うら back (side)から回ってまわって come around (from)ばあさんに聞くく ask; inquireと、ばあさんが小さなちいさな small; quiet (voice)こえ voiceで、与次郎与次郎よじろう Yojirō (name)さんはきのうからお帰りなさらないかえりなさらない didn't return; didn't come home言うう say; communicate三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)勝手口勝手口かってぐち kitchen door; service entrance立ってって stand (in)考えたかんがえた thought; considered。ばあさんは気をきかしてをきかして exercise tact; employ good sense、まあおはいりなさい。先生先生せんせい professor書斎書斎しょさい studyにおいでですからと言いながら、 hands休めずにやすめずに without resting膳椀膳椀ぜんわん dishes洗ってあらって washいる。いま (just) now晩食晩食ゆうめし evening meal; dinnerがすんだばかりのところらしい。

三四郎は茶の間ちゃ tea room; hearth room通り抜けてとおけて pass through廊下伝いに廊下ろうかづたいに along the corridor書斎の入口入口いりぐち entranceまで来たた came (to) doorがあいている。なか inside; withinから「おい」とひと a person呼ぶぶ call to声がする。三四郎は敷居敷居しきい thresholdのうちへはいった。先生はつくえ desk向かってかって face; be turned (toward)いる。机のうえ top ofにはなに whatがあるかわからない。高いたかい tall; extended back研究研究けんきゅう work隠してかくして hide; block from viewいる。三四郎は入口に近くちかく close (to)すわって、

御勉強御勉強おべんきょう studiesですか」と丁寧に丁寧ていねいに politely聞いた。先生はかお faceをうしろへねじ向けた。ひげ mustacheかげ form; shape不明瞭に不明瞭ふめいりょうに indistinctlyもじゃもじゃしてもじゃもじゃして shaggy; disheveledいる。写真版写真版しゃしんばん photographic plate見たた sawだれかの肖像肖像しょうぞう portrait; likeness似てて resembleいる。

「やあ、与次郎かと思ったらおもったら thoughtきみ youですか、失敬した失敬しっけいした pardon; sorry (about that)」と言って、席を立ったせきった rose from (his) chair。机の上にはふで brushかみ paperがある。先生は何か書いていて write; composeいた。与次郎の話にはなしに according to ...、うちの先生は時々時々ときどき sometimes; occasionally何か書いている。しかし何を書いているんだか、ほかのもの persons読んでんで readもちっともわからない。生きてきて be alive; be livingいるうちに、大著述大著述だいちょじゅつ great work; master treatiseにでもまとめられれば結構結構けっこう fine; splendidだが、あれで死んでんで die; pass awayしまっちゃあ、反古反古ほご wastepaperがたまるばかりだ。じつにつまらない。と嘆息して嘆息たんそくして sigh; lamentいたことがある。三四郎は広田広田ひろた (Professor) Hirotaの机の上を見て、すぐ与次郎の話を思い出したおもした remembered; recalled

「おじゃまなら帰ります。べつだんの用事用事ようじ business; affairs; matters of importanceでもありません」

「いや、帰ってもらうほどじゃまでもありません。こっちの用事もべつだんのことでもないんだから。そう急にきゅうに quickly片づけるかたづける take care of; finishたちたち quality; natureのものをやっていたんじゃない」

三四郎はちょっと挨拶挨拶あいさつ reply; responseができなかった。しかし腹のうちでははらのうちでは down inside; to oneself、この人のような気分気分きぶん mood; temperamentになれたら、勉強も楽にらくに comfortably; with easeできてよかろうと思った。しばらくしてから、こう言った。

「じつは佐々木佐々木ささき Sasaki (Yojirō's family name)くん (suffix of familiarity for males)のところへ来たんですが、いなかったものですから……」

「ああ。与次郎はなんでもゆうべから帰らないようだ。時々漂泊して漂泊ひょうはくして wander; roam困るこまる be cause for concern

「何か急に用事でもできたんですか」

「用事はけっしてできるおとこ fellowじゃない。ただ用事をこしらえるこしらえる contrive; cook up男でね。ああいうばかは少ないすくない few

三四郎はしかたがないから、

「なかなか気楽気楽きらく easygoing; carefreeですな」と言った。

気楽気楽きらく easygoing; carefreeならいいけれども。与次郎与次郎よじろう Yojirō (name)のは気楽なのじゃない。気が移るのうつるの freewheeling; fickleで――たとえば rice fieldなか middle流れてながれて flow (through)いる小川小川おがわ small river; streamのようなものと思っておもって think of (as); considerいれば間違いはない間違まちがいはない would not be a mistake; would be accurate浅くてあさくて shallow狭いせまい narrow。しかしみず waterだけはしじゅうしじゅう continuously (= 始終しじゅう)変ってかわって change; be in transitionいる。だから、すること matters; affairsが、ちっとも締まりがないまりがない are not brought to conclusion縁日縁日えんにち temple festivalひやかしひやかし window shopping; browsingになど行くく goと、急にきゅうに suddenly思い出したおもした rememberedように、先生先生せんせい Professorまつ (dwarf) pine一鉢一鉢ひとはち one potお買いなさいいなさい please buyなんて妙なみょうな curious; oddことを言うう say; bring up。そうして買うともなんとも言わないうちに値切って値切ねぎって bargain; negotiate the price down買ってしまう。その代りそのかわり on the one hand縁日ものを買うことなんぞはじょうずでね。あいつに買わせるとたいへん安くやすく at a low price買える。そうかと思うと、なつ summerになってみんながうち house留守留守るす absence; being away (from home)にするときなんか、松を座敷座敷ざしき living room; parlor入れたれた put into; place inまんま雨戸雨戸あまど storm doorsをたてて錠をおろしてじょうをおろして lock upしまう。帰ってかえって return (home)みると、松が温気温気うんき heat; sultry airむれてむれて molderまっ赤まっ bright redになっている。万事万事ばんじ all thingsそういうふうでまことに困るこまる be troubled; be at one's wits' end

じつ the truthをいうと三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)はこのあいだ与次郎に二十円二十にじゅうえん twenty yen貸したした loaned二週間二週間にしゅうかん two weeks later; henceには文芸時評文芸時評ぶんげいじひょう Literary Review (magazine)しゃ companyから原稿料原稿料げんこうりょう payment for a manuscript取れるれる will receiveはずだから、それまで立替えて立替たてかえて front; advance (money to someone)くれろと言う。事理事理わけ reason聞いていて ask; inquireみると、気の毒どく unfortunate; pitiableであったから、くに home country; one's native placeから送っておくって sent; remittedきたばかりの為替為替かわせ money order五円五円ごえん five yen引いていて subtract; take out余りあまり the rest; the remainderことごとくことごとく all; in its entirety貸してしまった。まだ返すかえす return; pay back期限期限きげん term; periodではないが、広田のはなし talk; storyを聞いてみると少々少々しょうしょう a bit; somewhat心配心配しんぱい worry; concernになる。しかし先生にそんな事は打ち明けられないけられない cannot divulgeから、反対に反対はんたいに conversely

「でも佐々木佐々木ささき Sasaki (Yojirō's family name)くん (suffix of familiarity for males)は、大いにおおいに greatly先生に敬服して敬服けいふくして have admiration (for); hold in high esteemかげ background; behind the scenesでは先生のためになかなか尽力尽力じんりょく efforts; endeavorしています」と言うと、先生はまじめになって、

「どんな尽力をしているんですか」と聞きだした。ところが「偉大なる偉大いだいなる great; mighty暗闇暗闇くらやみ darkness; voidその他その (and) othersすべて広田先生広田ひろた先生せんせい Professor Hirota関するかんする concerning与次郎の所為所為しょい activities; doingsは、先生に話してはならないと、当人当人とうにん the person in questionから封じられてふうじられて be sworn to silenceいる。やりかけた途中途中とちゅう in the middle ofでそんな事が知れるれる become known; come to lightと先生にしかられるにきまってるから黙ってだまって keep silentいるべきだという。話していいとき time; occasionにはおれが話すと明言して明言めいげんして state clearlyいるんだからしかたがない。三四郎は話をそらしてそらして avert; turn away (from)しまった。

三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)広田広田ひろた (Professor) Hirotaうち house来るる come (to); visitにはいろいろな意味意味いみ meaning; senseがある。一つひとつ one (thing)は、このひと person生活生活せいかつ life; lifestyleその他その and other things普通普通ふつう ordinary; usualのものと変っているかわっている be different。ことに自分の自分じぶんの one's own性情性情せいじょう nature; dispositionとはまったく容れないれない not consistent with; not compatible withようなところがある。そこで三四郎はどうしたらああなるだろうという好奇心好奇心こうきしん curiosityから参考参考さんこう reference; consultationのため研究研究けんきゅう study; investigationに来る。つぎ nextにこの人のまえ before; front of出るる appearのん気のん at ease; carefreeになる。世の中なか society; the world競争競争きょうそう competitionがあまり concern; source of anxietyにならない。野々宮野々宮ののみや Nonomiya (name)さんも広田先生広田ひろた先生せんせい Professor Hirota同じくおなじく in the same manner世外世外せがい aloofness; detachmentおもむき tenor; appearanceはあるが、世外の功名心功名心こうみょうしん ambition; aspirationのために、流俗流俗りゅうぞく conventional; mainstream嗜欲嗜欲しよく appetite for; fondness of遠ざけてとおざけて keep away from; abstain fromいるかのように思われるおもわれる it seemed that。だから野々宮さんを相手相手あいて companion; the other party二人ぎり二人ふたりぎり two (people) alone話してはなして talk; converseいると、自分自分じぶん oneselfもはやく一人前の一人前いちにんまえの competent; fully capable仕事仕事しごと workをして、学海学海がっかい academic world; learned circles貢献しなくては済まない貢献こうけんしなくてはまない must contribute to; must make one's markような feeling起こるこる arise; occurいらついてたまらないいらついてたまらない be nerve-wracked。そこへゆくと広田先生は太平太平たいへい peace; tranquilityである。先生は高等学校高等学校こうとうがっこう high school (equivalent to modern-day college)でただ語学語学ごがく foreign language study教えるおしえる teachだけで、ほかになんのげい skill; accomplishmentもない――といっては失礼失礼しつれい discourtesyだが、ほかになんらの研究も公けにしないおおやけけにしない not disclose; not make public。しかも泰然と泰然たいぜんと calmly; self-possessed取り澄ましてまして look contentいる。そこに、こののん気のみなもと source; origin伏在して伏在ふくざいして lie concealedいるのだろうと思う。三四郎は近ごろちかごろ recentlyおんな young ladyとらわれたとらわれた be captured by; be slave to恋人恋人こいびと sweetheartにとらわれたのなら、かえっておもしろいが、ほれられているんだか、ばかにされているんだか、こわがっていいんだか、さげすんでさげすんで despise; look down onいいんだか、よすべきよすべき should stop; should desistだか、続けべきつづけべき should continueだかわけのわからないとらわれ方とらわれかた manner of captivationである。三四郎はいまいましくいまいましく vexed; confoundedなった。そういうとき times; occasionsは広田さんにかぎる。三十分三十分さんじっぷん thirty minutesほど先生と相対して相対そうたいして keep company withいると心持ち心持こころもち feeling; mood悠揚悠揚ゆうよう calm; composedになる。女の一人一人ひとり one (person)や二人どうなってもかまわないと思う。じつ truthをいうと、三四郎が今夜今夜こんや this evening出かけてきたのは七分方七分方しちぶがた for the most part; by and large (lit: seven tenths)この意味である。

訪問訪問ほうもん visit; call理由理由りゆ reason第三第三だいさん third (one)はだいぶ矛盾矛盾むじゅん contradiction; inconsistencyしている。自分自分じぶん oneself美禰子美禰子みねこ Mineko (name)苦しんでくるしんで suffer; agonize (over)いる。美禰子のそばに野々宮野々宮ののみや Nonomiya (name)さんを置くく set; placeとなお苦しんでくる。その野々宮さんにもっとも近いちかい close; intimateものはこの先生先生せんせい professorである。だから先生のところ place来るる come (to)と、野々宮さんと美禰子との関係関係かんけい connection; relationshipおのずからおのずから naturally; as a matter of course明瞭明瞭めいりょう apparent; clearになってくるだろうと思うおもう think; imagine。これが明瞭になりさえすれば、自分の態度態度たいど manner; behavior判然判然はんぜん definitivelyきめることができる。そのくせ二人二人ふたり two (people)の事こと concerning ...をいまだかつて先生に聞いたいた asked; inquiredことがない。今夜今夜こんや this evening一つひとつ once聞いてみようかしらと、心を動かしたこころうごかした resolved (to do something)

「野々宮さんは下宿なすった下宿げしゅくなすった took up lodgingsそうですね」

「ええ、下宿したそうです」

うち houseをもったもの personが、また下宿をしたら不便不便ふべん awkward; inconvenientだろうと思いますが、野々宮さんはよく……」

「ええ、そんな事にはいっこう無頓着無頓着むとんじゃく indifferent; unconcernedなほうでね。あの服装服装ふくそう clothing; attire見てて look atもわかる。家庭的な家庭的かていてきな domestic; family-orientedひと personじゃない。その代りそのかわり on the other hand学問学問がくもん scholarship; researchにかけると非常に非常ひじょうに exceedingly神経質神経質しんけいしつ obsessive; meticulousだ」

「当分ああやっておいでのつもりなんでしょうか」

「わからない。また突然突然とつぜん suddenly家を持つつ have; ownかもしれない」

奥さんおくさん wifeでもお貰いになるもらいになる take; receiveお考えかんがえ idea; notionはないんでしょうか」

「あるかもしれない。いいのを周旋して周旋しゅうせんして introduce; recommendやりたまえ」

三四郎は苦笑い苦笑にがわらい forced smile; strained laughをして、よけいな事を言ったった said; broached (a subject)と思った。すると広田広田ひろた (Professor) Hirotaさんが、

きみ youはどうです」と聞いた。

わたし I; meは……」

「まだ早いはやい (too) soonですね。いま now; the presentから細君細君さいくん wifeを持っちゃたいへんだ」

くに country; one's native placeの者は勧めますすすめます recommend; suggestが」

「国のだれが」

はは motherです」

「おっかさんのいうとおり持つ inclinationになりますか」

「なかなかなりません」

広田広田ひろた (Professor) Hirotaさんはひげ mustacheした below; beneathから teeth出してして expose笑ったわらった laughed。わりあいにきれいな歯を持ってって haveいる。三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)はそのとき time; moment急にきゅうに suddenlyなつかしい心持ち心持こころもち sentimentがした。けれどもそのなつかしさは美禰子美禰子みねこ Mineko (name)離れてはなれて be distant fromいる。野々宮野々宮ののみや Nonomiya (name)を離れている。三四郎の眼前眼前がんぜん before one's eyes; immediate利害利害りがい gain or loss; interestには超絶した超絶ちょうぜつした transcendedなつかしさであった。三四郎はこれで、野々宮などのこと matters; affairs聞くく ask (about)のが恥ずかしいずかしい shameful; disgraceful feelingがしだして、質問質問しつもん questionsをやめてしまった。すると広田先生がまた話しだしたはなしだした spoke。――

「おっかさんのいうことはなるべく聞いてあげるがよい。近ごろちかごろ recent times青年青年せいねん youth我々我々われわれ we; us時代時代じだい age; (time) periodの青年と違ってちがって different (from)自我自我じが self; ego意識意識いしき consciousness; awareness強すぎてつよすぎて too strongいけない。我々の書生書生しょせい studentをしているころには、する事なす事一としてすることなすことひとつとして in everything (we) didひと others; other peopleを離れたことはなかった。すべてが、きみ sovereign; rulerとか、おや parentsとか、くに region; countryとか、社会社会しゃかい society; communityとか、みんな他本位本位ほんい standard; principle; basisであった。それを一口に一口ひとくちに in a word; in shortいうと教育教育きょういく education受けるける receiveものがことごとくことごとく one and all偽善家偽善家ぎぜんか hypocriteであった。その偽善偽善ぎぜん hypocrisyが社会の変化変化へんか change; transformationで、とうとう張り通せなくなったとおせなくなった became unsustainable結果結果けっか (as a) result (of)漸々漸々ぜんぜん gradually; by degrees自己自己じこ self; oneself本位を思想思想しそう thought; ideology行為行為こうい acts; conductうえ top of輸入する輸入ゆにゅうする import; introduceと、今度今度こんど this time我意識我意識がいしき self awareness非常に非常ひじょうに exceedingly発展しすぎて発展はってんしすぎて overdevelopしまった。むかし former timesの偽善家に対してたいして in contrast toいま now; the present露悪家露悪家ろあくか raw agent; non-pretender; self-professed deviantばかりの状態状態じょうたい circumstances; situationにある。――きみ you (used here as form of address)、露悪家という言葉言葉ことば word; term; expressionを聞いたことがありますか」

「いいえ」

「今ぼくが即席に即席そくせきに on the spot; off the cuff作ったつくった created; came up with言葉だ。君もその露悪家の一人一人いちにん one member――だかどうだか、まあたぶんそうだろう。与次郎与次郎よじろう Yojirō (name)のごときにいたるとその最たるさいたる quintessential; conspicuousものだ。あの君の知ってるってる be acquainted with里見里見さとみ Satomi (Mineko's family name)というおんな young ladyがあるでしょう。あれも一種一種いっしゅ one type (of)の露悪家で、それから野々宮のいもうと younger sisterね、あれはまた、あれなりに露悪家だから面白い面白おもしろい interesting; intriguing。昔は殿様殿様とのさま feudal lord親父親父おやじ one's father; one's bossだけが露悪家ですんでいたが、今日今日こんにち today; the presentでは各自各自かくじ each individual同等同等どうとう equal権利権利けんり rights; privilegeで露悪家になりたがる。もっとも悪いわるい bad; unfavorable事でもなんでもない。臭いくさい smelly; stinkingもののふた lidをとれば肥桶肥桶こえたご night-soil bucket; manure bucketで、見事な見事みごとな splendid; magnificent形式形式けいしき form; appearanceをはぐとたいていは露悪露悪ろあく exposing the ugly sideになるのは知れ切ってって is common knowledge; is widely knownいる。形式だけ見事だって面倒面倒めんどう trouble; botherなばかりだから、みんな節約して節約せつやくして save (effort); economize木地木地きじ unfinished woodだけで用を足してようして accomplish a taskいる。はなはだ痛快痛快つうかい thrilling; exhilaratingである。天醜爛漫天醜てんしゅう爛漫らんまん candid ugliness (word play on 天真てんしん爛漫らんまん = simplicity; innocence)としている。ところがこの爛漫爛漫らんまん full bloom; full glory degree; extent越すす exceedと、露悪家同志同志どうし comrades; kindred soulsお互いにたがいに mutually; with respect to each other不便不便ふべん incommodiousness感じてかんじて feel; perceiveくる。その不便がだんだん高じてこうじて heighten; intensify極端極端きょくたん extreme達したたっした reached; progressed to利他主義利他りた主義しゅぎ altruismがまた復活する復活ふっかつする be revived; return。それがまた形式に流れてながれて tend toward腐敗する腐敗ふはいする be corrupted; become rottenとまた利己主義利己りこ主義しゅぎ egoism帰参する帰参きさんする revert to。つまり際限際限さいげん limits; boundsはない。我々はそういうふうにして暮らしてらして live; pass one's daysゆくものと思えばおもえば think of; consider (as)さしつかえない。そうしてゆくうちに進歩する進歩しんぽする progress; advance英国英国えいこく England見たまえたまえ take a look as。この両主義りょう主義しゅぎ both principlesが昔からうまく平衡平衡へいこう balance; equilibriumがとれている。だから動かないうごかない doesn't move; goes nowhere。だから進歩しない。イブセンイブセン Henrik Johan Ibsen (Norwegian Playwright, 1828 – 1906, whose works include A Doll's House)出なければなければ does not appear; does not ariseニイチェニイチェ Friedrich Wilhelm Nietzsche (German philosopher; 1844–1900)も出ない。気の毒などくな unfortunate; pitiableものだ。自分自分じぶん oneselfだけは得意得意とくい proud; self-satisfiedのようだが、はたから見れば堅くなってかたくなって become stiff; become rigid化石化石せきか fossilization; petrifactionしかかっている。……」

三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)内心内心ないしん inwardly; to oneself感心した感心かんしんした felt admiration; was impressedようなものの、はなし conversationそれてそれて wander; go astrayとんだとんだ unexpectedところへ曲がってがって turn (toward)、曲がりなりに太くなってゆくふとくなってゆく gain breadthので、少しすこし a little; a bit驚いておどろいて be surprisedいた。すると広田広田ひろた (Professor) Hirotaさんもようやく気がついたがついた took notice; realized

「いったいなに whatを話していたのかな」

結婚結婚けっこん marriageの事こと concerning ...です」

「結婚?」

「ええ、わたし I; meはは mother言うう advise; recommendことを聞いていて listen to……」

「うん、そうそう。なるべくおっかさんの言うことを聞かなければいけない」と言ってにこにこしている。まるで子供子供こども childに対するたいする dealing with ...ようである。三四郎はべつに腹も立たなかったはらたなかった was not offended

我々我々われわれ we; us露悪家露悪家ろあくか self-professed deviantsなのは、いいですが、先生先生せんせい professor時代時代じだい times; eraひと people偽善家偽善家ぎぜんか hypocritesなのは、どういう意味意味いみ meaningですか」

きみ you (used here as form of address)、人から親切にされて親切しんせつにされて be treated kindly愉快愉快ゆかい pleasant; agreeableですか」

「ええ、まあ愉快です」

「きっと? ぼくはそうでない、たいへん親切にされて不愉快不愉快ふゆかい discomfort; discontentな事がある」

「どんな場合場合ばあい situation; circumstancesですか」

形式形式けいしき form; appearanceだけは親切にかなってかなって meet the criteria ofいる。しかし親切自身自身じしん itself目的目的もくてき objectiveでない場合」

「そんな場合があるでしょうか」

「君、元日元日がんじつ New Year's Dayおめでとうおめでとう (wishing you) happiness; successと言われて、じっさいおめでたい feelingがしますか」

「そりゃ……」

「しないだろう。それと同じくそれとおなじく in the same wayはら bellyをかかえて笑うわらう laughだの、ころげかえって笑うだのというやつに、一人一人ひとり one (person)だってじっさい笑ってるやつはない。親切もそのとおり。お役目に役目やくめに perfunctorily; from a mere sense of duty親切をしてくれるのがある。ぼくが学校学校がっこう school教師教師きょうし instructorをしているようなものでね。実際の実際じっさいの actual目的目的もくてき goal; objective衣食衣食いしょく food and clothing; one's livelihoodにあるんだから、生徒生徒せいと studentsから見たらたら look at; seeさだめてさだめて surely; no doubt不愉快だろう。これに反してこれにはんして conversely; on the other hand与次郎与次郎よじろう Yojirō (name)のごときは露悪党露悪党ろあくとう the deviant factions領袖領袖りょうしゅう leader; chiefだけに、たびたびぼくに迷惑をかけて迷惑めいわくをかけて annoy; cause trouble for始末におえぬ始末しまつにおえぬ unmanageable; incorrigibleいたずら者いたずらもの troublemakerだが、悪気悪気にくげ ill will; evil intentがない。可愛らしい可愛かわいらしい charming; endearingところがある。ちょうどアメリカ人アメリカじん Americans金銭金銭きんせん moneyに対して露骨な露骨ろこつな frank; openのと一般一般いっぱん generally the same (as)だ。それ自身が目的である。それ自身が目的である行為行為こうい doings; conductほど正直な正直しょうじきな honest; candidものはなくって、正直ほど厭味のない厭味いやみのない unaffected; pleasingものはないんだから、万事万事ばんじ all things正直に出られないられない cannot approach; cannot engageような我々時代我々われわれ時代じだい our generation; my generationの、こむずかしい教育教育きょういく education受けたけた receivedものはみんな気障気障きざ affected; pretentiousだ」

ここまでの理屈理屈りくつ logic; reasoning; argument三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)にもわかっている。けれども三四郎にとって、目下目下もっか at present痛切な痛切つうせつな acute; poignant問題問題もんだい problem; difficultyは、だいたいにわたっての理屈ではない。実際に実際じっさいに actually; in fact交渉交渉こうしょう connection; interactionのある、ある格段な格段かくだんな particular; special相手相手あいて companion; other partyが、正直正直しょうじき forthright; sincereか正直でないかを知りたいりたい want to know; need to knowのである。三四郎は腹の中ではらなかで inwardly; to oneself美禰子美禰子みねこ Mineko (name)自分自分じぶん oneselfに対するたいする with respect to; in relation to素振素振そぶり behavior; bearingもう一ぺんもういっぺん one more time考えてかんがえて consider; think overみた。ところが気障気障きざ affected; pretentiousか気障でないかほとんど判断判断はんだん judgment; discernmentができない。三四郎は自分の感受性感受性かんじゅせい sensibility; receptivity人一倍人一倍ひといちばい more than others; especially鈍いにぶい dull; obtuseのではなかろうかと疑いだしたうたがいだした began to question (whether ...)

そのとき time; moment広田広田ひろた (Professor) Hirotaさんは急にきゅうに suddenlyうんと言ってって said, voiced何かなにか something思い出したおもした remembered; recalledようである。

「うん、まだある。この二十世紀二十世紀にじゅっせいき twentieth centuryになってから妙なみょうな odd; curiousのが流行る流行はやる be prevalent; become common利他本位利他りた本位ほんい altruistic principles内容内容ないよう matter; substance利己本位利己りこ本位ほんい egoistic principlesみたすみたす satisfy; fulfillというむずかしいやり口やりくち method; meansなんだが、きみ you (used here a form of address)そんなひと person出会った出会であった encounteredですか」

「どんなのです」

「ほかの言葉言葉ことば words; expressionでいうと、偽善偽善ぎぜん hypocrisy行うおこなう carry out露悪露悪ろあく exposing the ugly side; open deviancyをもってする。まだわからないだろうな。ちと説明し方説明せつめいかた way of explaining悪いわるい no good; inadequateようだ。――むかし earlier times偽善家偽善家ぎぜんか hypocriteはね、なんでも人によく思われたいおもわれたい be regarded; be thought of (as)先に立つさきつ first and foremostんでしょう。ところがその反対反対はんたい opposite; converseで、人の感触感触かんしょく sensibility害するがいする disturb; offendために、わざわざ偽善をやる。よこ side; sidewaysから見てて look at; viewたて up and downから見ても、相手には偽善としか思われないようにしむけてゆく。相手はむろんいやな心持ち心持こころもち feeling; impressionがする。そこで本人本人ほんにん the person in question目的目的もくてき objective達せられるたっせられる be achieved。偽善を偽善そのままで先方先方せんぽう the other party通用させよう通用てきようさせよう apply; put to use (on)とする正直なところが露悪家露悪家ろあくか self-professed deviant特色特色とくしょく idiosyncrasyで、しかも表面上表面上ひょうめんじょう on the surface行為言語行為こうい言語げんご words and deedsはあくまでもぜん virtuous; benevolentに違いないちがいない are without doubt ...から、――そら、二位一体二位にい一体いったい two in one (play on 三位さんい一体いったい = Trinity)というようなことになる。この方法方法ほうほう method巧妙に巧妙こうみょうに cleverly; deftly用いるもちいる use; applyもの persons近来近来きんらい recently; of lateだいぶふえてきたようだ。きわめて神経神経しんけい nerves; sensitivity鋭敏鋭敏えいびん sharp; keenになった文明文明ぶんめい cultured人種人種じんしゅ type (of person)が、もっとも優美に優美ゆうびに elegantly; with grace露悪家になろうとすると、これがいちばんいい方法になる。血を出さなければさなければ without spilling blood人が殺せないころせない can't killというのはずいぶん野蛮な野蛮やばんな barbaricはなし talkだからな君、だんだん流行らなくなる」

広田先生広田ひろた先生せんせい Professor Hirota話し方はなかた manner of speakingは、ちょうど案内者案内者あんないしゃ guide古戦場古戦場こせんじょう ancient battlefield説明する説明せつめいする explainようなもので、実際実際じっさい reality遠くからとおくから from a distanceながめた地位地位ちい positionにみずからを置いていて set; placeいる。それがすこぶる楽天の楽天らくてんの sanguineおもむき tenor; tendency towardがある。あたかも教場教場きょうじょう classroom講義講義こうぎ lecture聞くく hear; listen to一般一般いっぱん generally the same (as)かん feeling; impression起こさせるこさせる give rise to。しかし三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)にはこたえた。念頭念頭ねんとう one's mind美禰子美禰子みねこ Mineko (name)というおんな young ladyがあって、この理論理論りろん theoryをすぐ適用できる適用てきようできる can applyからである。三四郎はあたま head; mindなか insideにこの標準標準ひょうじゅん standardを置いて、美禰子のすべてを測ってはかって measure; assessみた。しかし測り切れないはかれない cannot manage to assessところがたいへんある。先生先生せんせい professor口を閉じてくちじて stop speaking例のごとくれいのごとく as usual; as is one's habitはな nose; nostrilsから哲学の哲学てつがくの philosophicalけむり smoke吐き始めたはじめた began to expel

ところへ玄関玄関げんかん entrance hall; entryway足音足音あしおと sound of footstepsがした。案内も乞わずにわずに without soliciting; without requesting廊下伝い廊下伝ろうかづたい along the corridorはいって来るはいってる come in; enter。たちまち与次郎与次郎よじろう Yojirō (name)書斎書斎しょさい study入口入口いりぐち entrance; doorwayにすわって、

原口原口はらぐち Haraguchi (name)さんがおいでになりました」と言うう said; announcedただ今帰りましたただいまかえりました I'm homeという挨拶挨拶あいさつ greeting; salutation省いてはぶいて dispense withいる。わざと省いたのかもしれない。三四郎にはぞんざいなぞんざいな rough; slapdash目礼目礼もくれい nod (in greeting); acknowledgementをしたばかりですぐに出ていったていった went out; left

与次郎と敷居敷居しきい thresholdぎわですれ違ってすれちがって pass (in opposite directions); brush by、原口さんがはいって来た。原口さんはフランス式フランスしき French (style)ひげ mustacheをはやして、頭を五分刈五分刈ごぶがり close-cropped (haircut)にした、脂肪の多い脂肪しぼうおおい corpulent; portlyおとこ manである。野々宮野々宮ののみや Nonomiya (name)さんよりとし years; age二つ三つふたみっつ two or threeうえ older (in age)見えるえる appear (to be)。広田先生よりずっときれいな和服和服わふく Japanese clothes; Japanese-style dress着てて wearいる。

「やあ、しばらく。いま now; the presentまで佐々木佐々木ささき Sasaki (Yojirō's family name)うち one's homeへ来ていてね。いっしょにめし dinner食ったりったり eat何かなにか somethingして――それから、とうとう引っ張り出されてされて be dragged along……」とだいぶ楽天的な楽天的らくてんてきな cheerful; happy-go-lucky口調口調くちょう tone (of voice)である。そばにいるとしぜん陽気陽気ようき in fine spirits; upliftedになるようなこえ voice出すす put forth。三四郎は原口という名前名前なまえ nameを聞いたとき time; momentから、おおかたあの画工画工えかき painter; artistだろうと思っておもって thought; assumedいた。それにしても与次郎は交際家交際家こうさいか society manだ。たいていな先輩先輩せんぱい superior; alumnusとはみんな知合い知合しりあい acquaintanceになっているからえらいと感心して感心かんしんして be impressed堅くなったかたくなった showed reserve。三四郎は年長者年長者ねんちょうしゃ senior; elderまえ front of出るる appearと堅くなる。九州流九州流きゅうしゅうりゅう Kyūshū style教育教育きょういく education; upbringing受けたけた received結果結果けっか consequence ofだと自分自分じぶん oneselfでは解釈して解釈かいしゃくして interpret; construeいる。

やがて主人主人しゅじん master (of the house)原口原口はらぐち Haraguchi (name)紹介紹介しょうかい introductionしてくれる。三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)丁寧に丁寧ていねいに politely; respectfully頭を下げたあたまげた bowed向こうこう the other party軽くかるく lightly会釈した会釈えしゃくした nodded。三四郎はそれから黙ってだまって remain silent二人二人ふたり two (people)談話談話だんわ talk; conversation承ってうけたまわって hear; listen toいた。

原口さんはまず用談用談ようだん business matterから片づけるかたづける take care of言ってって say; state近いうちちかいうち shortly; soonかい gathering; partyをするから出てくれてくれ please come; please take part頼んでたのんで requestいる。会員会員かいいん members名のつくのつく be renownedほどのりっぱなものはこしらえないつもりだが、通知通知つうち notice; invite出すす send out (to)ものは、文学者文学者ぶんがくしゃ writersとか芸術家芸術家げいじゅつか artistsとか、大学大学だいがく university教授教授きょうじゅ professorsとか、わずかな人数人数にんすう number of peopleにかぎっておくからさしつかえはない。しかもたいてい知り合いい acquaintanceのあいだだから、形式形式けいしき formalityはまったく不必要不必要ふひつよう unnecessaryである。目的目的もくてき objective; purposeはただおおぜい寄ってって come together晩餐晩餐ばんさん dinner食うう eat。それから文芸文芸ぶんげい art and literatureじょう concerning ...有益な有益ゆうえきな beneficial; worthwhile談話を交換する交換こうかんする exchange。そんなものである。

広田先生広田ひろた先生せんせい Professor Hirota一口一口ひとくち in a word; simply出ようよう (I'll) attend」と言った。用事用事ようじ businessはそれで済んでんで be concludedしまった。用事はそれで済んでしまったが、それからあと afterの原口さんと広田先生の会話会話かいわ conversationがすこぶるおもしろかった。

広田先生が「きみ you近ごろちかごろ recentlyなに whatをしているかね」と原口さんに聞くく ask; inquireと、原口さんがこんな事こんなこと as followsを言う。

「やっぱり一中節一中節いっちゅうぶし itchūbushi (style of doleful narrative singing, often accompanied by shamisen)稽古して稽古けいこして practiceいる。もう五ついつつ five (things)ほど上げたげた (chalked) up; mastered花紅葉吉原八景はな紅葉もみじ吉原よしわら八景はっけい 'Flowers and Fall Colors - Eight Yoshiwara Scenes'だの、小稲半兵衛唐崎心中小稲こいな半兵衛はんべえ唐崎からさき心中しんじゅう 'Lovers Suicide of Koina and Hanbei at Karasaki'だのってなかなかおもしろいのがあるよ。君も少しすこし a little; a bitやってみないか。もっともありゃ、あまり大きなおおきな big; loud (voice)こえ voiceを出しちゃいけないんだってね。本来本来ほんらい originally; historically四畳半四畳半よじょうはん four and a half mat (about 7 sq meters; about 80 sq ft)座敷座敷ざしき parlorにかぎったものだそうだ。ところがぼくがこのとおり大きな声だろう。それに節回し節回ふしまわし melody; intonationがあれでなかなか込み入ってって intricate; complicatedいるんで、どうしてもうまくいかん。こんだこんだ next time; another time (= 今度こんど)一つひとつ one (thing)やるから聞いてくれたまえ」

広田先生広田ひろた先生せんせい Professor Hirota笑ってわらって smile; grinいた。すると原口原口はらぐち Haraguchi (name)さんは続きつづき continuation; follow-onをこういうふうに述べたべた stated; mentioned

「それでもぼくはまだいいんだが、里見里見さとみ Satomi (Mineko's family name)恭助恭助きょうすけ Kyōsuke (name of Mineko's older brother)ときたら、まるで形無し形無かたなし in ruins; brought to noughtだからね。どういうものかしらん。いもうと younger sisterはあんなに器用器用きよう dextrous; cleverだのに。このあいだはとうとう降参して降参こうさんして call it quits; throw in the towel、もううた songs; singingはやめる、その代りそのかわり instead何かなにか something楽器楽器がっき (musical) instrument習おうならおう learn言いだしたいだした suggested; indicatedところが、馬鹿囃子馬鹿ばか囃子ばやし festival music; parade musicをお習いなさらないかと勧めたすすめた recommendedもの person; individualがあってね。大笑い大笑おおわらい hearty laughさ」

「そりゃ本当本当ほんとう truthかい」

「本当とも。現にげんに actually; in fact里見がぼくに、きみ youがやるならやってもいいと言ったくらいだもの。あれで馬鹿囃子には八通り八通やとおり eight types; eight styles囃し方はやかた way of playingがあるんだそうだ」

「君、やっちゃどうだ。あれなら普通の普通ふつうの ordinary人間人間にんげん personにでもできそうだ」

「いや馬鹿囃子はいやだ。それよりかつづみ tsuzumi (hourglass drum whose tension can be adjusted while playing)打ってって strike; beat; play (drum)みたくってね。なぜだか鼓のおと sound聞いていて listen toいると、まったく二十世紀二十世紀にじゅっせき twentieth century feeling; impressionがしなくなるからいい。どうしていま now; the present generation; ageにああ間が抜けてけて unsophisticated; guilelessいられるだろうと思うおもう consider; ponderと、それだけでたいへんなくすり medicineになる。いくらぼくがのん気のん easygoing; carefreeでも、鼓の音のような drawing; paintingはとてもかけないから」

「かこうともしないんじゃないか」

「かけないんだもの。今の東京東京とうきょう Tōkyōにいる者に悠揚な悠揚ゆうような calm; composed; serene絵ができるものか。もっとも絵にもかぎるまいけれども。――絵といえば、このあいだ大学大学だいがく university運動会運動会うんどうかい athletic competition; field day行ってって go (to)、里見と野々宮野々宮ののみや Nonomiya (name)さんの妹のカリカチュアーカリカチュアー caricatureをかいてやろうと思ったら、とうとう逃げられてげられて be evaded; let get awayしまった。こんだこんだ next time; another time (= 今度こんど)一つひとつ one (thing); once本当の肖像画肖像画しょうぞうが portraitをかいて展覧会展覧会てんらんかい show; exhibitionにでも出そうそう put out; displayかと思って」

「だれの」

里見里見さとみ Satomi (Mineko's family name)いもうと younger sisterの。どうも普通の普通ふつうの ordinary; typical日本日本にほん Japanおんな womanかお face歌麿歌麿式うたまろ Kitagawa Utamaro (woodblock print artist in ukiyo-e genre; 1753-1806)しき style何かなにか something; some such thingばかりで、西洋西洋せいよう West; Occident画布画布カンバス (painting) canvasにはうつりが悪くってわるくって no good; unsatisfactoryいけないが、あの女や野々宮野々宮ののみや Nonomiya (name)さんはいい。両方ともに両方りょうほうともに both (of them) paintingになる。あの女が団扇団扇うちわ (round) fanをかざして、木立木立こだち grove of trees; stand of treesをうしろに、明るいあかるい light; brightほう direction向いていて turn toward; faceいるところを等身等身ライフサイズ life size写してうつして depict; reproduceみようかしらと思っておもって think (to do)いる。西洋のおうぎ folding fan厭味厭味いやみ in bad taste; garishでいけないが、日本の団扇は新しくってあたらしくって fresh; novelおもしろいだろう。とにかくはやくしないとだめだ。いまによめ brideにでもいかれようものなら、そうこっちの自由自由じゆ liberty; as one wishesにいかなくなるかもしれないから」

三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)多大な多大ただいな a great deal of興味興味きょうみ interestをもって原口原口はらぐち Haraguchi (name)はなし talk聞いていて listen toいた。ことに美禰子美禰子みねこ Mineko (name)が団扇をかざしている構図構図こうず composition非常な非常ひじょうな unusual; extraordinary感動感動かんどう emotion; passionを三四郎に与えたあたえた aroused; evoked不思議の不思議ふしぎの mysterious; mystical因縁因縁いんえん bond; connection二人二人ふたり two (people)あいだ between存在して存在そんざいして existいるのではないかと思うほどであった。すると広田先生広田ひろた先生せんせい Professor Hirotaが、「そんな image; view; sceneはそうおもしろいこともないじゃないか」と無遠慮な無遠慮むえんりょな straight; bluntこと matter; thing言いだしたいだした voiced

「でも当人当人とうにん the person in question希望希望きぼう wish; preferenceなんだもの。団扇をかざしているところは、どうでしょうと言うから、すこぶるみょう superb; excellentでしょうと言って承知した承知しょうちした agreedのさ。なに、悪い図どりどり plan; layoutではないよ。かきようにもよるが」

「あんまり美しくうつくしく attractivelyかくと、結婚結婚けっこん marriage申込み申込もうしこみ overture; proposal多くおおく many; numerousなって困るこまる be in trouble; be in a bindぜ」

「ハハハじゃちゅう medium; averageぐらいにかいておこう。結婚といえば、あの女も、もう嫁にゆく時期時期じき time; seasonだね。どうだろう、どこかいいくち opening; prospectはないだろうか。里見にも頼まれてたのまれて be requestedいるんだが」

きみ youもらっちゃどうだ」

「ぼくか。ぼくでよければもらうが、どうもあの女には信用信用しんよう reputation; credibilityがなくってね」

「なぜ」

原口原口はらぐち Haraguchiさんは洋行する洋行ようこうする overseas travel; travel abroadとき time; occasionにはたいへんな気込み気込きごみ enthusiasm; zealで、わざわざ鰹節鰹節かつぶし dried bonito (usually 鰹節かつおぶし)買い込んでんで buy up; stock up on、これでパリーの下宿下宿げしゅく lodgings籠城する籠城ろうじょうする hole up; confine oneselfなんて大いばりおおいばり bluster; braggingだったが、パリーへ着くく arriveやいなや、たちまち豹変した豹変ひょうへんした changed one's spots; changed one's tuneそうですねって笑うわらう tease; banterんだから始末がわるい始末しまつがわるい hard to handle; hard to deal with。おおかたあにき older brotherからでも聞いたいた heardんだろう」

「あのおんな young lady自分自分じぶん oneself行きたいきたい want to goところ placeでなくっちゃ行きっこない。勧めたってすすめたって recommend; proposeだめだ。好きなきな favored; lovedひと personがあるまで独身独身どくしん single; unmarried置くく leave beがいい」

「まったく西洋流西洋流せいようりゅう Western style; like in the Occidentだね。もっともこれからの女はみんなそうなるんだから、それもよかろう」

それから二人二人ふたり two (people)あいだ between長いながい lengthy絵画絵画かいが paintingだん discussionがあった。三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)広田先生広田ひろた先生せんせい Professor Hirota西洋西洋せいよう the West; the Occident画工画工えかき painter; artist namesをたくさん知ってって know of; be familiar withいるのに驚いたおどろいた was surprised帰るかえる return; head homeとき勝手口勝手口かってぐち kitchen door; service entrance下駄下駄げた (wooden) clogs捜してさがして look forいると、先生が梯子段梯子段はしごだん staircaseした bottom来てて come (to)「おい佐々木佐々木ささき Sasaki (Yojirō's family name)ちょっと降りて来いりてい come down」と言ってって summon; callいた。

戸外戸外そと outside寒いさむい coldそら sky; heavens高くたかく to the heights晴れてれて be clear、どこからつゆ dew降るる fall; descend (precipitation)かと思うおもう wonderくらいである。 hands着物着物きもの kimonoにさわると、さわったところ place; areaだけがひやりとする。人通り人通ひとどおり pedestrian traffic少ないすくない few; light (traffic)小路小路こうじ lanes; alleyways二、三度三度さんど several times折れたりれたり turn曲がったりがったり round (a curve or corner)してゆくうちに、突然突然とつぜん suddenly辻占屋辻占屋つじうらや sidewalk fortune-teller会ったった met; encountered大きなおおきな large丸いまるい round提灯提灯ちょうちん (paper-covered) lanternをつけて、こし waistから下をまっ赤まっ vivid redにしている。三四郎は辻占辻占つじうら fortuneが買ってみたくなった。しかしあえて買わなかった。杉垣杉垣すぎがき cedar hedge羽織羽織はおり haori (Japanese formal coat)かた shoulder触れるれる touch; brush againstほどに、赤い提灯をよけて通したとおした let pass by。しばらくして、暗いくらい dark; dimly-lit所をはすにはすに diagonally; at an angle抜けるける cut throughと、追分追分おいわけ Oiwake (place name)通りとおり avenue; broad street出たた emerged (onto)かど corner蕎麦屋蕎麦屋そばや soba shopがある。三四郎は今度今度こんど this time思い切っておもって resolutely; decisively暖簾暖簾のれん shop curtainくぐったくぐった ducked through少しすこし a little; a bitさけ saké飲むむ drinkためである。

高等学校高等学校こうとうがっこう high school (equivalent to modern-day college)生徒生徒せいと students三人三人さんにん three peopleいる。近ごろちかごろ recently学校学校がっこう school先生先生せんせい professorsひる noon; lunch弁当弁当べんとう bento; box lunch蕎麦蕎麦そば soba (buckwheat noodles)食うう eatもの persons多くおおく many; numerousなったと話してはなして talk (of); discussいる。蕎麦屋蕎麦屋そばや soba shop担夫担夫かつぎ carrier; delivery man午砲午砲どん midday gun; noon gun鳴るる ring out; soundと、蒸籠蒸籠せいろ wicker tray (for serving soba)種ものたねもの soba dish; soba with toppingsやま mountainのようにかた shoulder載せてせて place on; load onto急いでいそいで hurriedly; with haste校門校門こうもん school gateをはいってくる。ここの蕎麦屋はあれでだいぶもうかるだろうと話している。なんとかいう先生はなつ summerでも釜揚饂飩釜揚かまあげ饂飩うどん pot-boiled udon (noodles)を食うが、どういうものだろうと言ってって comment; remarkいる。おおかた stomach悪いわるい in poor condition; unwellんだろうと言っている。そのほかいろいろのこと things; mattersを言っている。教師教師きょうし instructor namesはたいてい呼び棄てにするてにする dispense with first name or title。なかに一人一人ひとり one (person)広田広田ひろた Hirota (name)さんと言った者がある。それからなぜ広田さんは独身独身どくしん single; unmarriedでいるかという議論議論ぎろん discussion始めたはじめた started; began。広田さんのところ place; home行くく go (to); visitおんな woman裸体画裸体画らたいが nude paintingがかけてあるから、女がきらいなんじゃなかろうというせつ view; opinionである。もっともその裸体画は西洋人西洋人せいようじん Westernerだからあてにならない。日本日本にほん Japanの女はきらいかもしれないという説である。いや失恋失恋しつれん unrequited love結果結果けっか result; consequence (of)に違いないちがいない no doubt ...という説も出たた emerged; came forth。失恋してあんな変人変人へんじん oddball; eccentricになったのかと質問した質問しつもんした questioned者もあった。しかし若いわかい young美人美人びじん beautiful woman; belle出入する出入しゅつにゅうする frequent; visit; come and goといううわさ rumor; talkがあるが本当本当ほんとう truthかと聞きただしたきただした asked (in order to ascertain)者もあった。

だんだん聞いているうちに、要するにようするに in short; in sum広田先生広田ひろた先生せんせい Professor Hirota偉いえらい distinguished; remarkableひと person; manだということになった。なぜ偉いか三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)にもよくわからないが、とにかくこの三人は三人ながら与次郎与次郎よじろう Yojirō (name)書いたいた wrote; composed偉大なる偉大いだいなる great; mighty暗闇暗闇くらやみ darkness; void」を読んでんで readいる。現にげんに actually; in factあれを読んでから、急にきゅうに suddenly広田さんが好きき favorably-regardedになったと言っている。時々時々ときどき occasionallyは「偉大なる暗闇」のなかにある警句警句けいく witticismなどを引用して引用いんようして quote; refer toくる。そうしてさかんに与次郎の文章文章ぶんしょう composition; writing (style)をほめている。零余子零余子れいよし Reiyoshi (propagule; one of Yojirō's pen names)とはだれだろうと不思議がって不思議ふしぎがって be curious; wonder (about)いる。なにしろよほどよく広田さんを知ってって know; be familiar withいるおとこ fellowに相違ない相違そういない without doubt; for certainということには三人とも同意した同意どういした agreed

三四郎はそばにいて、なるほどと感心した感心かんしんした was impressed。与次郎が「偉大なる暗闇」を書くはずである。文芸時評文芸時評ぶんげいじひょう Literary Review売れ高だか sales (figures)少ないすくない scant; sparseのは当人当人とうにん the person in question自白した自白じはくした confessed; acknowledgedとおりであるのに、麗々しく麗々れいれいしく conspicuously彼のかれの hisいわゆる大論文大論文だいろんぶん master work; treatise掲げてかかげて publish; tout得意がる得意とくいがる swell with prideのは、虚栄心虚栄心きょえいしん vanity満足満足まんぞく satisfaction以外に以外いがいに outside of; more thanなんのためになるだろうと疑ってうたがって doubt; questionいたが、これでみると活版活版かっぱん print; printed word勢力勢力せいりょく potency; influenceはやはりたいしたものである。与次郎の主張する主張しゅちょうする claim; assertとおり、一言一言いちごん a single wordでも半句半句はんく a simple phraseでも言わないほうがそん loss; missed opportunityになる。人の評判評判ひょうばん reputation; standingはこんなところからあがり、またこんなところから落ちるちる fall; drop思うおもう think (of); considerと、筆を執るふでる write (lit: take up the brush)ものの責任責任せきにん responsibility恐ろしくおそろしく frightening; amazingなって、三四郎は蕎麦屋を出た。

下宿下宿げしゅく lodgings帰るかえる return (to)と、さけ sakéはもうさめてしまった。なんだかつまらなくっていけない。つくえ deskまえ front ofにすわって、ぼんやりしていると、下女下女げじょ maidservantした below; downstairsから湯沸湯沸ゆわかし kettle熱いあつい hot (hot) water入れてれて put into持ってきたってきた broughtついでに、封書封書ふうしょ (sealed) letter一通一通いっつう one (letter)置いていて leaveいった。またはは mother手紙手紙てがみ letter; correspondenceである。三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)はすぐ封を切ったふうった broke the seal。きょうは母の手跡手跡しゅせき handwriting見るる see; look atのがはなはだうれしい。

手紙はかなり長いながい lengthyものであったが、べつだんのこと content書いていて writeない。ことに三輪田三輪田みわた Miwata (family name)お光みつ Omitsu (name)さんについては一口一口ひとくち one word述べてべて mentionないので大いにおおいに greatlyありがたかった。けれどもなかに妙なみょうな odd; strange助言助言じょげん advice; suggestionがある。

お前まえ you子供子供こども childとき timeから度胸度胸どきょう courage; nervesがなくっていけない。度胸の悪いわるい poor; inferiorのはたいへんなそん disadvantageで、試験試験しけん exam; testの時なぞにはどのくらい困るこまる face difficultyかしれない。興津興津おきつ Okitsu (family name)たか Taka (name)さんは、あんなに学問学問がくもん scholarship; learningができて、中学校中学校ちゅうがっこう middle school先生先生せんせい teacherをしているが、検定検定けんてい qualification; certification試験を受けるける take (a test)たびに、からだがふるえて、うまく答案答案とうあん examination paperができないんで、気の毒どく unfortunate; pitiableなことにいまだに月給月給げっきゅう (monthly) salary上がらずにがらずに without an increaseいる。友だちともだち friend; acquaintance医学士医学士いがくし doctor of medicineとかに頼んでたのんで requestふるえのとまる丸薬丸薬がんやく pillをこしらえてもらって、試験前に飲んでんで swallow; take (medicine)出たた appeared (at); took part inがやっぱりふるえたそうである。お前のはぶるぶるふるえるほどでもないようだから、平生平生へいぜい usual; ordinaryから持薬持薬じやく regular medication; daily medicationに度胸のすわるくすり medicine東京東京とうきょう Tōkyō医者医者いしゃ doctorにこしらえてもらって飲んでみろ。直らないなおらない not get better; not improveこともなかろうというのである。

三四郎はばかばかしいと思ったおもった thought。けれどもばかばかしいうちに大いなる感謝感謝かんしゃ (reason for) gratitude見出した見出みいだした discovered。母は本当に本当ほんとうに truly親切な親切しんせつな kind; thoughtfulものであると、つくづくつくづく completely; thoroughly感心した感心かんしんした was impressed。そのばん evening; night一時一時いちじ one o'clockごろまでかかって長い返事返事へんじ replyを母にやった。そのなかには東京はあまりおもしろいところ placeではないという一句一句いっく (one) phrase; lineがあった。