっしょに表表おもて out frontへ出た出でた departed; went out (to)。

「もうすっかりいいんですか」

「ありがとう。もう直りました直なおりました recovered; feeling better。――里見里見さとみ Satomi (Mineko's family name)さんはどこへ行ったんですか」

「にいさん?」

「いいえ、美禰子さんです」

「美禰子さんは会堂会堂チャーチ church」

美禰子の会堂へ行くことは、はじめて聞いた聞きいた heard。どこの会堂か教えて教おしえて tell; informもらって、三四郎はよし子に別れた別わかれた parted (from); took leave (of)。横町横町よこちょう side streets; lanesを三つ三みっつ three (things)ほど曲がる曲まがる turn (at; onto)と、すぐ前すぐ前まえ immediately in front (of something)へ出た。三四郎はまったく耶蘇教耶蘇教やそきょう Christianityに縁のない縁えんのない have no connection to; have no experience with男男おとこ man; fellowである。会堂の中中なか insideはのぞいて見たのぞいて見みた taken a look (at)こともない。前へ立って、建物建物たてもの buildingをながめた。説教説教せっきょう sermonの掲示掲示けいじ notice; bulletinを読んだ読よんだ read。鉄柵鉄柵てっさく iron fenceの所を行ったり来たりした行いったり来きたりした paced to and fro; walked back and forth。ある時時とき time; occasionは寄りかかって寄よりかかって lean onみた。三四郎はともかくもして、美禰子の出てくるのを待つ待まつ wait forつもりである。

やがて唱歌唱歌しょうか singingの声声こえ voicesが聞こえた。賛美歌賛美歌さんびか hymn; song of praiseというものだろうと考えた考かんがえた thought; assumed。締め切った締しめ切きった closed; shut; sealed高い高たかい high; tall窓窓まど windowsのうちのでき事でき事ごと event; happeningである。音量音量おんりょう volume (of sound)から察する察さっする guess; surmiseとよほどの人数人数にんずう number of peopleらしい。美禰子の声もそのうちにある。三四郎は耳を傾けた耳みみを傾かたむけた listened attentively。歌歌うた songはやんだ。風風かぜ windが吹く吹ふく blow。三四郎は外套の襟襟えり collarを立てた立たてた turned up; straightened。空空そら skyに美禰子の好きな好すきな favored; preferred雲雲くも cloudsが出た。

かつて美禰子といっしょに秋秋あき autumnの空を見たこともあった。所は広田先生広田ひろた先生せんせい Professor Hirotaの二階二階にかい second floorであった。田端田端たばた Tabata (place name)の小川小川おがわ small river; streamの縁縁ふち edgeにすわったこともあった。その時も一人一人ひとり alone; by oneselfではなかった。迷羊迷羊ストレイ・シープ stray sheep。迷羊。雲が羊羊ひつじ sheepの形形かたち shape; formをしている。

忽然として忽然こつぜんとして suddenly会堂会堂チャーチ churchの戸戸と doorsが開いた開あいた opened。中中なか inside; withinから人人ひと peopleが出る出でる come out; emerge。人は天国天国てんごく the Kingdom of Heavenから浮世浮世うきよ the transient worldへ帰る帰かえる return (to)。美禰子美禰子みねこ Mineko (name)は終り終おわり the endから四番目四番目よんばんめ fourth; number fourであった。縞縞しま stripeの吾妻コート吾妻あずまコート ladies coat (of style popular in Meiji era)を着て着きて wear、うつ向いてうつ向むいて with eyes cast downward、上り口の階段上のぼり口ぐちの階段かいだん front stepsを降りて来た降おりて来きた descended。寒い寒さむい (feeling) coldとみえて、肩をすぼめて肩かたをすぼめて draw in one's shoulders、両手両手りょうて both handsを前前まえ in frontで重ねて重かさねて place one on top of the other、できるだけ外界外界がいかい outside worldとの交渉交渉こうしょう connection; interactionを少なくして少すくなくして minimizeいる。美禰子はこのすべてにあがらざる態度態度たいど attitude; mannerを門門かど gateぎわまで持続した持続じぞくした continued; maintained。その時時とき time; moment、往来往来おうらい the streetの忙しさ忙いそがしさ bustle; activityに、はじめて気がついた気きがついた took notice (of)ように顔顔かお faceを上げた上あげた lifted。三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)の脱いだ脱ぬいだ had taken off; had removed帽子帽子ぼうし hat; capの影影かげ figure; formが、女女おんな woman; young ladyの目に映った目めに映うつった caught one's eye。二人二人ふたり two (people)は説教説教せっきょう sermonの掲示掲示けいじ notice; bulletinのある所所ところ place; locationで、互いに互たがいに mutually; with respect to one another近寄った近寄ちかよった drew near。

「どうなすって」

「今今いま now; just nowお宅お宅たく (your) house; residenceまでちょっと出たところです」

「そう、じゃいらっしゃい」

女はなかば歩をめぐらしかけた歩ほをめぐらしかけた redirected one's steps。相変らず相変あいかわらず as usual低い低ひくい low下駄下駄げた wooden clogsをはいている。男男おとこ man; fellowはわざと会堂の垣垣かき fenceに身を寄せた身みを寄よせた leaned against。

「ここでお目にかかればお目めにかかれば see; meet withそれでよい。さっきから、あなたの出て来る出でて来くる come out; appearのを待って待まって wait for; wait onいた」

「おはいりになればよいのに。寒かったでしょう」

「寒かった」

「お風邪お風邪かぜ cold; fluはもうよいの。大事になさらないと大事だいじになさらないと if you don't take care of yourself、ぶり返しますぶり返かえします return; recurよ。まだ顔色顔色かおいろ complexion; one's colorがよくないようね」

男は返事返事へんじ answer; replyをしずに、外套外套がいとう overcoatの隠袋隠袋かくし pocketから半紙半紙はんし calligraphy paper; writing paperに包んだ包つつんだ wrappedものを出した出だした took out; produced。

「拝借した拝借はいしゃくした borrowed (from you)金金かね moneyです。ながながありがとう。返そう返かえそう return; repay返そうと思って思おもって think (to do something)、ついおそくなった」

美禰子はちょっと三四郎の顔を見た見みた looked atが、そのまま逆らわずに逆さからわずに without objection; without protest、紙包み紙包かみづつみ paper-wrapped packetを受け取った受うけ取とった took; received。しかし手手て handに持った持もった heldなり、しまわずにながめている。三四郎もそれをながめている。言葉言葉ことば wordsが少しのあいだ切れた切きれた ran out; were exhausted。やがて、美禰子が言った言いった said; asked。

「あなた、御不自由御不自由ごふじゆう inconvenience; encumbranceじゃなくって」

「いいえ、このあいだからそのつもりで国国くに country; one's native placeから取り寄せて取とり寄よせて call for; have sendおいたのだから、どうか取ってください」

「そう。じゃいただいておきましょう」

女女おんな woman; young ladyは紙包み紙包かみづつみ paper-wrapped packetを懐懐ふところ pocketへ入れた入いれた put into。その手手て handを吾妻コート吾妻あずまコート ladies coat (of style popular in Meiji era)から出した出だした took out (from)時時とき time; when ...、白い白しろい whiteハンケチハンケチ handkerchiefを持って持もって have; holdいた。鼻鼻はな noseのところへあてて、三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)を見て見みて look atいる。ハンケチをかぐ様子様子ようす appearanceでもある。やがて、その手を不意に不意ふいに suddenly; abruptly延ばした延のばした stretched forth。ハンケチが三四郎の顔顔かお faceの前前まえ front ofへ来た来きた came (to)。鋭い鋭するどい sharp; piquant香香かおり fragranceがぷんとする。

「ヘリオトロープヘリオトロープ heliotrope (pink-purple flowering plant; perfume of same name)」と女が静かに静しずかに quietly言った言いった said; remarked。三四郎は思わず思おもわず reflexively顔をあとへ引いたあとへ引ひいた pulled away。ヘリオトロープの罎罎びん bottle。四丁目四丁目よんちょうめ Yonchōme (fourth sub-district)の夕暮夕暮ゆうぐれ evening。迷羊迷羊ストレイ・シープ stray sheep。迷羊。空空そら skyには高い高たかい high日日ひ sunが明らかにかかる明あきらかにかかる shine clearly; shine brightly。

「結婚なさる結婚けっこんなさる marry; wedそうですね」

美禰子美禰子みねこ Mineko (name)は白いハンケチを袂袂たもと sleeve pocketへ落とした落おとした dropped (into)。

「御存じなの御存ごぞんじなの you've heard」と言いながら、二重瞼二重瞼ふたえまぶた contoured eyelidsを細目にして細目ほそめにして narrow (one's eyes)、男男おとこ man; fellowの顔を見た。三四郎を遠くに遠とおくに at a distance置いて置おいて place; set、かえって遠くにいるのを気づかいすぎた気きづかいすぎた overly concerned (about)目つき目めつき look; expression (of the eyes)である。そのくせ眉眉まゆ eyebrowsだけははっきりおちついている。三四郎の舌舌した tongueが上顎上顎うわあご palate; roof of the mouthへひっついてしまった。

女はややしばらく三四郎をながめたのち、聞きかねる聞ききかねる hard to hear; inaudibleほどのため息ため息いき sighをかすかにもらした。やがて細い細ほそい slender; delicate手を濃い濃こい thick眉の上上うえ aboveに加えて加くわえて bring to; join with言った。

「我我われ I; me (note: this passage quotes Psalm 51:3)はわがわが my; one's own愆愆とが offense; transgressionを知る知しる know; recognize; acknowledge。わが罪罪つみ sinは常に常つねに always; everわが前前まえ before; in front (of)にあり」

聞き取れない聞きき取とれない indiscernibleくらいな声声こえ voiceであった。それを三四郎は明らかに聞き取った。三四郎と美禰子はかようにして別れた別わかれた parted。下宿下宿げしゅく lodgingsへ帰ったら帰かえったら returned (to)母母はは motherからの電報電報でんぽう telegramが来ていた。あけて見ると、いつ立つ立たつ leave; departとある。