Sanshirō - Chapter 8

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三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)が与次郎与次郎よじろう Yojirō (name)に金金かね moneyを貸した貸かした loanedてんまつてんまつ circumstances; particularsは、こうである。

このあいだの晩晩ばん evening九時ごろ九時くじごろ around nine (o'clock)になって、与次郎が雨雨あめ rainのなかを突然突然とつぜん suddenly; unexpectedlyやって来てやって来きて came by、あたまからあたまから right off; without preliminaries大いに大おおいに very much; greatly弱った弱よわった be in a bad wayと言う言いう said; stated。見る見みる look (at)と、いつになくいつになく unusually顔顔かお faceの色色いろ colorが悪い悪わるい pale (complexion)。はじめは秋雨秋雨あきさめ cold autumn rainにぬれた冷たい冷つめたい cold空気空気くうき airに吹かれすぎた吹ふかれすぎた be overexposed to (the elements)からのことと思って思おもって thought; assumedいたが、座について座ざについて take a seat見ると、悪いのは顔色ばかりではない。珍しく珍めずらしく uncharacteristically消沈して消沈しょうちんして be lethargic; seem dejectedいる。三四郎が「ぐあいでもよくないのか」と尋ねる尋たずねる ask; inquireと、与次郎は鹿鹿しか deerのような目目め eyesを二度二度にど two times; twiceほどぱちつかせてぱちつかせて blink (several times in succession); flutter one's eyelids、こう答えた答こたえた answered。

「じつは金をなくしてね。困っちまった困こまっちまった be troubled; be in a bind」

そこで、ちょっと心配そうな心配しんぱいそうな worried-looking; anxious顔をして、煙草煙草タバコ tobacco; cigaretteの煙煙けむり smokeを二、三本二に、三本さんぼん several columns鼻鼻はな nose; nostrilsから吐いた吐はいた breathed out; expelled (smoke)。三四郎は黙って黙だまって in silence待って待まって wait; stand byいるわけにもゆかない。どういう種類種類しゅるい type; kindの金を、どこでなくなしたなくなした lost (= なくした)のかとだんだん聞いて聞きいて askみると、すぐわかった。与次郎は煙草の煙の、二、三本鼻から出切る出切できる dispense with; be rid ofあいだだけ控えて控ひかえて refrain; hold backいたばかりで、そのあとは、一部始終一部いちぶ始終しじゅう the whole story; all the details from beginning to endをわけもなくわけもなく easily; in no timeすらすらとすらすらと smoothly; fluently話して話はなして tell; relateしまった。

与次郎のなくした金は、額額たか amount; sum (of money)で二十円二十にじゅう円えん twenty yen、ただし人人ひと (other) personのものである。去年去年きょねん the prior year広田先生広田ひろた先生せんせい Professor Hirotaがこのまえの家家いえ houseを借りる借かりる rent時分時分じぶん timeに、三か月三さんか月げつ three monthsの敷金敷金しききん security depositに窮して窮きゅうして be hard pressed (for)、足りない足たりない lacking; insufficientところを一時一時いちじ temporarily野々宮野々宮ののみや Nonomiya (name)さんから用達って用達ようだって lend; advance (money)もらったことがある。しかるにしかるに howeverその金は野々宮さんが、妹妹いもと younger sister (usually 妹いもうと)にバイオリンバイオリン violinを買って買かって buyやらなくてはならないとかで、わざわざ国元国元くにもと hometown; native placeの親父さん親父おやじさん fatherから送らせた送おくらせた had (someone) sendものだそうだ。それだからきょうがきょう必要必要ひつよう needed; requiredというほどでない代りに代かわりに while ...、延びれば延びるほど延のびれば延のびるほど the longer it takes; as the time grows longerよし子よし子こ Yoshiko (Nonomiya's younger sister)が困る。よし子は現に現げんに in fact今今いま now; the presentでもバイオリンを買わずに済まして済すまして manage; make doいる。広田先生が返さない返かえさない not return; not repayからである。先生だって返せればとうに返すんだろうが、月々月々つきづき month by month余裕余裕よゆう surplus; reserveが一文一文いちもん one mon (1/1000 yen)も出ない出でない not be forthcomingうえに、月給月給げっきゅう (monthly) salary以外に以外いがいに outside of; in addition toけっしてかせがない男男おとこ manだから、ついそれなりにしてあった。ところがこの夏夏なつ summer高等学校高等学校こうとうがっこう high school (equivalent to modern-day college)の受験生受験生じゅけんせい test taker (entrance exams)の答案答案とうあん examination paper調べ調しらべ assessment; gradingを引き受けた引ひき受うけた accepted; took on (a task)時時とき time; occasionの手当手当てあて pay; compensationが六十円六十円ろくじゅうえん sixty yenこのごろになってようやく受け取れた受うけ取とれた received; took possession of。それでようやく義理義理ぎり obligationを済ますことになって、与次郎がその使い使つかい errandを言いつかった言いいつかった was ordered (to do something)。

「その金金かね moneyをなくなしたんだからすまない」と与次郎与次郎よじろう Yojirō (name)が言って言いって relate; explainいる。じっさいすまないような顔つき顔かおつき (facial) expressionでもある。どこへ落とした落おとした droppedんだと聞く聞きく askと、なに落としたんじゃない。馬券馬券ばけん horse (wagering) ticketを何枚何枚なんまい a number of (flat objects)とか買って買かって buy; purchase、みんななくなしてしまったのだと言う。三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)もこれにはあきれ返ったあきれ返かえった was in disbelief; was flabbergasted。あまり無分別無分別むふんべつ foolishness; follyの度度ど degree; extentを通り越して通とおり越こして go beyondいるので意見をする意見いけんをする state one's opinion; give comment気気き inclinationにもならない。そのうえ本人本人ほんにん the person in questionが悄然として悄然しょうぜんとして be dejected; be crestfallenいる。これをいつもの活発溌地活発かっぱつ溌地はっち vigorous and in high spiritsと比べる比くらべる compare (to)と与次郎なるものが二人二人ふたり two peopleいるとしか思われないとしか思おもわれない one could only conclude that ...。その対照対照たいしょう contrastが激しすぎる激はげしすぎる too extreme。だからおかしいのと気の毒気きの毒どく pitiableなのとがいっしょになって三四郎を襲って襲おそって attack; assailきた。三四郎は笑いだした笑わらいだした laughed。すると与次郎も笑いだした。

「まあいいや、どうかなるだろう」と言う。

「先生先生せんせい the professorはまだ知らない知しらない not know; be unawareのか」と聞くと、

「まだ知らない」

「野々宮野々宮ののみや Nonomiya (name)さんは」

「むろん、まだ知らない」

「金はいつ受け取った受うけ取とった received; took charge ofのか」

「金はこの月始まり月始つきはじまり beginning of the monthだから、きょうでちょうど二週間二週間にしゅうかん two weeksほどになる」

「馬券を買ったのは」

「受け取ったあくる日あくる日ひ next dayだ」

「それからきょうまでそのままにしておいたのか」

「いろいろ奔走した奔走ほんそうした ran about; made various effortsができないんだからしかたがない。やむをえなければ今月今月こんげつ this month末末すえ end ofまでこのままにしておこう」

「今月末になればできる見込み見込みこみ outlook; expectationでもあるのか」

「文芸時評文芸時評ぶんげいじひょう Literary Review (magazine)社社しゃ companyから、どうかなるだろう」

三四郎は立って立たって get up; stand up、机机つくえ deskの引出し引出ひきだし drawerをあけた。きのう母母はは motherから来た来きた came; arrivedばかりの手紙手紙てがみ letterの中中なか insideをのぞいて、

「金はここにある。今月は国国くに country; one's native regionから早く早はやく early送ってきた送おくってきた was sent」と言った。与次郎は、

「ありがたい。親愛なる親愛しんあいなる deeply cherished; beloved小川小川おがわ Ogawa (Sanshirō's family name)君君くん (suffix of familiarity for males)」と急に急きゅうに suddenly元気のいい元気げんきのいい vigorous; energized声声こえ voiceで落語家落語家らくごや professional storytellerのようなことを言った。

二人は十時十時じゅうじ ten (o'clock)すぎ雨雨あめ rainを冒して冒おかして brave; take on、追分追分おいわけ Oiwake (place name)の通り通とおり avenue; broad streetへ出て出でて go out (to)、角角かど cornerの蕎麦屋蕎麦屋そばや soba shopへはいった。三四郎が蕎麦屋で酒酒さけ sakéを飲む飲のむ drinkことを覚えた覚おぼえた learned; picked up (a habit)のはこの時時とき time; occasionである。その晩は二人とも愉快に愉快ゆかいに enjoyably; in good spirit飲んだ。勘定勘定かんじょう bill; checkは与次郎が払った払はらった paid。与次郎はなかなか人人ひと (other) peopleに払わせない払はらわせない not let pay; not allow to treat男男おとこ fellowである。

それからきょうにいたるまで与次郎与次郎よじろう Yojirō (name)は金金かね moneyを返さない返かえさない didn't return; didn't give back。三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)は正直正直しょうじき honestだから下宿屋下宿屋げしゅくや lodging houseの払い払はらい paymentを気にして気きにして worry overいる。催促催促さいそく pressing; urgingはしないけれども、どうかしてくれればいいがと思って思おもって think、日日ひ daysを過ごす過すごす pass (time)うちに晦日晦日みそか last day of the month近くなった近ちかくなった drew near; approached。もう一日一日いちにち one day二日二日ふつか two daysしか余っていないしか余あまっていない only ... were left。間違ったら間違まちがったら go wrong; take a bad turn下宿下宿げしゅく lodgingsの勘定勘定かんじょう bill; accountを延ばして延のばして delay; put offおこうなどという考え考かんがえ idea; thoughtはまだ三四郎の頭頭あたま head; mindにのぼらない。必ず必かならず without fail与次郎が持って来て持もって来きて bring byくれる――とまではむろん彼彼かれ he; himを信用して信用しんようして trustいないのだが、まあどうかくめんしてくめんして raise; come up with (money)みようくらいの親切気親切気しんせつぎ thoughtfulness; considerationはあるだろうと考えて考かんがえて considerいる。広田先生広田ひろた先生せんせい Professor Hirotaの評評ひょう comment; opinionによると与次郎の頭は浅瀬浅瀬あさせ shoal; shallowsの水水みず waterのようにしじゅう移っている移うつっている be in transition; shiftのだそうだが、むやみに移るばかりで責任責任せきにん responsibilityを忘れる忘わすれる forgetようでは困る困こまる be unacceptable。まさかそれほどの事それほどの事こと such a situationもあるまい。

三四郎は二階二階にかい second floorの窓窓まど windowから往来往来おうらい road; streetをながめていた。すると向こう向むこう beyond; in the distanceから与次郎が足早に足早あしばやに at a brisk paceやって来たやって来きた approached。窓の下下した below; beneathまで来てあおむいて、三四郎の顔顔かお faceを見上げて見上みあげて look up (at)、「おい、おるか」と言う言いう called。三四郎は上上うえ aboveから、与次郎を見下して見下みおろして look down (at)、「うん、おる」と言う。このばかみたような挨拶挨拶あいさつ greetingが上下上下じょうげ above and belowで一句一句いっく single phrase交換交換こうかん exchangeされると、三四郎は部屋部屋へや roomの中中なか insideへ首首くび head (lit: neck)を引っ込める引ひっ込こめる draw in。与次郎は梯子段梯子段はしごだん staircaseをとんとん上がってきた上あがってきた ascended; climbed。

「待って待まって waitいやしないか。君君きみ youのことだから下宿の勘定を心配して心配しんぱいして worry aboutいるだろうと思って、だいぶ奔走した奔走ほんそうした ran about; made various efforts。ばかげてばかげて be absurd; be idioticいる」

「文芸時評文芸時評ぶんげいじひょう Literary Review (magazine)から原稿料原稿料げんこうりょう payment for a manuscriptをくれたか」

「原稿料って、原稿料はみんな取って取とって took; receivedしまった」

「だってこのあいだは月末月末げつまつ end of the monthに取るように言っていたじゃないか」

「そうかな、それは間違いだろう。もう一文一文いちもん one mon (1/1000 yen)も取るのはない」

「おかしいな。だって君はたしかにそう言ったぜ」

「なに、前借り前借まえがり advance (in pay); loanをしようと言ったのだ。ところがなかなか貸さない貸かさない won't lend。ぼくに貸すと返さないと思っている。けしからん。わずか二十円二十円にじゅうえん twenty yenばかりの金だのに。いくら偉大なる偉大いだいなる great; mighty暗闇暗闇くらやみ darkness; voidを書いて書かいて write; composeやっても信用しない。つまらない。いやになっちまった」

「じゃ金金かね moneyはできないのか」

「いやほかでこしらえたよ。君君きみ youが困る困こまる be in a bindだろうと思って思おもって think; consider」

「そうか。それは気の毒だそれは気きの毒どくだ you needn't have put yourself out (on my account)」

「ところが困った事事こと happeningができた。金はここにはない。君が取りにいかなくっちゃ取とりにいかなくっちゃ have to go get」

「どこへ」

「じつは文芸時評文芸時評ぶんんげいじひょう Literary Review (magazine)がいけないから、原口原口はらぐち Haraguchi (name)だのなんだの二、三軒二に、三軒さんけん several places歩いた歩あるいた walked; made the rounds (to)が、どこも月末月末げつまつ end of the monthでつごうがつかない。それから最後に最後さいごに finally; in the end里見里見さとみ Satomi (Mineko's family name)の所所ところ placeへ行って行いって go (to); call (at)――里見というのは知らない知しらない don't know; not be familiar withかね。里見恭助恭助きょうすけ Kyōsuke (Mineko's older brother)。法学士法学士ほうがくし doctor of lawだ。美禰子美禰子みねこ Mineko (name)さんのにいさんだ。あすこへ行ったところが、今度今度こんど this timeは留守留守るす away; not at homeでやっぱり要領を得ない要領ようりょうを得えない accomplish nothing; be to no avail。そのうち腹が減って腹はらが減へって felt hungry歩くのがめんどうになったから、とうとう美禰子さんに会って会あって met; saw (a person)話話はなし talk; discussionをした」

「野々宮野々宮ののみや Nonomiya (name)さんの妹妹いもうと younger sisterがいやしないか」

「なに昼昼ひる noon少し少すこし a little; a bit過ぎ過すぎ after; pastだから学校学校がっこう schoolに行ってる時分時分じぶん time (of day)だ。それに応接間応接間おうせつま reception room; parlorだからいたってかまやしない」

「そうか」

「それで美禰子さんが、引き受けて引ひき受うけて agree to take care ofくれて、御用立て申します御用立ごようだて申もうします make a loanと言う言いう saidんだがね」

「あの女女おんな woman; young ladyは自分の自分じぶんの one's own金があるのかい」

「そりゃ、どうだか知らない。しかしとにかく大丈夫大丈夫だいじょうぶ okay; alrightだよ。引き受けたんだから。ありゃ妙な妙みょうな odd; curious女で、年のいかない年としのいかない not along in yearsくせにねえさんじみた事をするのが好き好すき enjoyable; agreeableな性質性質たち nature; dispositionなんだから、引き受けさえすれば、安心安心あんしん relief; peace of mindだ。心配しないでもいい心配しんぱいしないでもいい (there's) no need to worry。よろしく願って願ねがって request; appeal (for)おけばかまわないかまわない (it's) no problem。ところがいちばんしまいになって、お金はここにありますが、あなたには渡せません渡わたせません won't give toと言うんだから、驚いた驚おどろいた was surprised; was taken abackね。ぼくはそんなに不信用不信用ふしんよう untrustworthyなんですかと聞く聞きく askと、ええと言って笑って笑わらって smile; grinいる。いやになっちまった。じゃ小川小川おがわ Ogawa (Sanshirō's family name)をよこしますかなとまた聞いたら、え、小川さんにお手渡しいたしましょうお手渡てわたしいたしましょう hand toと言われた。どうでもかってにするがいい。君取りにいけるかい」

「取りにいかなければ、国国くに the country; one's native placeへ電報電報でんぽう telegramでもかけるんだな」

「電報はよそう。ばかげている。いくら君だって借りにいける借かりにいける go and borrowだろう」

「いける」

これでようやく二十円二十円にじゅうえん twenty yenのらちがあいたらちがあいた was resolved; was settled。それが済む済すむ finish; be concludedと、与次郎与次郎よじろう Yojirō (name)はすぐ広田先生広田ひろた先生せんせい Professor Hirotaに関するに関かんする in connection to; concerning事件事件じけん affairs; happeningsの報告報告ほうこく report; updateを始めた始はじめた began; started on。

運動運動うんどう movement; initiativeは着々着々ちゃくちゃく steadily歩を進めつつある歩ほを進すすめつつある was advancing; was moving forward。暇暇ひま (spare) timeさえあれば下宿下宿げしゅく lodgingsへ出かけて出でかけて set out forいって、一人一人一人一人ひとりひとり one (person) by oneに相談する相談そうだんする consult; confer (with)。相談は一人一人にかぎる。おおぜい寄る寄よる gather togetherと、めいめいが自分の自分じぶんの one's own存在存在そんざい presence; beingを主張しよう主張しゅちょうしよう assert; emphasizeとして、ややともすれば異をたてる異いをたてる sow discord; generate strife。それでなければ、自分の存在を閑却された閑却かんきゃくされた be disregarded心持ち心持こころもち feeling; sentimentになって、初手初手しょて beginning; startから冷淡に冷淡れいたんに in a lukewarm manner; halfheartedlyかまえる。相談はどうしても一人一人にかぎる。その代りその代かわり in return暇はいる。金金かね moneyもいる。それを苦にして苦くにして worry aboutいては運動はできない。それから相談中相談中そうだんちゅう during consultation; during discussionには広田先生の名前名前なまえ nameをあまり出さない出ださない not put forward; not mentionことにする。我々我々われわれ we; usのための相談でなくって、広田先生のための相談だと思われる思おもわれる be thought of (as); seem to beと、事事こと mattersがまとまらなくなる。

与次郎はこの方法方法ほうほう method; approachで運動の歩を進めているのだそうだ。それできょうまでのところはうまくいった。西洋人西洋人せいようじん Westernerばかりではいけないから、ぜひとも日本人日本人にほんじん Japanese nationalを入れて入いれて bring inもらおうというところまで話話はなし talk; discussionはきた。これから先先さき ahead; in the futureはもう一ぺんもう一いっぺん one more time寄って、委員委員いいん committee membersを選んで選えらんで select; choose、学長学長がくちょう deanなり、総長総長そうちょう president of a universityなりに、我々の希望希望きぼう wish; desireを述べ述のべ relate; expressにやるばかりである。もっとも会合会合かいごう meeting; assemblyだけはほんの形式形式けいしき formalityだから略して略りゃくして omit; dispense withもいい。委員になるべき学生学生がくせい studentsもだいたいは知れている知しれている be known。みんな広田先生に同情同情どうじょう sympathy (toward); consideration (of)を持って持もって hold; harborいる連中連中れんちゅう group; companyだから、談判談判だんぱん negotiationの模様模様もよう state; conditionによっては、こっちから先生先生せんせい the professorの名名な nameを当局者当局者とうきょくしゃ men of authority; powers that beへ持ち出す持もち出だす mention; bring upかもしれない。……

聞いて聞きいて listenいると、与次郎一人で天下天下てんか the whole worldが自由になる自由じゆうになる be at one's disposal; be under one's controlように思われる。三四郎は少なからず少すくなからず more than a little; considerably与次郎の手腕手腕しゅわん capabilityに感服した感服かんぷくした was impressed (by)。与次郎はまたこのあいだの晩晩ばん evening、原口原口はらぐち Haraguchiさんを先生の所所ところ placeへ連れてきた連つれてきた brought; led (to)事について、弁じだした弁べんじだした began to talk (of)。

「あの晩、原口さんが、先生に文芸家文芸家ぶんげいか writers and artistsの会会かい gathering; partyをやるから出ろと、勧めて勧すすめて suggest; encourageいたろう」と言う言いう said; explained。三四郎はむろん覚えて覚おぼえて remember; recallいる。与次郎の話によると、じつはあれも自身自身じしん oneselfの発起発起ほっき proposalにかかるものだそうだ。その理由理由りゆう reason; motiveはいろいろあるが、まず第一にまず第一だいいちに first of all手近な手近てぢかな near at hand; immediateところを言えば、あの会員会員かいいん party members; participantsのうちには、大学大学だいがく universityの文科文科ぶんか department of literatureで有力な有力ゆうりょくな prominent; influential教授教授きょうじゅ professorsがいる。その男男おとこ manと広田先生を接触させる接触せっしょくさせる bring into contact; introduceのは、このさい先生にとって、たいへんな便利便利べんり advantageである。先生は変人変人へんじん eccentric (person)だから、求めて求もとめて of one's own volitionだれとも交際しない交際こうさいしない not socialize; not interact (with)。しかしこっちで相当の相当そうとうの appropriate; suitable機会機会きかい opportunityを作って作つくって create、接触させれば、変人なりに付合って付合つきあって get along; keep company (with)ゆく。……

「そういう意味意味いみ meaning; significanceがあるのか、ちっとも知らなかった知しらなかった didn't know; wasn't aware。それで君君きみ youが発起人発起人ほっきにん orchestratorだというんだが、会会かい gathering; partyをやる時時とき time; occasion、君の名前名前なまえ nameで通知通知つうち notice; inviteを出して出だして send out、そういう偉い偉えらい distinguished; remarkable人たち人ひとたち people; personagesがみんな寄って来る寄よって来くる gather; come togetherのかな」

与次郎与次郎よじろう Yojirō (name)は、しばらくまじめに、三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)を見て見みて look atいたが、やがて苦笑い苦笑にがわらい wry smileをしてわきを向いたわきを向むいた turned aside。

「ばかいっちゃいけない。発起人って、おもてむきの発起人じゃない。ただぼくがそういう会を企てた企くわだてた plannedのだ。つまりぼくが原口原口はらぐち Haraguchi (name)さんを勧めて勧すすめて advise; encourage、万事万事ばんじ all things; everything原口さんが周旋する周旋しゅうせんする handle; arrangeようにこしらえたのだ」

「そうか」

「そうかは田臭田臭でんしゅう reek of the country (i.e. provincialism)だね。時に時ときに by the way; incidentally君もあの会へ出る出でる attend; take partがいい。もう近いうち近ちかいうち soon; any dayにあるはずだから」

「そんな偉い人ばかり出る所所ところ placeへ行った行いった go (to)ってしかたがない。ぼくはよそう」

「また田臭を放った放はなった let loose; gave off。偉い人も偉くない人も社会社会しゃかい society; the worldへ頭を出した頭あたまを出だした appeared; emerged (into)順序順序じゅんじょ order; sequenceが違う違ちがう be differentだけだ。なにあんな連中連中れんぢゅう group; company、博士博士はかせ doctor; PhDとか学士学士がくし university graduateとかいったって、会って会あって meet話して話はなして talk withみるとなんでもないものだよ。第一第一だいいち first of all; to begin with向こうがそう偉いともなんとも思って思おもって regard; consider (as)やしない。ぜひ出ておくがいい。君の将来将来しょうらい futureのためだから」

「どこであるのか」

「たぶん上野上野うえの Ueno (place name)の精養軒精養軒せいようけん Seiyōken (name of high-end Western-style restaurant)になるだろう」

「ぼくはあんな所へ、はいったことがない。高い高たかい high (priced)会費会費かいひ participants' feeを取る取とる take; collectんだろう」

「まあ二円二円にえん two yenぐらいだろう。なに会費なんか、心配心配しんぱい worry; concernしなくってもいい。なければぼくがだしておくから」

三四郎はたちまち、さきの二十円二十円にじゅうえん twenty yenの件件けん affair; matterを思い出した思おもい出だした recalled。けれども不思議に不思議ふしぎに strangely; oddlyおかしくならなかった。与次郎はそのうち銀座銀座ぎんざ Ginza (place name)のどことかへ天麩羅天麩羅てんぷら tempuraを食いに行こう食くいに行いこう go and eatと言いだした言いいだした proposed; suggested。金はあると言う。不思議な男男おとこ fellowである。言いなり次第になる言いいなり次第しだいになる go along with anything; follow the lead of others三四郎もこれは断った断ことわった declined。その代りその代かわり insteadいっしょに散歩散歩さんぽ walk; strollに出た。帰り帰かえり return; way backに岡野岡野おかの Okano Eisen (Japanese confectionery)へ寄って寄よって stop by、与次郎は栗饅頭栗饅頭くりまんじゅう chestnut manjū (steamed bun with filling)をたくさん買った買かった bought; purchased。これを先生先生せんせい professorにみやげに持ってゆく持もってゆく take withんだと言って、袋袋ふくろ bagをかかえて帰っていった。

三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)はその晩晩ばん night与次郎与次郎よじろう Yojirō (name)の性格性格せいかく character; natureを考えた考かんがえた considered。長く長ながく for a long time東京東京とうきょう Tōkyōにいるとあんなになるものかと思った思おもった thought; wondered。それから里見里見さとみ Satomi (Mineko's family name)へ金金かね moneyを借りに行く借かりに行いく go and borrowことを考えた。美禰子美禰子みねこ Mineko (name)の所所ところ place; homeへ行く用事用事ようじ business; errandができたのはうれしいような気気き feelingがする。しかし頭を下げて頭あたまを下さげて lower one's head; humble oneself金を借りるのはありがたくない。三四郎は生まれてから生うまれてから since one was born; in one's life今日今日こんにち today; the presentにいたるまで、人人ひと (another) personに金を借りた経験経験けいけん experienceのない男男おとこ fellowである。その上その上うえ on top of that; furthermore貸す貸かす lendという当人当人とうにん the person in questionが娘娘むすめ young ladyである。独立した独立どくりつした independent人間人間にんげん personではない。たとい金が自由になる自由じゆうになる have at one's disposalとしても、兄兄あに older brotherの許諾許諾きょだく consentを得ない得えない not receive; not get内証内証ないしょう private; confidentialの金を借りたとなると、借りる自分自分じぶん oneselfはとにかく、あとで、貸した人の迷惑迷惑めいわく troubleになるかもしれない。あるいはあの女女おんな woman; young ladyのことだから、迷惑にならないようにはじめからできているかとも思える。なにしろ会って会あって meetみよう。会ったうえで、借りるのがおもしろくない様子様子ようす situationだったら、断わって断ことわって decline; turn down、しばらく下宿下宿げしゅく lodgingsの払い払はらい paymentを延ばして延のばして extend; delay; deferおいて、国国くに country; one's native regionから取り寄せれば取とり寄よせれば call up; have send事事こと matter; affairは済む済すむ be concluded。――当用当用とうよう business at handはここまで考えて句切りをつけた句切くぎりをつけた left off; gave it a rest。あとは散漫に散漫さんまんに vaguely; loosely美禰子の事が頭頭あたま head; mindに浮かんで来る浮うかんで来くる float up; surface。美禰子の顔顔かお faceや手手て handsや、襟襟えり neckや、帯帯おび sashや、着物着物きもの kimono; dressやらを、想像にまかせて想像そうぞうにまかせて let one's imagination run、乗けたり除ったりして乗かけたり除わったりして manipulate; create and discard (lit: multiply and divide)いた。ことにあした会う時時とき time; occasionに、どんな態度態度たいど manner; behaviorで、どんな事を言う言いう sayだろうとその光景光景こうけい sceneが十通り十通ととおり ten versionsにも二十通り二十通にじっとおり twenty versionsにもなって、いろいろに出て来る出でて来くる appear。三四郎は本来から本来ほんらいから by natureこんな男である。用談用談ようだん business matterがあって人と会見会見かいけん interview; audienceの約束約束やくそく appointmentなどをする時には、先方先方せんぽう the other partyがどう出るだろうということばかり想像する。自分が、こんな顔をして、こんな事を、こんな声声こえ voiceで言ってやろうなどとはけっして考えない。しかも会見が済むと後後あと laterからきっとそのほうを考える。そうして後悔する後悔こうかいする have regrets。

ことに今夜今夜こんや this eveningは自分自分じぶん oneselfのほうを想像する想像そうぞうする imagine; consider余地余地よち capacity; leewayがない。三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)はこのあいだから美禰子美禰子みねこ Mineko (name)を疑って疑うたがって doubt; distrustいる。しかし疑うばかりでいっこうらちがあかない。そうかといって面と向かって面めんと向むかって face to face、聞きただす聞ききただす clarify; confirmべき事件事件じけん incident; affairは一つ一ひとつ one (thing)もないのだから、一刀両断一刀いっとう両断りょうだん decisive action; kill or cure (lit: cut in two with a single stroke of the sword)の解決解決かいけつ solution; resolutionなどは思いもよらぬ思おもいもよらぬ cannot conceive ofことである。もし三四郎の安心安心あんしん peace of mindのために解決が必要必要ひつよう necessary; neededなら、それはただ美禰子に接触する接触せっしょくする contact; interact with機会機会きかい occasion; opportunityを利用して利用りようして use; take advantage of、先方先方せんぽう the other partyの様子様子ようす appearance; indicationsから、いいかげんに最後の最後さいごの final; definitive判決判決はんけつ judgmentを自分に与えて与あたえて grant; allowしまうだけである。あしたの会見会見かいけん interview; audienceはこの判決に欠くべからざる欠かくべからざる indispensable; essential材料材料そざい material; inputである。だから、いろいろに向こう向むこう the other partyを想像してみる。しかし、どう想像しても、自分につごうのいい光景光景こうけい scene; scenarioばかり出てくる出でてくる emerge; appear。それでいて、実際は実際じっさいは in reality; in factはなはだ疑わしい。ちょうどきたない所所ところ placeをきれいな写真写真しゃしん photographにとってながめているような気気き feeling; impressionがする。写真は写真としてどこまでも本当本当ほんとう real; authenticに違いないに違ちがいない without doubtが、実物実物じつぶつ the real thingのきたないことも争われない争あらそわれない indisputable; undeniableと一般でと一般いっぱんで in the same way; in the same general manner、同じ同おなじ the sameでなければならぬはずの二つ二ふたつ two (things)がけっして一致しない一致いっちしない do not match; are not in agreement。

最後にうれしいことを思いついた。美禰子は与次郎与次郎よじろう Yojirō (name)に金金かね moneyを貸す貸かす lendと言った言いった said; agreed。けれども与次郎には渡さない渡わたさない hand over (to)と言った。じっさい与次郎は金銭金銭きんせん moneyのうえにおいては、信用しにくい信用しんようしにくい untrustworthy; undependable男男おとこ man; fellowかもしれない。しかしその意味意味いみ meaning; reasonで美禰子が渡さないのか、どうだか疑わしい。もしその意味でないとすると、自分にははなはだたのもしいたのもしい hopeful; promisingことになる。ただ金を貸してくれるだけでも十分の十分じゅうぶんの satisfactory; adequate好意好意こうい good will; favorである。自分に会って会あって see; meet手渡しにしたい手渡てわたしにしたい hand over in personというのは――三四郎はここまで己惚れて己惚おのぼれて be vain; indulge oneselfみたが、たちまち、

「やっぱり愚弄愚弄ぐろう mockery; ridiculeじゃないか」と考えだして考かんがえだして began to think、急に急きゅうに suddenly赤くなった赤あかくなった turned red; became flushed。もし、ある人人ひと personがあって、その女女おんな woman; young ladyはなんのために君君きみ youを愚弄するのかと聞いたら聞きいたら asked; inquired、三四郎はおそらく答ええなかったろう答こたええなかったろう likely couldn't have answered。しいて考えてみろと言われたら、三四郎は愚弄そのものに興味興味きょうみ interest; fascinationをもっている女だからとまでは答えたかもしれない。自分の己惚れを罰する罰ばっする punishためとはまったく考ええなかったに違いない。――三四郎は美禰子のために己惚れしめられたんだと信じて信しんじて believeいる。

翌日翌日よくじつ the next dayはさいわい教師教師きょうし instructorが二人二人ふたり two (people)欠席して欠席けっせきして be absent、昼昼ひる noonからの授業授業じゅぎょう classesが休みになった休やすみになった were canceled。下宿下宿げしゅく lodgingsへ帰る帰かえる returnのもめんどうだから、途中で途中とちゅうで on the way一品料理一品いっぴん料理りょうり a la carte itemsの腹をこしらえて腹はらをこしらえて have a meal、美禰子美禰子みねこ Mineko (name)の家家いえ houseへ行った行いった went (to)。前前まえ front ofを通った通とおった passed byことはなんべんでもある。けれどもはいるのははじめてである。瓦葺瓦葺かわらぶき tile roofingの門門もん entry gateの柱柱はしら post; pillarに里見里見さとみ Satomi (Mineko's family name)恭助恭助きょうすけ Kyōsuke (name of Mineko's older brother)という標札標札ひょうさつ nameplateが出ている出でている be set out; be displayed。三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)はここを通るたびに、里見恭助という人人ひと personはどんな男男おとこ manだろうと思う思おもう think about; wonder。まだ会った会あった meetことがない。門は締まって締しまって be closed; be fastenedいる。潜り潜くぐり side gateからはいると玄関玄関げんかん entry hallまでの距離距離きょり distanceは存外存外ぞんがい contrary to expectation短かい短みじかい short。長方形の長方形ちょうほうけいの rectangular御影石御影石みかげいし graniteが飛び飛びに飛とび飛とびに at intervals敷いて敷しいて set out; lay outある。玄関は細い細ほそい slender; narrowきれいな格子格子こうし latticeworkでたてきってたてきって closed tightlyある。ベルを押す押おす push; press。取次ぎ取次とりつぎ answering the door; receiving visitorsの下女下女げじょ maidservantに、「美禰子さんはお宅お宅たく at homeですか」と言った言いった asked時時とき time; moment、三四郎は自分ながら自分じぶんながら in spite of oneself気恥ずかしい気恥きはずかしい embarrassed; awkwardような妙な妙みょうな strange; curious心持ち心持こころもち feeling; sensationがした。ひとの玄関で、妙齢の女妙齢みょうれいの女おんな young ladyの在否在否ざいひ presenceを尋ねた尋たずねた inquire (about)ことはまだない。はなはだ尋ねにくい気気き feelingがする。下女のほうは案外案外あんがい unexpectedlyまじめである。しかもうやうやしい。いったん奥奥おく interiorへはいって、また出て来て出でて来きて come out; appear、丁寧に丁寧ていねいに politelyお辞儀お辞儀じぎ bowをして、どうぞと言うからついて上がる上あがる enter (up into)と応接間応接間おうせつま reception room; parlorへ通した通とおした led (to)。重い重おもい heavy窓掛け窓掛まどかけ curtainsの掛かって掛かかって be hungいる西洋室西洋室せいようしつ Western-style roomである。少し少すこし a little; a bit暗い暗くらい dark; dim。

下女はまた、「しばらく、どうか……」と挨拶して挨拶あいさつして make a salutation出て行った出でて行いった went out; exited。三四郎は静かな静しずかな quiet部屋部屋へや roomの中中なか middleに席を占めた席せきを占しめた took a seat。正面正面しょうめん directly aheadに壁壁かべ wallを切り抜いた切きり抜ぬいた be cut into小さい小ちいさい small暖炉暖炉だんろ fireplace; hearthがある。その上上うえ aboveが横横よこ sideways; horizontalに長い長ながい long鏡鏡かがみ mirrorになっていて前に蝋燭立蝋燭立ろうそくたて candle holderが二本二本にほん two (columns)ある。三四郎は左右左右さゆう left and rightの蝋燭立のまん中に自分の顔顔かお faceを写して見て写うつして見みて saw reflected; looked at in the mirror、またすわった。

すると奥奥おく interiorの方方ほう directionでバイオリンバイオリン violinの音音おと soundがした。それがどこからか、風風かぜ wind; breezeが持って来て持もって来きて carry in; bring捨てて行った捨すてて行いった took away; discardedように、すぐ消えて消きえて vanish; dissipateしまった。三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)は惜しい惜おしい regrettable; disappointing気気き feelingがする。厚く厚あつく thickly張った張はった upholstered椅子椅子いす chairの背背せ backによりかかって、もう少し少すこし a little; a bitやればいいがと思って思おもって think耳を澄まして耳みみを澄すまして listen carefully; strain one's earsいたが、音はそれぎりでやんだ。約約やく about; approximately一分一分いっぷん one minuteもたつうちに、三四郎はバイオリンの事の事こと concerning ...を忘れた忘わすれた forgot。向こう向むこう the other side; the opposite sideにある鏡鏡かがみ mirrorと蝋燭立蝋燭立ろうそくたて candle holdersをながめている。妙に妙みょうに strangely; curiously西洋の西洋せいようの Western; occidentalにおいがする。それからカソリックカソリック Catholicの連想連想れんそう association; suggestion; hint ofがある。なぜカソリックだか三四郎にもわからない。その時時とき time; momentバイオリンがまた鳴った鳴なった sounded; rang out。今度今度こんど this timeは高い高たかい high音音ね (musical) noteと低い低ひくい low音が二、三度二に、三度さんど several times急に急きゅうに rapidly続いて続つづいて in succession響いた響ひびいた reverberated。それでぱったりぱったり suddenly; abruptly消えてしまった。三四郎はまったく西洋の音楽音楽おんがく musicを知らない知しらない not know; not be familiar with。しかし今今いま (just) nowの音は、けっして、まとまったものの一部分一部分いちぶぶん one part ofをひいたとは受け取れない受うけ取とれない cannot take (as); cannot interpret (as)。ただ鳴らしただけである。その無作法に無作法ぶさほうに curtly; indecorouslyただ鳴らしたところが三四郎の情緒情緒じょうしょ mood; spiritによく合った合あった fit; agreed with。不意に不意ふいに unexpectedly; out of the blue天天てん the heavensから二、三粒二に、三粒さんつぶ several (spheres)落ちて来た落おちて来きた came falling down; dropped、でたらめのでたらめの random; haphazard雹雹ひょう hailのようである。

三四郎がなかば感覚感覚かんかく feeling; sensationを失った失うしなった lost目目め eyesを鏡の中中なか inside; withinに移す移うつす shift (toward)と、鏡の中に美禰子美禰子みねこ Mineko (name)がいつのまにか立って立たって standいる。下女下女げじょ maidservantがたてたたてた closedと思った戸戸と doorがあいている。戸のうしろにかけてある幕幕まく curtainを片手片手かたて one handで押し分けた押おし分わけた pushed apart; pushed aside美禰子の胸胸むね chestから上上うえ aboveが明らかに明あきらかに clearly写って写うつって be reflectedいる。美禰子は鏡の中で三四郎を見た見みた looked at。三四郎は鏡の中の美禰子を見た。美禰子はにこりと笑ったにこりと笑わらった smiled; grinned。

「いらっしゃい」

女女おんな woman; young ladyの声声こえ voiceはうしろで聞こえた聞きこえた sounded; was heard。三四郎は振り向かなければならなかった振ふり向むかなければならなかった had to turn around。女と男男おとこ man; fellowはじかにじかに directly顔を見合わせた顔かおを見合みあわせた looked at each other。その時女は廂廂ひさし eaves - hair style with curled front overhang (short for 廂髪ひさしがみ)の広い広ひろい wide; broad髪髪かみ (head of) hairをちょっと前前まえ forwardに動かして動うごかして move礼礼れい salutationをした。礼をするにはおよばないくらいに親しい親したしい familiar; intimate態度態度たいど manner; behaviorであった。男のほうはかえって椅子椅子いす chairから腰を浮かして腰こしを浮うごかして stand up頭を下げた頭あたまを下さげた bowed。女は知らぬふうをして、向こうへ回って回まわって circle round to、鏡を背に、三四郎の正面正面しょうめん directly in frontに腰をおろした。

「とうとういらしった」

同じ同おなじ sameような親しい親したしい familiar; intimate調子調子ちょうし tone (of voice)である。三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)にはこの一言一言いちげん brief statement; few wordsが非常に非常ひじょうに exceedinglyうれしく聞こえた聞きこえた sounded; resonated。女女おんな sheは光る光ひかる shine; be bright絹絹きぬ silkを着て着きて wearいる。さっきからだいぶ待たした待またした kept waitingところをもってみると、応接間応接間おうせつま reception room; parlorへ出る出でる go out (to); appear (in)ためにわざわざきれいなのに着換えた着換きがえた changed (clothes)のかもしれない。それで端然と端然たんぜんと primly; properlyすわっている。目目め eyesと口口くち mouthに笑笑えみ smile; grinを帯びて帯おびて show signs of; be tinged with無言のまま無言むごんのまま without words; in silence三四郎を見守った見守みまもった watch attentively; surveyed姿姿すがた form; postureに、男男おとこ heはむしろ甘い甘あまい sweet苦しみ苦くるしみ distress; discomfortを感じた感かんじた felt; experienced。じっとして見らるる見みらるる be watched; be looked atに堪えない堪たえない find unbearable心心こころ feelingの起こった起おこった occurred; came aboutのは、そのくせ女の腰をおろす腰こしをおろす sit downやいなやである。三四郎はすぐ口を開いた口くちを開ひらいた opened one's mouth (to speak)。ほとんど発作発作ほっさ fit; attackに近い近ちかい close (to); on the verge of。

「佐々木佐々木ささき Sasaki (Yojirō's family name)が」

「佐々木さんが、あなたの所所ところ place; residenceへいらしったでしょう」と言って言いって say; state例の例れいの the aforementioned白い白しろい white歯歯は teethを現わした現あらわした showed; displayed。女のうしろにはさきの蝋燭立蝋燭立ろうそくたて candle holderがマントルピースマントルピース mantelpieceの左右左右さゆう left and rightに並んで並ならんで be lined up; be arrangedいる。金金きん goldで細工をした細工さいくをした formed; worked; crafted妙な妙みょうな odd; curious形形かたち shape; styleの台台だい stand; holderである。これを蝋燭立と見たのは三四郎の臆断臆断おくだん conjecture; suppositionで、じつはなんだかわからない。この不可思議の不可思議ふかしぎの mysterious; enigmatic蝋燭立のうしろに明らかな明あきらかな clear; plain; evident鏡鏡かがみ mirrorがある。光線光線こうせん light (beams; raysは厚い厚あつい thick窓掛け窓掛まどかけ window treatments; curtainsにさえぎられて、十分に十分じゅうぶんに enough; sufficientlyはいらない。そのうえ天気天気てんき weatherは曇って曇くもって cloudy; overcastいる。三四郎はこのあいだに美禰子の白い歯を見た。

「佐々木が来ました来きました came; stopped by」

「なんと言っていらっしゃいました」

「ぼくにあなたの所へ行け行いけ go (to)と言って来ました」

「そうでしょう。――それでいらしったの」とわざわざ聞いた聞きいた asked。

「ええ」と言って少し少すこし a little; a bit躊躇した躊躇ちゅうちょした hesitated; vacillated。あとから「まあ、そうです」と答えた答こたえた answered; responded。女はまったく歯を隠した隠かくした concealed。静かに静しずかに quietly席を立って席せきを立たって rise from one's seat、窓窓まど windowの所へ行って、外面外面そと outsideをながめだした。

「曇りました曇くもりました clouded up; became overcastね。寒い寒さむい coldでしょう、戸外戸外そと outsideは」

「いいえ、存外存外ぞんがい surprisingly; unexpectedly暖かい暖あたたかい warm。風風かぜ windはまるでありません」

「そう」と言いながら言いいながら say; reply席席せき seatへ帰って来た帰かえって来きた came back (to)。

「じつは佐々木佐々木ささき Sasaki (Yojirō's family name)が金金かね moneyを……」と三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)から言いだした。

「わかってるの」と中途で中途ちゅうとで in the middle; part wayとめた。三四郎も黙った黙だまった fell silent。すると

「どうしておなくしになったの」と聞いた聞きいた asked。

「馬券馬券ばけん horse (wagering) ticketを買った買かった bought; purchasedのです」

女女おんな sheは「まあ」と言った。まあと言ったわりに顔顔かお faceは驚いていない驚おどろいていない not showing surprise。かえって笑って笑わらって smile; grinいる。すこしたって、「悪い悪わるい bad; no goodかたね」とつけ加えたつけ加くわえた added。三四郎は答えずにいた。

「馬券であてるのは、人人ひと a personの心心こころ heart; soul; feelingsをあてるよりむずかしいじゃありませんか。あなたは索引のついている索引さくいんのついている be indexed; be parsed人の心さえあててみようとなさらないのん気なのん気きな carefree; happy-go-luckyかただのに」

「ぼくが馬券を買ったんじゃありません」

「あら。だれが買ったの」

「佐々木が買ったのです」

女は急に急きゅうに suddenly笑いだした笑わらいだした laughed。三四郎もおかしくなった。

「じゃ、あなたがお金がお入用お入用いりよう necessary; neededじゃなかったのね。ばかばかしいばかばかしい silly; nonsensical」

「いることはぼくがいるのです」

「ほんとうに?」

「ほんとうに」

「だってそれじゃおかしいわね」

「だから借りなくってもいい借かりなくってもいい don't have to borrowんです」

「なぜ。おいやなの?」

「いやじゃないが、お兄いさんお兄あにいさん older brotherに黙ってに黙だまって without telling、あなたから借りちゃ借かりちゃ borrow、好くない好よくない not good; ill advisedからです」

「どういうわけで? でも兄兄あに older brotherは承知している承知しょうちしている is aware; is in agreementんですもの」

「そうですか。じゃ借りてもいい。――しかし借りないでもいい。家家うち homeへそう言って言いって ask; requestやりさえすれば、一週間一週間いっしゅうかん one weekぐらいすると来ます来きます come; arriveから」

「御迷惑御迷惑ごめいわく trouble; botherなら、しいて……」

美禰子美禰子みねこ Mineko (name)は急に急きゅうに suddenly冷淡冷淡れいたん cool; detachedになった。今今いま now; the presentまでそばにいたものが一町一町いっちょう 1 chō (about 110 meters; about 120 yards)ばかり遠のいた遠とおのいた became distant; backed away (from)気気き feelingがする。三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)は借りておけばよかったと思った思おもった thought。けれども、もうしかたがない。蝋燭立蝋燭立ろうそくたて candle holderを見て見みて look atすましている。三四郎は自分から進んで自分じぶんから進すすんで of one's own accord、ひとのきげんをとったことのない男男おとこ manである。女も遠ざかったぎり近づいて来ない近ちかづいて来こない not come near; not come closer。しばらくするとまた立ち上がった立たち上あがった stood up。窓窓まど windowから戸外戸外そと outsideをすかして見てすかして見みて look through to; peer through at、

「降りそう降ふりそう look to rain; look like rainもありませんね」と言う。三四郎も同じ同おなじ same調子調子ちょうし tone (of voice)で、「降りそうもありません」と答えた答こたえた answered。

「降らなければ、私私わたし I; meちょっと出て来よう出でて来きよう go out (usually 出でて来こよう)かしら」と窓の所所ところ placeで立ったまま言う。三四郎は帰ってくれ帰かえってくれ please go; please leaveという意味意味いみ meaning; nuanceに解釈した解釈かいしゃくした understood; took as。光る光ひかる shine; be bright絹絹きぬ silkを着換えた着換きがえた changed (clothes)のも自分のためではなかった。

「もう帰りましょう」と立ち上がった。美禰子は玄関玄関げんかん entry hallまで送って来た送おくって来きた see a person (to); accompany a person (as far as)。沓脱沓脱くつぬぎ platform for removing (or putting on) shoesへ降りて降おりて descend; step down (to)、靴靴くつ shoesをはいていると、上上うえ aboveから美禰子が、

「そこまでごいっしょに出ましょう出でましょう go out。いいでしょう」と言った。三四郎は靴の紐紐ひも (shoe) lacesを結びながら結むすびながら tie、「ええ、どうでも」と答えた。女女おんな young ladyはいつのまにか、和土和土たたき hard-packed (clay) floorの上へ下りた下おりた descended; stepped down (to)。下りながら三四郎の耳耳みみ earのそばへ口口くち mouthを持ってきて持もってきて bring to、「おこっていらっしゃるの」とささやいた。ところへ下女下女げじょ maidservantがあわてながら、送りに送おくりに to see (someone) off出て来た出でて来きた came out; appeared。

二人二人ふたり two (people)は半町半町はんちょう half a chō (about 50 meters; about 60 yards)ほど無言のまま無言むごんのまま without words; in silence連れだって来た連つれだって来つた accompanied (each other)。そのあいだ三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)はしじゅう美禰子美禰子みねこ Mineko (name)の事の事こと concerning ...を考えて考かんがえて think about; considerいる。この女女おんな woman; young ladyはわがままに育った育そだった was raised; was brought upに違いないに違ちがいない no doubt ...。それから家庭家庭かてい home; householdにいて、普通の普通ふつうの usual; ordinary女性女性にょしょう woman; female以上以上いじょう more thanの自由自由じゆう freedomを有して有ゆうして have; possess、万事万事ばんじ all things意のごとく意いのごとく as one wishes; as one likesふるまうふるまう behave; conduct oneselfに違いない。こうして、だれの許諾許諾きょだく consentも経ずに経へずに without going through; bypassing、自分自分じぶん oneselfといっしょに、往来往来おうらい road; streetを歩く歩あるく walk; strollのでもわかる。年寄り年寄としより elder; agedの親親おや parentsがなくって、若い若わかい young兄兄あに (older) brotherが放任放任ほうにん noninterference; giving free reign主義主義しゅぎ principle; approachだから、こうもできるのだろうが、これがいなかであったらさぞ困る困こまる be a problem; cause troubleことだろう。この女に三輪田三輪田みわた Miwata (family name)のお光お光みつ Omitsu (name)さんのような生活生活せいかつ lifeを送れ送おくれ pass (one's life); spend (one's time)と言ったら言いったら told; requested、どうする気気き intentionかしらん。東京東京とうきょう Tōkyōはいなかと違って違ちがって be different、万事があけ放しあけ放はなし wide openだから、こちらの女は、たいていこうなのかもわからないが、遠くから遠とおくから from a distance想像して想像そうぞうして imagine; inferみると、もう少し少すこし a little; a bitは旧式旧式きゅうしき old style; traditionalのようでもある。すると与次郎与次郎よじろう Yojirō (name)が美禰子をイブセンイブセン Henrik Johan Ibsen (Norwegian Playwright, 1828 – 1906, whose works include A Doll's House)流流りゅう style; mannerと評した評ひょうした remarked; commentedのもなるほどと思い当る思おもい当あたる suddenly understand。ただし俗礼俗礼ぞくれい (societal) conventions; normsにかかわらないところだけがイブセン流なのか、あるいは腹の底腹はらの底そこ deep in one's heartの思想思想しそう thoughts; ideasまでも、そうなのか。そこはわからない。

そのうち本郷本郷ほんごう Hongō (place name)の通り通とおり thoroughfareへ出た出でた came (to)。いっしょに歩いている二人は、いっしょに歩いていながら、相手相手あいて companion; the other partyがどこへ行く行いく go (to)のだか、まったく知らない知しらない not know。今今いま now; this point (in time)までに横町横町よこちょう side street; laneを三つ三みっつ three (things)ばかり曲がった曲まがった turned (through)。曲がるたびに、二人の足足あし feet; legsは申し合わせたように申もうし合あわせたように as if by prior agreement無言のまま同じ同おなじ same方角方角ほうがく directionへ曲がった。本郷の通りを四丁目四丁目よんちょうめ Yonchōme (fourth sub-district)の角角かど cornerへ来る来くる come (to)途中で途中とちゅうで on the way、女が聞いた聞きいた asked。

「どこへいらっしゃるの」

「あなたはどこへ行くんです」

二人はちょっと顔を見合わせた顔かおを見合みあわせた looked at each other。三四郎はしごくまじめである。女はこらえきれずにまた白い白しろい white歯歯は teethをあらわした。

「いっしょにいらっしゃい」

二人は四丁目の角を切り通し切きり通とおし roadcut (road cut through a hill)の方方ほう directionへ折れた折おれた turned (toward)。三十間三十間さんじゅっけん 30 ken (about 55 meters; about 60 yards)ほど行くと、右側右側みぎがわ right sideに大きな大おおきな large西洋館西洋館せいようかん Western-style buildingがある。美禰子はその前前まえ front ofにとまった。帯帯おび sashの間間あいだ (obi) foldsから薄い薄うすい thin帳面帳面ちょうめん account bookと、印形印形いんぎょう seal (for certifying transactions)を出して出だして take out、

「お願いお願ねがい please」と言った。

「なんですか」

「これでお金お金かね moneyを取って取とって take; getちょうだい」

三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)は手手て handを出して出だして put out; put forward、帳面帳面ちょうめん account bookを受取った受取うけとった took; received。まん中まん中なか middleに小口小口こぐち small amount; small sum当座当座とうざ current account預金通帳預金あずかりきん通帳かよいちょう (deposit) passbook; bankbook (usually 預金よきん通帳つうちょう)とあって、横横よこ sideに里見里見さとみ Satomi (Mineko's family name)美禰子美禰子みねこ Mineko (name)殿殿どの (formal suffix - used with business customers)と書いてある書かいてある be written; be inscribed。三四郎は帳面と印形印形いんぎょう seal (for certifying transactions)を持った持もった hold; haveまま、女女おんな woman; young ladyの顔顔かお faceを見て見みて look at立った立たった stood (in place); didn't move。

「三十円三十円さんじゅうえん thirty yen」と女が金高金高かねだか sum of moneyを言った言いった stated。あたかも毎日毎日まいにち every day銀行銀行ぎんこう bankへ金金かね moneyを取りに取とりに to (go) get行きつけた行いきつけた went regularly; frequented者者もの personに対するに対たいする directed toward口ぶり口くちぶり manner of speakingである。さいわい、三四郎は国国くに country; one's native placeにいる時分時分じぶん period (of time)、こういう帳面を持ってたびたび豊津豊津とよつ Toyotsu (place name)まで出かけた出でかけた set out for; traveled toことがある。すぐ石段石段いしだん stone stepsを上って上のぼって climbed; ascended、戸戸と doorをあけて、銀行銀行ぎんこう bankの中中なか insideへはいった。帳面と印形を係りの者係かかりの者もの person on duty; clerkに渡して渡わたして hand to、必要の必要ひつようの required; necessary金額金額きんがく amount (of money)を受け取って受うけ取とって receive出て出でて come outみると、美禰子は待って待まって waitいない。もう切り通し切きり通とおし roadcut (road cut through a hill)の方方ほう directionへ二十間二十間にじゅっけん 20 ken (about 36 meters; about 40 yards)ばかり歩きだして歩あるきだして set out walkingいる。三四郎は急いで急いそいで hurrying; in a rush追いついた追おいついた caught up。すぐ受け取ったものを渡そうとして、ポッケットへ手を入れる入いれる put into; insertと、美禰子が、

「丹青会丹青会たんせいかい Tanseikai (name of a group)の展覧会展覧会てんらんかい exhibitionを御覧になって御覧ごらんになって (have you) seen」と聞いた聞きいた asked。

「まだ見ません」

「招待券招待券しょうたいけん complimentary ticketsを二枚二枚にまい two (tickets)もらったんですけれども、つい暇暇ひま leisure timeがなかったものだからまだ行かずにいたんですが、行ってみましょうか」

「行ってもいいです」

「行きましょう。もうじき閉会閉会へいかい closure; end (of an event)になりますから。私私わたし I; me、一ぺん一いっぺん one time; onceは見ておかないと原口原口はらぐち Haraguchi (name)さんに済まない済すまない wrongful (toward someone)のです」

「原口さんが招待券をくれたんですか」

「ええ。あなた原口さんを御存じ御存ごぞんじ acquainted (with someone)なの?」

「広田先生広田ひろた先生せんせい Professor Hirotaの所所ところ place; homeで一度一度いちど once会いました会あいました met」

「おもしろいかたでしょう。馬鹿囃子馬鹿ばか囃子ばやし festival music; parade musicを稽古なさる稽古けいこなさる practice; train inんですって」

「このあいだは鼓鼓つづみ tsuzumi (hourglass drum whose tension can be adjusted while playing)をならいたいと言っていました。それから――」

「それから?」

「それから、あなたの肖像肖像しょうぞう portraitをかくとか言って言いって sayいました。本当本当ほんとう truthですか」

「ええ、高等高等こうとう first class; high gradeモデルモデル modelなの」と言った。男男おとこ heはこれより以上にこれより以上いじょうに beyond this気の利いた気きの利きいた clever; tactfulことが言えない性質性質たち nature; dispositionである。それで黙って黙だまって fall silentしまった。女女おんな sheはなんとか言ってもらいたかったらしい。

三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)はまた隠袋隠袋かくし pocketへ手手て handを入れた入いれた put in; inserted。銀行銀行ぎんこう bankの通帳通帳かよいちょう account book (usually 通帳つうちょう)と印形印形いんぎょう seal (for certifying transactions)を出して出だして take out; produce、女に渡した渡わたした handed (to)。金金かね moneyは帳面の間間あいだ midstにはさんでおいたはずである。しかるに女が、

「お金は」と言った。見る見みる lookと、間にはない。三四郎はまたポッケットを探った探さぐった searched。中中なか insideから手ずれ手てずれ wear from handlingのした札札さつ (bank) notesをつかみ出した。女は手を出さない。

「預かって預あずかって take charge of; keepおいてちょうだい」と言った。三四郎はいささか迷惑迷惑めいわく bother; burdenのような気気き feelingがした。しかしこんな時時とき time; occasionに争う争あらそう quarrel; disputeことを好まぬ好このまぬ prefer to avoid男男おとこ man; fellowである。そのうえ往来往来おうらい road; streetだからなおさら遠慮遠慮えんりょ restraintをした。せっかく握った握にぎった grasp; clutch (in one's hand)札をまたもとの所所ところ place; locationへ収めて収おさめて put away; put back、妙な妙みょうな odd; strange女だと思った思おもった thought。

学生学生がくせい studentsが多く多おおく in great number通る通とおる pass by; pass through。すれ違うすれ違ちがう pass (each other)時にきっと二人二人ふたり two (people)を見る。なかには遠くから遠とおくから from a distance目をつけて目めをつけて have an eye on; take notice of来る来くる come; approach者者もの personsもある。三四郎は池の端池いけの端はた Ikenohata (place name)へ出る出でる arrive (at)までの道道みち road; wayをすこぶる長く長ながく lengthy感じた感かんじた felt。それでも電車電車でんしゃ (electric) trainに乗る乗のる ride気にはならない。二人とものそのそ歩いて歩あるいて walk; strollいる。会場会場かいじょう event siteへ着いた着ついた arrivedのはほとんど三時三時さんじ three (o'clock)近く近ちかく nearly; almostである。妙な看板看板かんばん sign; placardが出ている。丹青会丹青会たんせいかい Tanseikai (name of a group)という字字じ charactersも、字の周囲周囲まわり periphery; surroundingについている図案図案ずあん design; graphicsも、三四郎の目にはことごとく新しい新あたらしい novel; fresh。しかし熊本熊本くまもと Kumamoto (Sanshirō's home region)では見ることのできない意味意味いみ meaningで新しいので、むしろ一種異様の一種いっしゅ異様いようの eccentric; peculiar感感かん feeling; impressionがある。中はなおさらである。三四郎の目にはただ油絵油絵あぶらえ oil paintingと水彩画水彩画すいさいが water color paintingの区別区別くべつ distinctionが判然と判然はんぜんと clearly映ずる映えいずる appear; be apparentくらいのものにすぎない。

それでも好悪好悪こうお likes and dislikesはある。買って買かって buy; purchaseもいいと思うのもある。しかし巧拙巧拙こうせつ skill; craftsmanshipはまったくわからない。したがって鑑別力鑑別力かんべつりょく ability to judgeのないものと、初手初手しょて beginning; startからあきらめた三四郎は、いっこう口をあかない口くちをあかない make no comment; offer no opinion。

美禰子美禰子みねこ Mineko (name)がこれはどうですかと言う言いう ask; questionと、そうですなという。これはおもしろいじゃありませんかと言うと、おもしろそうですなという。まるで張り合い張はり合あい enthusiasm; interestがない。話話はなし dialog; conversationのできないばかか、こっちを相手相手あいて partner; companionにしない偉い偉えらい eminent; distinguished男男おとこ man; fellowか、どっちかにみえる。ばかとすればてらわないてらわない unpretentiousところに愛嬌愛嬌あいきょう charm; appealがある。偉いとすれば、相手にならないところが憎らしい憎にくらしい odious; offensive。

長い間長ながい間あいだ long time外国外国がいこく foreign landsを旅行して旅行りょこうして travel歩いた歩あるいた wandered; traversed兄妹兄妹きょうだい (older) brother and (younger) sisterの絵絵え paintings; worksがたくさんある。双方双方そうほう both (parties)とも同じ同おなじ same姓姓せい surname; family nameで、しかも一つ所一ひとつ所ところ one place; the same placeに並べて並ならべて set out; arrangeかけてある。美禰子はその一枚一枚いちまい one (painting)の前前まえ front ofにとまった。

「ベニスベニス Veniceでしょう」

これは三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)にもわかった。なんだかベニスらしい。ゴンドラゴンドラ gondolaにでも乗って乗のって ride (in)みたい心持ち心持こころもち feelingがする。三四郎は高等学校高等学校こうとうがっこう high school (equivalent to modern-day college)にいる時分時分じぶん period; timeゴンドラという字字じ wordを覚えた覚おぼえた learned。それからこの字が好き好すき favored; to one's likingになった。ゴンドラというと、女女おんな woman; young ladyといっしょに乗らなければすまないような気気き feelingがする。黙って黙だまって in silence; without speaking青い青あおい blue水水みず waterと、水と左右左右さゆう left and right; both sidesの高い高たかい tall家家いえ housesと、さかさに映る映うつる be reflected家の影影かげ shape; formと、影の中中なか middle; insideにちらちらする赤い赤あかい red片片きれ piece; chipとをながめていた。すると、

「兄さん兄あにさん (older) brotherのほうがよほどうまいようですね」と美禰子が言った。三四郎にはこの意味意味いみ meaningが通じなかった通つうじなかった didn't register。

「兄さんとは……」

「この絵は兄さんのほうでしょう」

「だれの?」

美禰子は不思議そうな不思議ふしぎそうな questioning; puzzled顔顔かお (facial) expressionをして、三四郎を見た見みた looked at。

「だって、あっちのほうが妹さん妹いもうとさん (younger) sisterので、こっちのほうが兄さんのじゃありませんか」

三四郎は一歩一歩いっぽ one step退いて退しりぞいて step back; move back、今今いま (just) now通って来た通とおって来きた passed through道道みち way; pathの片側片側かたがわ one sideを振り返って見た振ふり返かえって見みた looked back at。同じように外国の景色景色けしき sceneryをかいたものが幾点となく幾点いくてんとなく some number ofかかっている。

「違う違ちがう differentんですか」

「一人一人ひとり one; single (person)と思って思おもって thinkいらしったの」

「ええ」と言って、ぼんやりしている。やがて二人二人ふたり two (people)が顔を見合わした顔かおを見合みあわした looked at each other。そうして一度に一度いちどに at the same time笑いだした笑わらいだした laughed。美禰子は、驚いた驚おどろいた surprisedように、わざと大きな大おおきな large目目め eyesをして、しかもいちだんと調子を落とした調子ちょうしを落おとした subdued小声小声こごえ whisper; murmurになって、

「ずいぶんね」と言いながら、一間一間いっけん 1 ken (about 2 meters; about 2 yards)ばかり、ずんずんずんずん quickly; rapidly先先さき aheadへ行って行いって proceedしまった。三四郎は立ちどまったまま立たちどまったまま standing still; rooted in place、もう一ぺんもう一いっぺん one more timeベニスの掘割り掘割ほりわり canal; waterwayをながめだした。先へ抜けた抜ぬけた slipped (ahead)女は、この時時とき time; moment振り返った。三四郎は自分の自分じぶんの one's own方方ほう directionを見ていない。女は先へ行く足足あし feet; stepsをぴたりと留めた留とめた stopped。向こう向むこう beyond; aheadから三四郎の横顔横顔よこがお (facial) profileを熟視して熟視じゅくしして gaze at; scrutinizeいた。

「里見さん」

だしぬけにだしぬけに all of a sudden; unexpectedlyだれか大きな声大おおきな声こえ loud voiceで呼んだ呼よんだ called out to者者もの personがある。

美禰子美禰子みねこ Mineko (name)も三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)も等しく等ひとしく equally; alike顔を向け直した顔かおを向むけ直なおした turned to look。事務室事務室じむしつ officeと書いた書かいた be written; be posted; be labeled入口入口いりぐち entranceを一間一間いっけん 1 ken (about 2 meters; about 2 yards)ばかり離れて離はなれて separated from; away from、原口原口はらぐち Haraguchi (name)さんが立って立たって standいる。原口さんのうしろに、少し少すこし a little; partially重なり合って重かさなり合あって hidden; obscured (from view)、野々宮野々宮ののみや Nonomiya (name)さんが立っている。美禰子は呼ばれた呼よばれた be called by原口よりは、原口より遠く遠とおく distantの野々宮を見た見みた looked at。見るやいなや、二、三歩二に、三歩さんぽ several stepsあともどりをして三四郎のそばへ来た来きた came (to)。人人ひと people; othersに目立たぬ目立めだたぬ indiscernible; unnoticeableくらいに、自分の自分じぶんの one's own口口くち mouthを三四郎の耳耳みみ earへ近寄せた近寄ちかよせた drew near to; brought near to。そうして何か何なにか somethingささやいた。三四郎には何を言った言いった saidのか、少しもわからない。聞き直そうとする聞きき直なおそうとする try to ascertain (by asking someone to repeat)うちに、美禰子は二人二人ふたり two (people)の方方ほう directionへ引き返していった引ひき返かえしていった went back (toward)。もう挨拶挨拶あいさつ greeting; salutationをしている。野々宮は三四郎に向かって、

「妙な妙みょうな odd; curious連連つれ companion; companyと来ましたね」と言った。三四郎が何か答えようとする答こたえようとする try to respond; be about to answerうちに、美禰子が、

「似合う似合にあう suit; matchでしょう」と言った。野々宮さんはなんとも言わなかった。くるりとうしろを向いた。うしろには畳一枚畳たたみ一枚いちまい one tatami matほどの大きな大おおきな large絵絵え paintingがある。その絵は肖像画肖像画しょうぞうが portraitである。そうしていちめんに黒い黒くろい black; dark。着物着物きもの clothing; outfitも帽子帽子ぼうし hatも背景背景はいけい backgroundから区別区別くべつ distinctionのできないほど光線光線こうせん lightを受けて受うけて receiveいないなかに、顔ばかり白い白しろい white; pale。顔はやせて、頬頬ほお cheekの肉肉にく fleshが落ちて落おちて be fallen; be sunkenいる。

「模写模写もしゃ copy; reproductionですね」と野々宮さんが原口さんに言った。原口は今今いま now; at presentしきりに美禰子に何か話して話はなして discussいる。――もう閉会閉会へいかい close of an eventである。来観者来観者らいかんしゃ visitors (to an exhibit)もだいぶ減った減へった become fewer; be diminished。開会開会かいかい opening of an eventの初め初はじめ beginning; initial periodには毎日毎日まいにち every day事務所事務所じむしょ officeへ来ていたが、このごろはめったに顔を出さないめったに顔かおを出ださない rarely put in an appearance。きょうはひさしぶりに、こっちへ用用よう businessがあって、野々宮さんを引っ張って来た引ひっ張ぱって来きた brought alongところだ。うまく出っくわした出でっくわした met (by chance); bumped intoものだ。この会会かい event; exhibitをしまうと、すぐ来年来年らいねん next yearの準備準備じゅんび preparationにかからなければならないから、非常に非常ひじょうに exceedingly忙しい忙いそがしい busy。いつもは花花はな flowers; blossomsの時分時分じぶん period (of time)に開く開ひらく open; hold (an event)のだが、来年は少し会員会員かいいん membersのつごうで早く早はやく earlyするつもりだから、ちょうど会を二つ二ふたつ two (things)続けて続つづけて in succession開くと同じ同おなじ same; equivalentことになる。必死の必死ひっしの frantic; desperate勉強勉強べんきょう diligence; hard workをやらなければならない。それまでにぜひ美禰子の肖像肖像しょうぞう portraitをかきあげてしまうつもりである。迷惑迷惑めいわく burden; impositionだろうが大晦日大晦日おおみそか New Year's Eveでもかかしてくれ。

「その代りその代かわり in exchangeここん所ここん所ところ this place; hereへかけるつもりです」

原口原口はらぐち Haraguchi (name)さんはこの時時とき time; momentはじめて、黒い黒くろい black; dark絵絵え paintingの方方ほう directionを向いた向むいた turned (toward)。野々宮野々宮ののみや Nonomiya (name)さんはそのあいだぽかんとして同じ同おなじ same絵をながめていた。

「どうです。ベラスケスベラスケス Diego Velázquez (Spanish painter; 1599 - 1660)は。もっとも模写模写もしゃ copy; reproductionですがね。しかもあまり上でき上じょうでき well done; skillfulではない」と原口がはじめて説明する説明せつめいする explained。野々宮さんはなんにも言う言いう say; remark必要必要ひつよう need; necessityがなくなった。

「どなたがお写しになったお写うつしになった copied; reproducedの」と女女おんな woman; young ladyが聞いた聞きいた asked。

「三井三井みつい Mitsui (name)です。三井はもっとうまいんですがね。この絵はあまり感服できない感服かんぷくできない can't admire; can't applaud」と一、二歩一いち、二歩にほ a couple of stepsさがって見た見みた surveyed; looked at。「どうも、原画原画げんが the original (painting)が技巧技巧ぎこう technique; masteryの極点極点きょくてん climax; pinnacleに達した達たっした accomplished; achieved人人ひと person; personageのものだから、うまくいかないね」

原口は首を曲げた首くびを曲まげた tilted (his) head。三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)は原口の首を曲げたところを見ていた。

「もう、みんな見たんですか」と画工画工がこう painter; artistが美禰子に聞いた。原口は美禰子にばかり話しかける話はなしかける talk to; make conversation with。

「まだ」

「どうです。もうよして、いっしょに出ちゃ出でちゃ leave; go out。精養軒精養軒せいようけん Seiyōken (name of high-end Western-style restaurant)でお茶お茶ちゃ teaでもあげます。なにわたしは用があるから、どうせちょっと行かなければならない行ゆかなければならない need to go。――会会かい gathering; partyの事の事こと concerning ...でね、マネジャーマネジャー managerに相談相談そうだん discussion; consultationしておきたい事がある。懇意懇意こんい friendshipの男男おとこ man; fellowだから。――今今いま nowちょうどお茶にいい時分時分じぶん timeです。もう少し少すこし a little; a bitするとね、お茶にはおそしおそし late晩餐晩餐デナー dinnerには早し早はやし early、中途はんぱ中途ちゅうとはんぱ halfway; half-bakedになる。どうです。いっしょにいらっしゃいな」

美禰子は三四郎を見た。三四郎はどうでもいい顔顔かお face; look; expressionをしている。野々宮は立ったまま立たったまま not moving from one's place関係しない関係かんけいしない not be engage; show no interest。

「せっかく来た来きた cameものだから、みんな見てゆきましょう。ねえ、小川小川おがわ Ogawa (Sanshirō's family name)さん」

三四郎はええと言った。

「じゃ、こうなさい。この奥奥おく interiorの別室別室べっしつ special roomにね。深見深見ふかみ Fukami (name)さんの遺画遺画いが legacy worksがあるから、それだけ見て見みて look at、帰り帰かえり return (trip); one's way homeに精養軒精養軒せいようけん Seiyōken (name of high-end Western-style restaurant)へいらっしゃい。先へ先さきへ beforehand; in advance行って行いって go; proceed (to)待って待まって waitいますから」

「ありがとう」

「深見さんの水彩水彩すいさい watercolorsは普通の普通ふつうの usual; ordinary水彩のつもりで見ちゃいけませんよ。どこまでも深見さんの水彩なんだから。実物実物じつぶつ actual objectsを見る気気き intentionにならないで、深見さんの気韻気韻きいん dignity; refinementを見る気になっていると、なかなかおもしろいところが出てきます出でてきます come out; become apparent」と注意して注意ちゅういして advise、原口原口はらぐち Haraguchi (name)は野々宮野々宮ののみや Nonomiya (name)と出て行った。美禰子美禰子みねこ Mineko (name)は礼を言って礼れいを言いって express one's thanksその後影後影うしろかげ receding formを見送った見送みおくった saw off; watched go。二人二人ふたり two (people)は振り返らなかった振ふり返かえらなかった didn't look back。

女女おんな woman; young ladyは歩をめぐらして歩ほをめぐらして redirecting one's steps、別室へはいった。男男おとこ man; fellowは一足一足ひとあし one stepあとから続いた続つづいた followed。光線光線こうせん light; lightingの乏しい乏とぼしい meager; sparse暗い暗くらい dark; dim部屋部屋へや roomである。細長い細長ほそながい long and narrow壁壁かべ wallに一列一列いちれつ one rowにかかっている深見先生先生せんせい teacher; masterの遺画を見ると、なるほど原口さんの注意したごとくほとんど水彩ばかりである。三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)が著しく著いちじるしく considerably; strikingly感じた感かんじた feltのは、その水彩の色色いろ colorsが、どれもこれも薄くて薄うすくて thin; attenuated、数数かず number; varietyが少なくって少すくなくって few、対照対照たいしょう contrastに乏しくって、日向日向ひなた sunlight; the light of dayへでも出さない出ださない not expose (to)と引き立たない引ひき立たたない don't stand out; aren't activeと思う思おもう thinkほど地味に地味じみに modestly; subtlyかいてあるという事事こと fact; situationである。その代りその代かわり on the other hand; at the same time筆筆ふで brushがちっとも滞って滞とどこおって be stagnant; be stuckいない。ほとんど一気呵成に一気呵成いっきかせいに in a single stroke; without pause仕上げた仕上しあげた finished; completed趣趣おもむき appearance; aspectがある。絵の具絵えの具ぐ paint; colorsの下下した beneath; belowに鉛筆鉛筆えんぴつ pencilの輪郭輪郭りんかく outlineが明らかに明あきらかに clearly透いて見える透すいて見みえる show throughのでも、洒落な洒落しゃらくな frank; candid画風画風がふう style of paintingがわかる。人間人間にんげん human (figures)などになると、細くて長くて、まるで殻竿殻竿からざお husk flail (for threshing grain - series of hinged rods) のようである。ここにもベニスベニス Veniceが一枚一枚いちまい one (painting)ある。

「これもベニスですね」と女が寄って来た寄よって来きた approached; drew near。

「ええ」と言ったが、ベニスで急に急きゅうに suddenly思い出した思おもい出だした remembered; recalled。

「さっき何何なに whatを言った言いった saidんですか」

女女おんな woman; young ladyは「さっき?」と聞き返した聞きき返かえした asked in return。

「さっき、ぼくが立って立たって standing (there)、あっちのベニスベニス Veniceを見て見みて look atいる時時とき time; occasionです」

女はまたまっ白なまっ白しろな pure white歯歯は teethをあらわした。けれどもなんとも言わない。

「用用よう matter of importanceでなければ聞かなくってもいいです」

「用じゃないのよ」

三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)はまだ変な変へんな odd; peculiar顔顔かお (facial) expressionをしている。曇った曇くもった cloudy; overcast秋秋あき autumnの日日ひ dayはもう四時四時よじ four (o'clock)を越した越こした passed。部屋部屋へや roomは薄暗くなってくる薄暗うすぐらくなってくる grow dim。観覧人観覧人かんらんにん visitors; viewersはきわめて少ない少すくない few。別室別室べっしつ special roomのうちには、ただ男女二人男女なんにょ二人ふたり couple; pair (male and female)の影影かげ forms; figuresがあるのみである。女は絵絵え paintingを離れて離はなれて move away from、三四郎の真正面真正面まっしょうめん right in frontに立った。

「野々宮野々宮ののみや Nonomiya (name)さん。ね、ね」

「野々宮さん……」

「わかったでしょう」

美禰子美禰子みねこ Mineko (name)の意味意味いみ meaningは、大波大波おおなみ large waveのくずれるごとく一度に一度いちどに at once; in an instant三四郎の胸胸むね bosom; heartを浸した浸ひたした soaked; swamped。

「野々宮さんを愚弄した愚弄ぐろうした teased; toyed withのですか」

「なんで?」

女の語気語気ごき tone; manner of speakingはまったく無邪気無邪気むじゃき innocenceである。三四郎は忽然として忽然こつぜんとして all of a sudden; in an instant、あとを言う勇気勇気ゆうき courage; nerveがなくなった。無言のまま無言むごんのまま without speaking; in silence二、三歩二に、三歩さんぽ several steps動きだした動うごきだした began to move; started away。女はすがるようについて来たついて来きた followed after。

「あなたを愚弄したんじゃないのよ」

三四郎はまた立ちどまった。三四郎は背の高い背せの高たかい tall (in stature)男男おとこ manである。上上うえ aboveから美禰子を見おろした。

「それでいいです」

「なぜ悪い悪わるい wrongの?」

「だからいいです」

女は顔をそむけた。二人とも戸口戸口とぐち doorの方方ほう directionへ歩いて来た歩あるいて来きた walked toward。戸口を出る出でる go out; exit (through)拍子拍子ひょうし momentに互い互たがい mutualの肩肩かた shouldersが触れた触ふれた brushed (against each other)。男は急に急きゅうに suddenly汽車汽車きしゃ (steam) trainで乗り合わした乗のり合あわした rode together女を思い出した思おもい出だした recalled; remembered。美禰子の肉肉にく body; fleshに触れたところが、夢夢ゆめ dreamにうずくうずく tingle; acheような心持ち心持こころもち feelingがした。

「ほんとうにいいの?」と美禰子美禰子みねこ Mineko (name)が小さい小ちいさい small; low (voice)声声こえ voiceで聞いた聞きいた asked。向こう向むこう beyond; the other directionから二、三人連二に、三人連さんにんづれ a small group; a party of several peopleの観覧者観覧者かんらんしゃ visitors; viewersが来る来くる came; approached。

「ともかく出ましょう出でましょう leave; go out」と三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)が言った言いった said; replied。下足下足げそく outdoor shoes (exchanged for slippers on entering)を受け取って受うけ取とって received; retrieved、出ると戸外戸外そと outdoors; outsideは雨雨あめ rainだ。

「精養軒精養軒せいようけん Seiyōken (name of high-end Western-style restaurant)へ行きます行いきます go (to)か」

美禰子は答えなかった答こたえなかった didn't answer。雨のなかをぬれながら、博物館博物館はくぶつかん museum前前まえ front ofの広い広ひろい wide; open原原はら fieldのなかに立った立たった stood。さいわい雨は今今いま (just) now降りだした降ふりだした started fallingばかりである。そのうえ激しく激はげしく strong; intenseはない。女女おんな woman; young ladyは雨のなかに立って、見回しながら見回みまわしながら looking around、向こうの森森もり woods; treesをさした。

「あの木木き treesの陰陰かげ shade; shelterへはいりましょう」

少し少すこし a little; a bit待てば待まてば waitやみそうである。二人二人ふたり two (people)は大きな大おおきな large杉杉すぎ cedar (tree)の下下した beneathにはいった。雨を防ぐ防ふせぐ avoid; protect (against)にはつごうのよくない木である。けれども二人とも動かない動うごかない didn't move。ぬれても立っている。二人とも寒くなった寒さむくなった felt cold; became chilled。女が「小川小川おがわ Ogawa (Sanshirō's family name)さん」と言う。男男おとこ man; fellowは八の字を寄せて八はちの字じを寄よせて frown; knit one's brows、空空そら skyを見ていた顔顔かお faceを女の方方ほう directionへ向けた向むけた turned toward。

「悪くって悪わるくって wrong? さっきのこと」

「いいです」

「だって」と言いながら、寄って来た寄よって来きた approached; drew near。「私私わたし I; me、なぜだか、ああしたかったんですもの。野々宮野々宮ののみや Nonomiya (name)さんに失礼する失礼しつれいする be rude (to); slightつもりじゃないんですけれども」

女は瞳を定めて瞳ひとみを定さだめて fix one's gaze、三四郎を見た。三四郎はその瞳のなかに言葉言葉ことば wordsよりも深き深ふかき deep; profound訴え訴うったえ appealを認めた認みとめた recognized。――必竟必竟ひっきょう after allあなたのためにした事事こと act; deedじゃありませんかと、二重瞼二重ふたえ瞼まぶた contoured eyelidsの奥奥おく interior; depthsで訴えている。三四郎は、もう一ぺんもう一いっぺん once more、

「だから、いいです」と答えた。

雨はだんだん濃くなった濃こくなった became thick; became heavy; intensified。雫雫しずく dropsの落ちない落おちない don't fall場所場所ばしょ placeはわずかしかない。二人はだんだん一つ所一ひとつ所ところ one place; the same placeへかたまってきた。肩肩かた shoulderと肩とすれ合うすれ合あう brush togetherくらいにして立ちすくんで立たちすくんで be huddledいた。雨の音音おと soundのなかで、美禰子が、

「さっきのお金お金かね moneyをお使いなさいお使つかいなさい please make use of」と言った。

「借りましょう借かりましょう borrow。要るだけ要いるだけ as necessary」と答えた。

「みんな、お使いなさい」と言った。