Sanshirō - Chapter 6

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ベルが鳴って鳴なって rang、講師講師こうし lecturerは教室教室きょうしつ classroom; lecture hallから出て出でて leave; depart (from)いった。三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)はインキの着いた着ついた attached to; adhering toペンを振って振ふって shake、ノートを伏せよう伏ふせよう lay down; close (notebook)とした。すると隣隣となり next to; neighboring (place)にいた与次郎与次郎よじろう Yojirō (name)が声をかけた声こえをかけた call (to someone); address。

「おいちょっと借せ借かせ lend (usually 貸かせ)。書き落とした書かき落おとした didn't write; failed to take note ofところがある」

与次郎は三四郎のノートを引き寄せて引ひき寄よせて pulled near上上うえ aboveからのぞきこんだ。stray sheep という字がむやみに書いてある。

「なんだこれは」

「講義講義こうぎ lectureを筆記する筆記ひっきする take notes (of)のがいやになったから、いたずらを書いていた」

「そう不勉強不勉強ふべんきょう inattention to one's studiesではいかん。カントカント Immanuel Kant (German philosopher; 1724–1804)の超絶唯心論超絶ちょうぜつ唯心論ゆいしんろん transcendental idealismがバークレーバークレー George Berkeley (Anglo-Irish philosopher; 1685–1753)の超絶実在論超絶ちょうぜつ実在論じつざいろん transcendental realismにどうだとか言った言いった talked; commentedな」

「どうだとか言った」

「聞いて聞きいて listenいなかったのか」

「いいや」

「まるで stray sheep だ。しかたがない」

与次郎は自分の自分じぶんの one's ownノートをかかえて立ち上がった立たち上あがった stood up。机机つくえ desk; (study) tableの前前まえ front ofを離れながら離はなれながら separating (oneself from)、三四郎に、

「おいちょっと来い来こい come with; follow (me)」と言う。三四郎は与次郎について教室を出た。梯子段梯子段はしごだん stairsを降りて降おりて go down; descend、玄関玄関げんかん entryway前の草原草原くさはら grassy field; lawnへ来た来きた came (to)。大きな大おおきな big; large桜桜さくら cherry treeがある。二人二人ふたり two (people)はその下下した below; beneathにすわった。

ここは夏夏なつ summerの初め初はじめ beginningになると苜蓿苜蓿うまごやし cloverが一面に一面いちめんに all over (an entire surface)はえる。与次郎が入学入学にゅうがく academic admission願書願書がんしょ application formを持って持もって hold; carry事務事務じむ business; administrative affairsへ来た時時とき time; occasionに、この桜の下に二人の学生学生がくせい studentsが寝転んで寝転ねころんで lie down; be sprawled outいた。その一人一人ひとり one (person)が一人に向かって向むかって turn toward、口答試験口答こうとう試験しけん oral examinationを都々逸都々逸どどいつ popular love song / poetry style in the 7-7-7-5 syllable pattern - late Edo periodで負けて負まけて reduce (to)おいてくれると、いくらでも歌って歌うたって singみせるがなと言うと、一人が小声小声こごえ quiet voiceで、粋な粋すいな sophisticated; worldlyさばきさばき judgment; dealings (with)の博士博士はかせ professorの前で、恋恋こい love; romanceの試験がしてみたいと歌っていた。その時から与次郎はこの桜の木桜さくらの木き cherry treeの下が好きになって好すきになって be fond of、なにか事事こと businessがあると、三四郎をここへ引っ張り出す引ひっ張ぱり出だす bring out (to)。三四郎はその歴史歴史れきし history; storyを与次郎から聞いた時に、なるほど与次郎は俗謡俗謡ぞくよう popular song; folk songで pity's love を訳す訳やくす translate; interpretはずだと思った思おもった thought。きょうはしかし与次郎がことのほかまじめである。草の上にあぐらをかくやいなや、懐中懐中かいちゅう one's pocketから、文芸時評文芸ぶんげい時評じひょう Literary Reviewという雑誌雑誌ざっし magazine; periodicalを出して出だして took outあけたままの一ページ一いちページ one page; certain pageを逆に逆さかに upside down三四郎の方方ほう directionへ向けた。

「どうだ」と言う言いう asked。見る見みる look atと標題標題ひょうだい title; captionに大きな大おおきな large活字活字かつじ typefaceで「偉大なる偉大いだいなる great; mighty暗闇暗闇くらやみ darkness; void」とある。下下した belowには零余子零余子れいよし Reiyoshi (propagule; used here as pen name)と雅号雅号がごう alias; pen nameを使って使つかって useいる。偉大なる暗闇とは与次郎与次郎よじろう Yojirō (name)がいつでも広田先生広田ひろた先生せんせい Professor Hirotaを評する評ひょうする comment on語語ご words; phraseで、三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)も二、三度二に、三度さんど several times聞かされた聞きかされた had heardものである。しかし零余子はまったく知らん知しらん unknown名名な nameである。どうだと言われた時時とき time; momentに、三四郎は、返事返事へんじ answer; responseをする前提として前提ぜんていとして before ...; as a precondition to ...ひとまず与次郎の顔顔かお faceを見た。すると与次郎はなんにも言わずになんにも言いわずに without saying anythingその扁平な扁平へんぺいな flat顔を前前まえ forwardへ出して出だして push out; stick out、右右みぎ right (side)の人さし指人ひとさし指ゆび index fingerの先先さき tipで、自分の自分じぶんの one's own鼻の頭鼻はなの頭あたま tip of the noseを押えて押おさえて press on; hold downじっとしている。向こう向むこう a ways offに立って立たって standいた一人一人ひとり one (person)の学生学生がくせい studentが、この様子様子ようす situationを見てにやにや笑い出したにやにや笑わらい出だした broke into a grin。それに気がついた気きがついた took notice of与次郎はようやく指を鼻から放した放はなした removed。

「おれが書いた書かいた wroteんだ」と言う。三四郎はなるほどそうかと悟った悟さとった understood; comprehended。

「ぼくらが菊細工菊細工きくざいく chrysanthemum craftsを見にゆく時書いていたのは、これか」

「いや、ありゃ、たった二、三日二に、三日さんち a few daysまえじゃないか。そうはやく活版活版かっぱん (typeset) printingになってたまるものか。あれは来月来月らいげつ next month出る出でる come out; be released (in print)。これは、ずっと前に書いたものだ。何何なに whatを書いたものか標題でわかるだろう」

「広田先生の事の事こと concerning ...か」

「うん。こうして輿論輿論よろん popular opinion; popular sentimentを喚起して喚起かんきして stir up; arouseおいてね。そうして、先生が大学大学だいがく universityへはいれる下地下地したじ groundwork; foundationを作る作つくる prepare; create……」

「その雑誌雑誌ざっし magazine; periodicalはそんなに勢力勢力せいりょく power; influenceのある雑誌か」

三四郎は雑誌の名前名前なまえ nameさえ知らなかった。

「いや無勢力無勢力むせいりょく of little importだから、じつは困る困こまる be troubled」と与次郎は答えた答こたえた answered。三四郎は微笑わざるをえなかった微笑わらわざるをえなかった had to laugh。

「何部何部なんぶ how many (copies)ぐらい売れる売うれる be soldのか」

与次郎は何部売れるとも言わない。

「まあいいさ。書かんよりはましだ」と弁解して弁解べんかいして defend; justifyいる。

だんだん聞いてみると、与次郎は従来から従来じゅうらいから in the past; up to nowこの雑誌に関係関係かんけい connectionがあって、ひまさえあればほとんど毎号毎号まいごう every issue筆を執って筆ふでを執とって write (lit: take up the brush)いるが、その代りその代かわり on the other hand雅名雅名がめい nom de plumeも毎号変える変かえる changeから、二、三の二に、三さんの two or three; several同人同人どうじん comrades; kindred spiritsのほか、だれも知らないんだと言う。なるほどそうだろう。三四郎は今今いま now; at presentはじめて与次郎と文壇文壇ぶんだん literary circlesとの交渉交渉こうしょう connection; dealingsを聞いたくらいのものである。しかし与次郎がなんのために、遊戯遊戯いたずら sport; mischiefに等しいに等ひとしい bordering on; equivalent to匿名匿名とくめい assumed nameを用いて用もちいて make use of、彼の彼かれの hisいわゆる大論文大論文だいろんぶん grand treatise; master thesisをひそかに公けにしつつある公おおやけにしつつある be about to make publicか、そこが三四郎にはわからなかった。

いくぶんか小遣い取り小遣こづかい取とり side jobのつもりで、やっている仕事仕事しごと workかと不遠慮に不遠慮ぶえんりょに without reserve; directly尋ねた尋たずねた asked; inquired時時とき time; moment、与次郎与次郎よじろう Yojirō (name)は目を丸くした目めを丸まるくした look (at someone) wide-eyed; give an incredulous look。

「君君きみ youは九州九州きゅうしゅう Kyūshūのいなかから出た出でた arrived (from)ばかりだから、中央中央ちゅうおう center; capital cities文壇文壇ぶんだん literary circleの趨勢趨勢すうせい tendency; trendを知らない知しらない don't know; be unaware ofために、そんなのん気なのん気きな careless; thoughtlessことをいうのだろう。今今いま now; the presentの思想界思想界しそうかい world of thought; realm of ideasの中心中心ちゅうしん center; coreにいて、その動揺動揺どうよう agitation; excitementのはげしいありさまを目撃しながら目撃もくげきしながら witness; observe、考え考かんがえ thoughts; imaginationのある者者もの personが知らん顔知しらん顔かお feigned ignorance; indifferenceをしていられるものか。じっさい今日今日こんにち the present dayの文権文権ぶんけん power of the pen; literary prerogativeはまったく我々我々われわれ we; us青年青年せいねん young menの手手て handsにあるんだから、一言一言いちごん a single wordでも半句半句はんく a simple phraseでも進んで進すすんで step forward; take the initiative言える言いえる can say; can express (oneself)だけ言わなけりゃ損損そん loss; missed opportunityじゃないか。文壇は急転直下急転きゅうてん直下ちょっか suddenly and precipitatelyの勢い勢いきおい vigor; spiritでめざましいめざましい spectacular; remarkable革命革命かくめい revolution; upheavalを受けて受うけて undergoいる。すべてがことごとく動いて動うごいて be in motion; be in turmoil、新気運新気運しんきうん new trend; new directionに向かってに向むかって facing; heading towardゆくんだから、取り残されちゃ取とり残のこされちゃ being left behindたいへんだ。進んで自分自分じぶん oneselfからこの気運をこしらえ上げなくちゃこしらえ上あげなくちゃ must bring about; must create、生きてる生いきてる be alive甲斐甲斐かい worth; useはない。文学文学ぶんがく literature文学って安っぽい安やすっぽい cheap; triflingようにいうが、そりゃ大学大学だいがく universityなんかで聞く聞きく hear; be taught文学のことだ。新しい新あたらしい new我々のいわゆる文学は、人生人生じんせい human condition; the human experienceそのものの大反射大反射だいはんしゃ great reflectionだ。文学の新気運は日本日本にほん Japan全社会全社会ぜんしゃかい (through) all of societyの活動活動かつどう action; activityに影響影響えいきょう effect; impactしなければならない。また現に現げんに actually; in factしつつある。彼ら彼かれら they (society)が昼寝をして昼寝ひるねをして nap; doze夢を見て夢ゆめを見みて (have a) dreamいるまに、いつか影響しつつある。恐ろしい恐おそろしい fearsome; horrificものだ。……」

三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)は黙って黙だまって in silence; without speaking聞いていた。少し少すこし a little; a bitほらほら hot air; blusteringのような気気き feelingがする。しかしほらでも与次郎はなかなか熱心に熱心ねっしんに fervently; with passion吹いて吹ふいて blow (hot air)いる。すくなくとも当人当人とうにん the person in question; he himselfだけは至極至極しごく very much; extremelyまじめらしくみえる。三四郎はだいぶ動かされた。

「そういう精神精神せいしん spirit; intentionでやっているのか。では君は原稿料原稿料げんこうりょう payment for a manuscriptなんか、どうでもかまわんのだったな」

「いや、原稿料は取る取とる take; receiveよ。取れるだけ取る。しかし雑誌雑誌ざっし magazine; publicationが売れない売うれない doesn't sellからなかなかよこさない。どうかして、もう少し売れる工夫工夫くふう idea; schemeをしないといけない。何か何なにか something; some sort ofいい趣向趣向しゅこう thoughts; ideasはないだろうか」と今度今度こんど this timeは三四郎に相談をかけた相談そうだんをかけた engaged in consultation。話話はなし talk; topic of discussionが急に急きゅうに suddenly実際問題実際問題じっさいもんだい practical problemに落ちて落おちて fall; drop down toしまった。三四郎は妙な妙みょうな odd; strange心持ち心持こころもち feeling; impressionがする。与次郎は平気平気へいき composed; unconcernedである。ベルが激しく激はげしく violently; loudly鳴りだした鳴なりだした began to ring; rang out。

「ともかくこの雑誌を一部一部いちぶ one (copy)君にやるから読んで読よんで readみてくれ。偉大なる偉大いだいなる great; mighty暗闇暗闇くらやみ darkness; voidという題題だい titleがおもしろいだろう。この題なら人人ひと peopleが驚く驚おどろく be impressed; be intriguedにきまっている。――驚かせないと読まないからだめだ」

二人二人ふたり two (people)は玄関玄関げんかん entrywayを上がって上あがって entered (up) into、教室教室きょうしつ classroom; lecture hallへはいって、机机つくえ desk; study tableに着いた着ついた took (their) places。やがて先生先生せんせい professorが来る来くる arrived。二人とも筆記筆記ひっき note takingを始めた始はじめた began。三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)は「偉大なる偉大いだいなる great; mighty暗闇暗闇くらやみ darkness; void」が気にかかる気きにかかる weigh on one's mindので、ノートのそばに文芸時評文芸時評ぶんげいじひょう Literary Review (magazine)をあけたまま、筆記のあいまあいまに先生に知れない知しれない not be known (to)ように読みだした読よみだした began to read。先生はさいわい近眼近眼きんがん nearsightedである。のみならずのみならず furthermore; moreover自己の自己じこの one's own講義講義こうぎ lectureのうちにぜんぜんぜんぜん completely; thoroughly埋没して埋没まいぼつして be absorbed inいる。三四郎の不心得不心得ふこころえ indiscretion; imprudenceにはまるで関係しない関係かんけいしない took no notice of。三四郎はいい気になって、こっちを筆記したり、あっちを読んだりしていったが、もともと二人でする事事こと activityを一人で一人ひとりで by oneself兼ねる兼かねる find difficult; be unable to doむりな芸芸げい feat; performanceだからしまいには「偉大なる暗闇」も講義の筆記も双方双方そうほう both (sides)ともに関係がわからなくなった。ただ与次郎与次郎よじろう Yojirō (name)の文章文章ぶんしょう writing; compositionが一句一句いっく one lineだけはっきり頭頭あたま head; mindにはいった。

「自然自然しぜん natureは宝石宝石ほうせき gem; jewelを作る作つくる make; createに幾年幾年いくねん a number of yearsの星霜星霜せいそう years; timeを費やした費ついやした expended; consumedか。またこの宝石が採掘採掘さいくつ digging (for); miningの運運うん fortune; luckにあうまでに、幾年の星霜を静かに静しずかに quietly輝やいて輝かがやいて glitter; sparkleいたか」という句句く line; verseである。その他他ほか others; rest (of something)は不得要領不得ふとく要領ようりょう vague; sketchyに終った終おわった ended; finished。その代りその代かわり on the other handこの時間時間じかん hour; (class) periodには stray sheep という字字じ wordsを一つ一ひとつ one (time)も書かず書かかず without writingにすんだ。

講義が終るやいなや、与次郎は三四郎に向かってに向むかって turning toward、

「どうだ」と聞いた聞きいた asked。じつはまだよく読まないと答える答こたえる respond; answerと、時間の経済経済けいざい economy; efficient use ofを知らない男男おとこ fellowだといって非難した非難ひなんした criticized; reproached。ぜひ読めという。三四郎は家家うち homeへ帰って帰かえって return (to)ぜひ読むと約束した約束やくそくした promised。やがて昼昼ひる noonになった。二人は連れ立って連つれ立だって go together門門もん gateを出た出でた departed (through)。

「今晩今晩こんばん tonight出席する出席しゅっせきする attend; take partだろうな」と与次郎が西片町西片町にしかたまち Nishikatamachi (place name)へはいる横町横町よこちょう side street; laneの角角かど cornerで立ち留まった立たち留どまった came to a stop。今夜今夜こんや tonightは同級生同級生どうきゅうせい classmatesの懇親会懇親会こんしんかい social gathering; get-togetherがある。三四郎は忘れていた忘わすれていた had forgotten。ようやく思い出して思おもい出だして recalled、行く行いく go; attendつもりだと答えると、与次郎は、

「出るまえにちょっと誘ってくれ誘さそってくれ call on (a person)。君君きみ youに話す話はなす discuss事事こと matterがある」と言う言いう said。耳耳みみ earのうしろへペン軸ペン軸じく pen barrel; pen shaft (for fountain pens with detachable tips)をはさんでいる。なんとなく得意得意とくい proud; highly self-satisfiedである。三四郎は承知した承知しょうちした agreed (to do something)。

下宿下宿げしゅく dormitory; lodgingsへ帰って帰かえって return (to)、湯湯ゆ bath (lit: hot water)にはいって、いい心持ち心持こころもち feeling; moodになって上がって上あがって come up (out of the bath)みると、机机つくえ desk; study tableの上上うえ top ofに絵はがき絵えはがき picture postcardがある。小川小川おがわ small river; streamをかいて、草草くさ grassをもじゃもじゃもじゃもじゃ in a scraggly mannerはやして、その縁縁ふち edgeに羊羊ひつじ sheepを二匹二匹にひき two (animals)寝かして寝ねかして lay down; lay (an animal) on its side、その向こう側向むこう側がわ opposite sideに大きな大おおきな large男男おとこ manがステッキステッキ walking stickを持って持もって hold; carry立って立たって standいるところを写した写うつした depictedものである。男の顔顔かお faceがはなはだ獰猛獰猛どうもう fierceness; truculenceにできている。まったく西洋の西洋せいようの Western; occidental絵絵え picture; paintingにある悪魔悪魔デビル devilを模した模もした copied; modeled afterもので、念のため念ねんのため for good measure、わきにちゃんとデビルと仮名仮名かな kanaが振って振ふって sprinkled aroundある。表表おもて front sideは三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)の宛名宛名あてな name and addressの下下した belowに、迷える子迷まよえる子こ lost child (stray sheep)と小さく書いた小ちいさく書かいた written in small charactersばかりである。三四郎は迷える子の何者何者なにもの who; what kind of personかをすぐ悟った悟さとった understood。のみならず、はがきの裏裏うら back (side)に、迷える子を二匹書いて、その一匹一匹いっぴき one (animal)をあんにあんに implicitly自分自分じぶん oneselfに見立てて見立みたてて liken (to something)くれたのをはなはだうれしく思った思おもった thought; considered。迷える子のなかには、美禰子美禰子みねこ Mineko (name)のみではない、自分ももとよりはいっていたのである。それが美禰子のおもわくおもわく viewpoint; opinionであったとみえる。美禰子の使った使つかった used stray sheep の意味意味いみ meaningがこれでようやくはっきりした。

与次郎与次郎よじろう Yojirō (name)に約束した約束やくそくした promised「偉大なる偉大いだいなる great; mighty暗闇暗闇くらやみ darkness; void」を読もう読よもう readと思うが、ちょっと読む気気き inclinationにならない。しきりに絵はがきをながめて考えた考かんがえた considered; contemplated。イソップイソップ Aesopにもないような滑稽滑稽こっけい humor; witticism趣味趣味しゅみ taste for; sense ofがある。無邪気無邪気むじゃき innocence; simple-mindednessにもみえる。洒落洒落しゃらく frank; open-heartedでもある。そうしてすべての下下もと base (of); underpinningに、三四郎の心心こころ heart; soulを動かす動うごかす move; affectあるものがある。

手ぎわ手てぎわ workmanship; quality of executionからいっても敬服敬服けいふく admirationの至り至いたり utmost limit (of)である。諸事諸事しょじ everything; all aspects明瞭に明瞭めいりょうに clearly; vividlyでき上がってでき上あがって be made; be finishedいる。よし子よし子こ Yoshiko (Nonomiya's younger sister)のかいた柿柿かき persimmonの木木き treeの比比ひ comparable (work)ではない。――と三四郎には思われた。

しばらくしてから、三四郎はようやく「偉大なる暗闇」を読みだした。じつはふわふわして読みだしたのであるが、二、三ページ二に、三さんページ two or three pagesくると、次第に次第しだいに gradually釣り込まれる釣つり込こまれる be hooked; be drawn inように気が乗って気きが乗のって take interest in; become engaged inきて、知らず知らずのまに知しらず知しらずのまに without realizing; before one knows、五ページ五ごページ five pages六ページ六ろくページ six pagesと進んで進すすんで advance; progress、ついに二十七ページ二十七にじゅうななページ 27 pagesの長論文長論文ちょうろんぶん long piece; lengthy compositionを苦もなく苦くもなく effortlessly片づけた片かたづけた polished off; finished。最後最後さいご final; lastの一句一句いっく sentence; lineを読了した読了どくりょうした finished reading時時とき time; moment、はじめてこれでしまいだなと気がついた。目目め eyesを雑誌雑誌ざっし magazine; publicationから離して離はなして remove; lift (one's eyes from)、ああ読んだなと思った。

しかし次の次つぎの next瞬間瞬間しゅんかん moment; instantに、何何なに whatを読んだかと考えてみると、なんにもない。おかしいくらいなんにもない。ただ大いに大おおいに a great dealかつ盛んに盛さかんんに enthusiastically読んだ気がする。三四郎は与次郎の技倆技倆ぎりょう ability; talentに感服した感服かんぷくした be struck with admiration; be impressed。

論文論文ろんぶん essay; compositionは現今現今げんこん the present dayの文学者文学者ぶんがくしゃ men of letters; literary scholarsの攻撃攻撃こうげき attackに始まってに始はじまって began with ...、広田先生広田ひろた先生せんせい Professor Hirotaの賛辞賛辞さんじ praise; approbationに終ってに終おわって ended with ...いる。ことに文学文科文学ぶんがく文科ぶんか department of arts and literatureの西洋人西洋人せいようじん Westernerを手痛く手痛ていたく severely; harshly罵倒して罵倒ばとうして disparage; heap abuse onいる。はやく適当の適当てきとうの appropriate; qualified日本人日本人にほんじん Japanese nationalを招聘して招聘しょうへいして call up; summon、大学大学だいがく university相当の相当そうとうの becoming of ...講義講義こうぎ lectureを開かなくっては開ひらかなくっては unless one establishes、学問学問がくもん scholarship; learningの最高最高さいこう the pinnacle of府たる府ふたる represent大学も昔昔むかし long agoの寺子屋寺子屋てらこや temple primary school (during the Edo period)同然同然どうぜん similar to; on the same level asのありさまになって、煉瓦石煉瓦石れんがせき brick and stoneのミイラミイラ mummyと選ぶところがない選えらぶところがない present no better choice than; be no better thanようになる。もっとも人人ひと persons; personnelがなければしかたがないが、ここに広田先生がある。先生は十年一日十年じゅうねん一日いちじつ with constancy of purpose for ten (long) yearsのごとく高等学校高等学校こうとうがっこう high school (equivalent to modern-day college)に教鞭を執って教鞭きょうべんを執とって teach school (lit: take up the whip of education)薄給薄給はっきゅう meager salaryと無名無名むめい obscurity; anonymityに甘んじて甘あまんじて be content withいる。しかし真正の真正しんせいの genuine; authentic学者学者がくしゃ scholarである。学海学海がっかい the world of knowledgeの新気運新気運しんきうん new trend; new directionに貢献して貢献こうけんして contribute to; further (a cause)、日本の活社会活社会かつしゃかい real world; real lifeと交渉交渉こうしょう connection; affinityのある教授教授きょうじゅ professorを担任すべき担任たんにんすべき should be put in charge人物人物じんぶつ personageである。――せんじ詰めるせんじ詰つめる boil down (to its essence)とこれだけであるが、そのこれだけが、非常に非常ひじょうに very much; exceedinglyもっともらしいもっともらしい quite sensible; reasonable-sounding口吻口吻こうふん manner of expressionと燦爛たる燦爛さんらんたる brilliant; resplendent警句警句けいく aphorismsとによって前後前後ぜんご approximately; more or less二十七ページ二十七にじゅうななページ 27 pagesに延長して延長えんちょうして stretch out (to)いる。

その中中なか middle; midstには「禿禿はげ baldnessを自慢する自慢じまんする take pride inものは老人老人ろうじん old manに限るに限かぎる be limited to」とか「ヴィーナスヴィーナス Venus (Roman Goddess)は波波なみ wavesから生まれた生うまれた be born ofが、活眼の活眼かつがんの shrewd; keen士士し gentlemanは大学から生まれない」とか「博士博士はかせ man of learningを学界学界がっかい academiaの名産名産めいさん specialty product (of a place)と心得る心得こころえる regard as; take forのは、海月海月くらげ jellyfishを田子の浦田子たごの浦うら Tago Bay (in Shizuoka Prefecture; famous for view of Mt Fuji)の名産と考える考かんがえる consider (to be)ようなものだ」とかいろいろおもしろい句句く phrases; passagesがたくさんある。しかしそれよりほかになんにもない。ことに妙なの妙みょうなの odd thing; curious thingは、広田先生を偉大なる偉大いだいなる great; mighty暗闇暗闇くらやみ darkness; voidにたとえたついでに、ほかの学者を丸行燈丸行燈まるあんどん round lanternに比較して比較ひかくして compare to、たかだか方方ほう surrounding area二尺二尺にしゃく 2 shaku (about 60 cm; about 2 feet)ぐらいの所所ところ place; spaceをぼんやり照らす照てらす shine on; illuminateにすぎないなどと、自分自分じぶん oneselfが広田から言われた言いわれた was toldとおりを書いて書かいて writeいる。そうして、丸行燈だの雁首雁首がんくび goose neck (pipe)などはすべて旧時代の旧時代きゅうじだいの old-fashioned; outdated遺物遺物いぶつ relicで我々我々われわれ we; us青年青年せいねん young menにはまったく無用無用むよう of no use; unnecessaryであると、このあいだのとおりわざわざ断わって断ことわって reject; dismissある。

よく考えてみると、与次郎与次郎よじろう Yojirō (name)の論文には活気活気かっき energy; vigorがある。いかにも自分一人で自分じぶん一人ひとりで all by oneself新日本新日本しんにほん the new Japanを代表して代表だいひょうして represent; speak forいるようであるから、読んで読よんで readいるうちは、ついその気気き feelingになる。けれどもまったく実実み meat (in a broth); substanceがない。根拠地根拠地こんきょち base of operationsのない戦争戦争せんそう warfareのようなものである。のみならず悪く悪わるく in a negative light解釈する解釈かいしゃくする take in; interpretと、政略的の政略的せいりゃくてきの political意味意味いみ purpose; intentionもあるかもしれない書き方書かき方かた style of writingである。いなか者いなか者もの country boyの三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)にはてっきりてっきり for sure; with certaintyそこと気取る気取けどる sense; get wind ofことはできなかったが、ただ読んだあとで、自分の心心こころ mind; inner feelingsを探って探さぐって probe intoみてどこかに不満足不満足ふまんぞく dissatisfaction; discontentがあるように覚えた覚おぼえた was aware that ...。また美禰子美禰子みねこ Mineko (name)の絵はがき絵えはがき picture postcardを取って取とって take; pick up、二匹二匹にひき two (animals)の羊羊ひつじ sheepと例の例れいの the aforementioned悪魔悪魔デビル devilをながめだした。するとこっちのほうは万事万事ばんじ all thingsが快感快感かいかん agreeable feelings; pleasant sensationsである。この快感につれてまえの不満足はますます著しくなった著いちじるしくなった became conspicuous。それで論文の事の事こと concerning ...はそれぎり考えなくなった。美禰子に返事返事へんじ reply; responseをやろうと思う思おもう thought to。不幸にして不幸ふこうにして regrettably絵絵え picture; paintingがかけない。文章文章ぶんしょう writing; compositionにしようと思う。文章ならこの絵はがきに匹敵する匹敵ひてきする be equal to文句文句もんく words; (written) expressionでなくってはいけない。それは容易に容易よういに easily思いつけない。ぐずぐずしているうちに四時過ぎ四時過よじすぎ past four (o'clock)になった。

袴袴はかま man's formal pleated skirtを着けて着つけて put on、与次郎与次郎よじろう Yojirō (name)を誘いに誘さそいに to call on (a person)、西片町西片町にしかたまち Nishikatamachi (place name)へ行く行いく set out (for)。勝手口勝手口かってぐち kitchen door; side doorからはいると、茶の間茶ちゃの間ま tea room; hearth roomに、広田先生広田ひろた先生せんせい Professor Hirotaが小さな小ちいさな small食卓食卓しょくたく dining tableを控えて控ひかえて have (before one)、晩食晩食ばんめし dinnerを食って食くって eatいた。そばに与次郎がかしこまってかしこまって with an air of profound respectお給仕お給仕きゅうじ server; table helperをしている。

「先生どうですか」と聞いて聞きいて askいる。

先生は何か何なにか something堅い堅かたい hard; solid; toughものをほおばったほおばった filled one's cheek withらしい。食卓の上上うえ top ofを見る見みる look atと、袂時計袂たもと時計どけい pocket watchほどな大きさ大おおきさ sizeの、赤くって赤あかくって red黒くって黒くろくって black、焦げた焦こげた charred; scorchedものが十十とお tenばかり皿皿さら plate; dishの中中なか middleに並んで並ならんで be laid out; be arrangedいる。

三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)は座に着いた座ざに着ついた seated himself; took a place。礼礼れい greeting; salutationをする。先生は口をもがもがさせる口くちをもがもがさせる chew away (on something)。

「おい君君きみ youも一つ一ひとつ one (thing)食ってみろ」と与次郎が箸箸はし chopsticksで皿のものをつまんで出した出だした held out; presented。掌掌てのひら palm (of one's hand)へ載せて載のせて place onみると、馬鹿貝馬鹿貝ばかがい bakagai (tough species of clam)の剥身剥身むきみ shellfish removed from the shellの干した干ほした driedのをつけ焼にしたつけ焼やきにした broiled with soyのである。

「妙な妙みょうな odd; strangeものを食うな」と聞くと、

「妙なものって、うまいぜ食ってみろ。これはね、ぼくがわざわざ先生にみやげに買って買かって boughtきたんだ。先生はまだ、これを食ったことがないとおっしゃる」

「どこから」

「日本橋日本橋にほんばし Nipponbashi (place name)から」

三四郎はおかしくなった。こういうところになると、さっきの論文論文ろんぶん essay; compositionの調子調子ちょうし manner; styleとは少し少すこし a little; a bit違う違ちがう different。

「先生、どうです」

「堅いね」

「堅いけれどもうまいでしょう。よくかまなくっちゃいけません。かむと味味あじ flavorが出る出でる come out; appear」

「味が出るまでかんでいちゃ、歯が疲れて歯はが疲つかれて jaw gets tired (lit: teeth get tired)しまう。なんでこんな古風な古風こふうな old-fashioned; antiquatedものを買ってきたものかな」

「いけませんか。こりゃ、ことによると先生にはだめかもしれない。里見里見さとみ Satomi (Mineko's family name)の美禰子美禰子みねこ Mineko (name)さんならいいだろう」

「なぜ」と三四郎が聞いた。

「ああおちついていりゃ味の出るまできっとかんでるに違いないに違ちがいない no doubt ...」

「あの女女おんな young ladyはおちついていて、乱暴乱暴らんぼう wayward; unmanageableだ」と広田が言った言いった stated; interjected。

「ええ乱暴です。イブセンイブセン Henrik Johan Ibsen (Norwegian Playwright, 1828 – 1906, whose works include A Doll's House)の女のようなところがある」

「イブセンの女は露骨露骨ろこつ blatant; conspicuousだが、あの女は心心しん heart; inner thoughtsが乱暴だ。もっとも乱暴といっても、普通の普通ふつうの ordinary乱暴とは意味意味いみ meaningが違うが。野々宮野々宮ののみや Nonomiya (name)の妹妹いもうと younger sisterのほうが、ちょっと見ると乱暴のようで、やっぱり女らしい女おんならしい feminine。妙なものだね」

「里見のは乱暴の内訌内訌ないこう internal discord; inner turmoilですか」

三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)は黙って黙だまって in silence; without speaking二人二人ふたり two (people)の批評批評ひひょう criticism; commentaryを聞いて聞きいて listen toいた。どっちの批評もふにおちないふにおちない struggle to comprehend; find difficult to accept。乱暴乱暴らんぼう wayward; unmanageableという言葉言葉ことば wordが、どうして美禰子美禰子みねこ Mineko (name)の上にの上うえに in regard to; concerning使える使つかえる can be used; can be applied (to)か、それからが第一第一だいいち first of all不思議不思議ふしぎ strange; curiousであった。

与次郎与次郎よじろう Yojirō (name)はやがて、袴袴はかま man's formal pleated skirtをはいて、改まって出て来て改あらたまって出でて来きて reappeared、

「ちょっと行ってまいります行いってまいります be off (to an outing)」と言う言いう called out。先生先生せんせい professorは黙って茶茶ちゃ teaを飲んで飲のんで drinkいる。二人は表表おもて out frontへ出た出でた came out (to)。表はもう暗い暗くらい dark。門門もん gateを離れて離はなれて move away from二、三間二に、三間さんげん 2 or 3 ken (about 5 meters; about 6 yards)来る来くる come; advanceと、三四郎はすぐ話しかけた話はなしかけた addressed (another party); began to talk。

「先生は里見里見さとみ Satomi (Mineko's family name)のお嬢さんお嬢じょうさん daughter; young ladyを乱暴だと言ったね」

「うん。先生はかってな事事こと thingsをいう人人ひと personだから、時時とき timeと場合場合ばあい situation; circumstancesによるとなんでも言う。第一先生が女女おんな womenを評する評ひょうする comment onのが滑稽滑稽こっけい absurd; funnyだ。先生の女における知識知識ちしき knowledgeはおそらく零零れい zeroだろう。ラッブラッブ loveをしたことがないものに女がわかるものか」

「先生はそれでいいとして、君君きみ youは先生の説説せつ opinion; viewに賛成した賛成さんせいした agreed; supportedじゃないか」

「うん乱暴だと言った。なぜ」

「どういうところを乱暴というのか」

「どういうところも、こういうところもありゃしない。現代の現代げんだいの modern女性女性にょしょう womenはみんな乱暴にきまっている。あの女ばかりじゃない」

「君はあの人をイブセンイブセン Henrik Johan Ibsen (Norwegian Playwright, 1828 – 1906, whose works include A Doll's House)の人物人物じんぶつ character; figureに似て似にて resembleいると言ったじゃないか」

「言った」

「イブセンのだれに似ているつもりなのか」

「だれって……似ているよ」

三四郎はむろん納得しない納得なっとくしない was not convinced; could not agree。しかし追窮もしない追窮ついきゅうもしない didn't press (the matter) further。黙って一間一間いっけん 1 ken (about a meter; about a yard)ばかり歩いた歩あるいた walked。すると突然突然とつぜん suddenly与次郎がこう言った。

「イブセンの人物に似ているのは里見のお嬢さんばかりじゃない。今今いま now; at presentの一般の一般いっぱんの ordinary; average女性はみんな似ている。女性ばかりじゃない。いやしくもいやしくも even to a slight degree新しい新あたらしい new; modern空気空気くうき air; atmosphereに触れた触ふれた touched; came into contact with男男おとこ menはみんなイブセンの人物に似たところがある。ただ男も女もイブセンのように自由自由じゆう free; as one pleases行動行動こうどう conduct; behaviorを取らない取とらない don't take up; don't engage inだけだ。腹のなかでは腹はらのなかでは deep down; down insideたいていかぶれてかぶれて react against (something)いる」

「ぼくはあんまり、かぶれてかぶれて react against (something)いない」

「いないとみずから欺いてみずから欺あざむいて deceiving oneself; fooling oneselfいるのだ。――どんな社会社会しゃかい societyだって陥欠陥欠かんけつ deficiencyのない社会はあるまい」

「それはないだろう」

「ないとすれば、そのなかに生息して生息せいそくして live and breathいる動物動物どうぶつ creaturesはどこかに不足不足ふそく discontentを感じる感かんじる feel; perceiveわけだ。イブセンイブセン Henrik Johan Ibsen (Norwegian Playwright, 1828 – 1906, whose works include A Doll's House)の人物人物じんぶつ character; figureは、現代社会制度現代げんだい社会しゃかい制度せいど modern social systemの陥欠をもっとも明らかに明あきらかに clearly; evidently感じたものだ。我々我々われわれ we; usもおいおいおいおい little by littleああなってくる」

「君君きみ youはそう思う思おもう think; believeか」

「ぼくばかりじゃない。具眼具眼ぐがん discernment; perceptionの士士し men; gentlemenはみんなそう思っている」

「君の家家うち house; placeの先生先生せんせい professorもそんな考え考かんがえ opinion; ideaか」

「うちの先生? 先生はわからない」

「だって、さっき里見里見さとみ Satomi (Mineko's family name)さんを評して評ひょうして comment on、おちついていて乱暴乱暴らんぼう wayward; unmanageableだと言った言いった saidじゃないか。それを解釈して解釈かいしゃくして explain; interpretみると、周囲周囲しゅうい surroundingsに調和して調和ちょうわして harmonize; fit in withいけるから、おちついていられるので、どこかに不足があるから、底底そこ base; depthsのほうが乱暴だという意味意味いみ meaningじゃないのか」

「なるほど。――先生は偉い偉えらい remarkable; admirableところがあるよ。ああいうところへゆくとやっぱり偉い」

と与次郎与次郎よじろう Yojirō (name)は急に急きゅうに suddenly広田先生広田ひろた先生せんせい Professor Hirotaをほめだした。三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)は美禰子美禰子みねこ Mineko (name)の性格性格せいかく disposition; natureについてもう少しもう少すこし a little more議論議論ぎろん discussionの歩歩ほ progressを進めたかった進すすめたかった wanted to advance; wanted to take forwardのだが、与次郎のこの一言一言ひとこと few words; brief commentでまったくはぐらかされてはぐらかされて be evaded; be given the slipしまった。すると与次郎が言った。

「じつはきょう君に用用よう business; matter of discussionがあると言ったのはね。――うん、それよりまえに、君あの偉大なる偉大いだいなる great; mighty暗闇暗闇くらやみ darkness; voidを読んだ読よんだ readか。あれを読んでおかないとぼくの用事用事ようじ business; affairsが頭へはいりにくい頭あたまへはいりにくい be hard to understand; be hard to follow」

「きょうあれから家へ帰って帰かえって return (home)読んだ」

「どうだ」

「先生はなんと言った」

「先生は読むものかね。まるで知りゃしない知しりゃしない doesn't know; is unaware」

「そうさな。おもしろいことはおもしろいが、――なんだか腹のたしにならない腹はらのたしにならない doesn't satisfy one's appetiteビールを飲んだ飲のんだ drankようだね」

「それでたくさんだ。読んで景気景気けいき effect; reactionがつきさえすればいい。だから匿名匿名とくめい assumed nameにしてある。どうせ今今いま now; the presentは準備時代準備じゅんび時代じだい time of preparationだ。こうしておいて、ちょうどいい時分時分じぶん time; seasonに、本名を名乗って本名ほんみょうを名乗なのって use one's real name出る出でる come out; appear。――それはそれとして、さっきの用事を話して話はなして tell (about); explainおこう」

与次郎与次郎よじろう Yojirō (name)の用事用事ようじ business; affairsというのはこうである。――今夜今夜こんや this eveningの会会かい gathering; get-togetherで自分たちの自分じぶんたちの one's own (the students' own)科科か (academic) departmentの不振不振ふしん stagnation; lethargyの事事こと state; situationをしきりにしきりに often; repeatedly慨嘆する慨嘆がいたんする deplore; lamentから、三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)もいっしょに慨嘆しなくってはいけないんだそうだ。不振は事実事実じじつ truth; realityであるからほかの者者もの personsも慨嘆するにきまっている。それから、おおぜいいっしょに挽回策挽回策ばんかいさく revitalization planを講ずる講こうずる take measures; work out (a plan)こととなる。なにしろ適当な適当てきとうな suitable; appropriate日本人日本人にほんじん Japanese nationalを一人一人ひとり one (person)大学大学だいがく universityに入れる入いれる bring into; recruitのが急務急務きゅうむ pressing needだと言い出す言いい出だす bring up; propose。みんなが賛成する賛成さんせいする agree; support。当然当然とうぜん right; properだから賛成するのはむろんだ。次次つぎ nextにだれがよかろうという相談相談そうだん discussionに移る移うつる shift; transition (to)。その時時とき time; occasion広田先生広田ひろた先生せんせい Professor Hirotaの名名な nameを持ち出す持もち出だす bring forth; offer up (for consideration)。その時三四郎は与次郎に口を添えて口くちを添そえて support; second (a proposal)極力極力きょくりょく to the utmost先生を賞賛しろ賞賛しょうさんしろ praise; laudという話話はなし discussionである。そうしないと、与次郎が広田の食客食客いそうろう house guest; boarding studentだということを知って知しって know; be aware ofいる者が疑い疑うたがい distrust; misgivingsを起こさないともかぎらない起おこさないともかぎらない it's possible that (someone) might stir up ...。自分は現に現げんに actually; in fact食客なんだから、どう思われて思おもわれて be regarded; be looked onもかまわないが、万一万一まんいち on the off chance that ...煩い煩わずらい trouble; disturbanceが広田先生に及ぶ及およぶ extend toようではすまんことになる。もっともほかに同志同志どうし comradeが三、四人三さん、四人よにん 3 or 4 peopleはいるから、大丈夫大丈夫だいじょうぶ safe; alrightだが、一人でも味方味方みかた ally; supporterは多い多おおい many; numerousほうが便利便利べんり expedient; advantageousだから、三四郎もなるべくしゃべるにしくはないにしくはない it would be best to ...との意見意見いけん view; opinionである。さていよいよ衆議一決衆議一決しゅうぎいっけつ unanimous agreementの暁はの暁あかつきは on the occasion of; at the conclusion of、総代総代そうだい representativeを選んで選えらんで elect; choose学長学長がくちょう deanの所所ところ place; officeへ行く行ゆく go (to)、また総長総長そうちょう president of a universityの所へ行く。もっとも今夜中今夜中こんやじゅう (within) this eveningにそこまでは運ばないかもしれない運はこばないかもしれない may not progress; may not advance。また運ぶ必要必要ひつよう necessityもない。そのへんは臨機応変臨機りんき応変おうへん adapting to circumstances; playing it by earである。……

与次郎はすこぶる能弁能弁のうべん fluency of speech; eloquenceである。惜しい惜おしい regrettable; unfortunateことにその能弁がつるつるしてつるつるして be slick; be slipperyいるので重み重おもみ weight; gravityがない。あるところへゆくと冗談冗談じょうだん gag; jestをまじめに講義して講義こうぎして lecture (on)いるかと疑われる。けれども本来本来ほんらい essentially; in (and of) itselfが性質のいい性質たちのいい of good intent; worthy運動運動うんどう movement; initiativeだから、三四郎もだいたいのうえにおいて賛成の意意い feelings; thoughtsを表した表ひょうした expressed。ただその方法方法ほうほう method; approachが少しく少すこしく slightly; to some degree細工に落ちて細工さいくに落おちて lacking in tactおもしろくないと言った。その時与次郎は往来往来おうらい street; roadのまん中まん中なか middleへ立ち留まった立たち留どまった came to a stop。二人二人ふたり two (people)はちょうど森川町森川町もりかわちょう Morikawachō (place name)の神社神社じんじゃ Shinto shrineの鳥居鳥居とりい torii (Shinto shrine gate)の前前まえ front ofにいる。

「細工に落ちる細工さいくに落おちる lacking in tactというが、ぼくのやる事事こと act; actionは自然の自然しぜんの natural手順手順てじゅん process; courseが狂わない狂くるわない not go out of order; remain on trackようにあらかじめ人力人力じんりょく human effort; manpowerで装置する装置そうちする take care of; interveneだけだ。自然にそむいた没分暁の没分暁ぼつぶんぎょうの foolish; ill-advised事を企てる企きわだてる attempt; undertakeのとは質が違う質たちが違ちがう is fundamentally different。細工だってかまわん。細工が悪い悪わるい bad; in poor formのではない。悪い細工が悪いのだ」

三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)はぐうの音も出なかったぐうの音ねも出でなかった was completely nonplussed。なんだか文句文句もんく objection; counterpointがあるようだけれども、口へ出てこない口くちへ出でてこない couldn't give voice to; couldn't articulate。与次郎与次郎よじろう Yojirō (name)の言いぐさ言いいぐさ words; remarksのうちで、自分自分じぶん oneselfがまだ考えていなかった考かんがえていなかった hadn't considered部分部分ぶぶん pieces; parts; pointsだけがはっきり頭頭あたま head; mindへ映って映うつって be reflectedいる。三四郎はむしろそのほうに感服した感服かんぷくした be impressed (by)。

「それもそうだ」とすこぶる曖昧な曖昧あいまいな vague; ambiguous返事返事へんじ reply; responseをして、また肩を並べて肩かたを並ならべて side by side; shoulder to shoulder歩きだした歩あるきだした began walking。正門正門せいもん main gate (of the university)をはいると、急に急きゅうに suddenly目の前目めの前まえ before one's eyesが広くなる広ひろくなる widen; broaden。大きな大おおきな large建物建物たてもの buildingsが所々所々ところどころ here and there; all aboutに黒く黒くろく darkly; in silhouette立って立たって standいる。その屋根屋根やね rooftopsがはっきり尽きる尽つきる end; terminate所所ところ places; locationsから明らかな明あきらかな clear空空そら skyになる。星星ほし starsがおびただしくおびただしく tremendously多い多おおい numerous。

「美しい美うつくしい beautiful空だ」と三四郎が言った。与次郎も空を見ながら見みながら looking at、一間一間いっけん 1 ken (about 2 meters; about 2 yards)ばかり歩いた歩あるいた walked on。突然突然とつぜん suddenly、

「おい、君君きみ you (used here as form of address)」と三四郎を呼んだ呼よんだ called to。三四郎はまたさっきの話話はなし discussionの続き続つづき continuationかと思って思おもって thought; assumed「なんだ」と答えた答こたえた answered; replied。

「君、こういう空を見てどんな感じ感かんじ feelingを起こす起おこす evoke; awaken」

与次郎に似合わぬに似合にあわぬ unbecoming of; uncharacteristicことを言った。無限無限むげん infinityとか永久永久えいきゅう eternityとかいう持ち合わせの持まち合あわせの expected; anticipated答答こたえ reply; responseはいくらでもあるが、そんなことを言うと与次郎に笑われる笑わらわれる be mocked; be ridiculedと思って三四郎は黙って黙だまって remain silentいた。

「つまらんなあ我々我々われわれ we; usは。あしたから、こんな運動運動うんどう movement; initiativeをするのはもうやめにしようかしら。偉大なる偉大いだいなる great; mighty暗闇暗闇くらやみ darkness; voidを書いて書かいて write; composeもなんの役にも立ちそうにもないなんの役やくにも立たちそうにもない doesn't look to be of any use; serves no purpose」

「なぜ急にそんな事そんな事こと that kind of thingを言いだしたのか」

「この空を見ると、そういう考えになる。――君、女女おんな womanにほれたほれた fall in loveことがあるか」

三四郎は即答即答そくとう immediate replyができなかった。

「女女おんな womenは恐ろしい恐おそろしい terrible; frighteningものだよ」と与次郎与次郎よじろう Yojirō (name)が言った言いった said; remarked。

「恐ろしいものだ、ぼくも知って知しって know; be aware ofいる」と三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)も言った。すると与次郎が大きな声大おおきな声こえ loud voiceで笑いだした笑わらいだした laughed。静かな静しずかな quiet; still夜夜よる evening; nightの中中なか middle ofでたいへん高く聞こえる高たかく聞きこえる rang out loudly。

「知りもしないくせに。知りもしないくせに」

三四郎は憮然としていた憮然ぶぜんとしていた be dispirited。

「あすもよい天気天気てんき weatherだ。運動会運動会うんどうかい athletic competition; field dayはしあわせだ。きれいな女がたくさん来る来くる come; attend。ぜひ見にくる見みにくる come and watchがいい」

暗い暗くらい dark中を二人二人ふたり two (people)は学生学生がくせい student集会所集会所しゅうかいじょ meeting place; assembly hallの前前まえ front ofまで来た来きた came (to)。中には電燈電燈でんとう electric lightsが輝いて輝かがやいて shineいる。

木造木造もくぞう woodenの廊下廊下ろうか hallwayを回って回まわって make a round (through)、部屋部屋へや roomへはいると、そうそうそうそう early; promptly来た者者もの personsは、もうかたまっている。そのかたまりが大きい大おおきい largeのと小さい小ちいさい smallのと合わせて合あわせて in total三つ三みっつ three (things)ほどある。なかには無言で無言むごんで in silence備え付けの備そなえ付つけの provided; available (on the premises)雑誌雑誌ざっし magazinesや新聞新聞しんぶん newspaperを見ながら、わざと列列れつ formationを離れて離はなれて remove oneself fromいるのもある。話話はなし conversationは方々方々ほうぼう here and there; all aroundに聞こえる聞きこえる could be heard。話の数数かず numberはかたまりの数より多い多おおい numerousように思われる思おもわれる seem。しかしわりあいにおちついて静かである。煙草煙草たばこ tobacco; cigaretteの煙煙けむり smokeのほうが猛烈に猛烈もうれつに energetically; with spirit立ち上る立たち上あがる rise up。

そのうちだんだん寄って来る寄よって来くる gather; assemble。黒い黒くろい black; dark影影かげ figures; formsが闇闇やみ darknessの中から吹きさらしの吹ふきさらしの drafty; exposed to the wind廊下の上上うえ surfaceへ、ぽつりとぽつりと little by little; intermittently現われる現あらわれる appearと、それが一人一人一人一人ひとりひとり one by oneに明るくなって明あかるくなって be illuminated; step out of the darkness、部屋の中へはいって来る。時には時ときには sometimes; on occasion五、六人五ご、六人ろくにん five or six (people)続けて続つづけて in succession; in a row、明るくなることもある。が、やがて人数人数にんず (the expected) number of peopleはほぼそろった。

与次郎は、さっきから、煙草の煙の中を、しきりにあちこちと往来して往来おうらいして move back and forthいた。行く行ゆく go (to)所所ところ place; locationで何か何なにか something小声小声こごえ low voice; whisperに話している。三四郎は、そろそろ運動運動うんどう movement; initiativeを始めた始はじめた set about (doing); embarked (on)なと思ってながめていた。

しばらくすると幹事幹事かんじ secretary; coordinatorが大きな声で、みんなに席へ着け席せきへ着つけ be seated; take a seatと言う。食卓食卓しょくたく dining tableはむろん前から用意ができて用意よういができて be preparedいた。みんな、ごたごたにごたごたに in confusion; all in a muddle席へ着いた。順序順序じゅんじょ order; procedureもなにもない。食事食事しょくじ dinner; the mealは始まった。

三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)は熊本熊本くまもと Kumamoto (place name; Sanshirō's home region)で赤酒赤酒あかざけ red sakéばかり飲んで飲のんで drinkいた。赤酒というのは、所所ところ locale; regionでできる下等な下等かとうな inferior; low grade酒酒さけ sakéである。熊本の学生学生がくせい studentsはみんな赤酒を飲む。それが当然当然とうぜん a given; a matter of courseと心得て心得こころえて regard as; take forいる。たまたまたまたま occasionally; once in a while飲食店飲食店いんしょくてん restaurantへ上がれば上あがれば enter (up into)牛肉屋牛肉屋ぎゅうにくや beef houseである。その牛肉屋の牛牛ぎゅう beefが馬肉馬肉ばにく horse meatかもしれないという嫌疑嫌疑けんぎ doubt; suspicionがある。学生は皿皿さら dish; plateに盛った盛もった be piled肉肉にく meatを手づかみにして手てづかみにして grab (in one's hand)、座敷座敷ざしき (dining) room; parlorの壁壁かべ wallへたたきつけるたたきつける slap onto。落ちれば落おちれば fall off牛肉で、ひっつけば馬肉だという。まるで呪呪まじない magical riteみたような事事こと act; actionをしていた。その三四郎にとって、こういう紳士的な紳士的しんしてきな gentlemanly; formal学生親睦会親睦会しんぼくかい social gathering; get-togetherは珍しい珍めずらしい unusual; novel。喜んで喜よろこんで with pleasureナイフとフォークを動かして動うごかして wield; workいた。そのあいだにはビールをさかんに飲んだ。

「学生集会所集会所しゅうかいじょ meeting place; assembly hallの料理料理りょうり food; cookingはまずいですね」と三四郎に隣隣となり next to; adjacent (place)にすわった男男おとこ fellowが話しかけた話はなしかけた addressed (a person); struck up conversation。この男は頭頭あたま headを坊主坊主ぼうず crew cut; close-cropped hair (lit: Buddhist priest)に刈って刈かって cut、金縁の金縁きんぶちの gold-rimmed眼鏡眼鏡めがね glassesをかけたおとなしい学生であった。

「そうですな」と三四郎は生返事生なま返事へんじ vague answer; half-hearted replyをした。相手相手あいて the other partyが与次郎与次郎よじろう Yojirō (name)なら、ぼくのようないなか者いなか者もの country boy; provincial typeには非常に非常ひじょうに extremely; exceedinglyうまいと正直な正直しょうじきな honestところをいうはずであったが、その正直がかえって皮肉皮肉ひにく sarcasmに聞こえる聞きこえる sound like; be taken asと悪い悪わるい no good; unbecomingと思って思おもって thought; consideredやめにした。するとその男が、

「君君きみ youはどこの高等学校高等学校こうとうがっこう high school (equivalent to modern-day college)ですか」と聞きだした。

「熊本です」

「熊本ですか。熊本にはぼくの従弟従弟いとこ cousinもいたが、ずいぶんひどい所だそうですね」

「野蛮な野蛮やばんな barbaric; uncultured所です」

二人二人ふたり two (people)が話していると、向こう向むこう further offの方方ほう directionで、急に急きゅうに suddenly高い声高たかい声こえ loud voices; shrill voicesがしだした。見る見みる lookと与次郎が隣席隣席りんせき adjacent seats; surrounding seatsの二、三人二に、三人さんにん several peopleを相手に、しきりに何か何なにか something弁じて弁べんじて speak of; talk onいる。時々時々ときどき occasionally; from time to timeダーターファブラダーターファブラ Latin phrase 'de te fabula' from Horace's Satires. Broader meaning: don't laugh - change the names and the story applies to you.と言う言いう said。なんの事だかわからない。しかし与次郎の相手は、この言葉言葉ことば words; phraseを聞くたびに笑いだす笑わらいだす break out laughing。与次郎はますます得意になって得意とくいになって be on a roll; be in high spirits、ダーターファブラ我々我々われわれ we; us新時代新時代しんじだい new ageの青年青年せいねん young menは……とやっている。三四郎の筋向こう筋向すじむこう diagonally oppositeにすわっていた色の白い色いろの白しろい fair-complexioned; pale品のいい品ひんのいい refined学生が、しばらくナイフの手手て handを休めて休やすめて idle; give a rest、与次郎の連中連中れんちゅう party; groupをながめていたが、やがて笑いながら Il a le diable au corps(悪魔悪魔あくま devilが乗り移って乗のり移うつって possessいる)と冗談半分に冗談じょうだん半分はんぶんに half jokinglyフランス語フランス語ご French (language)を使った使つかった used。向こうの連中にはまったく聞こえなかったとみえて、この時時とき time; momentビールのコップが四つ四よつ four (things)ばかり一度に一度いちどに together; simultaneously高く上がった上あがった rose up。得意そうに祝盃をあげて祝盃しゅくはいをあげて drink a toastいる。

「あの人人ひと personはたいへんにぎやかな人ですね」と三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)の隣隣となり next to; adjacent (place)の金縁眼鏡金縁きんぶち眼鏡めがね gold-rimmed glassesをかけた学生学生がくせい studentが言った言いった said; remarked。

「ええ。よくしゃべります」

「ぼくはいつか、あの人に淀見軒淀見軒よどみけん Yodomiken (shop in Hongō with restaurant in rear)でライスカレーライスカレー curry riceをごちそうになった。まるで知らない知しらない not know; not be acquainted withのに、突然突然とつぜん suddenly来て来きて approach、君君きみ you (used here as form of address)淀見軒へ行こう行いこう let's goって、とうとう引っ張っていって引ひっ張ぱっていって took to; dragged along to……」

学生はハハハと笑った笑わらった laughed。三四郎は、淀見軒で与次郎与次郎よじろう Yojirō (name)からライスカレーをごちそうになったものは自分自分じぶん oneselfばかりではないんだなと悟った悟さとった learned; became aware of。

やがてコーヒーが出る出でる be served。一人一人ひとり one (person)が椅子を離れて立った椅子いすを離はなれて立たった rose from (his) seat。与次郎が激しく激はげしく vigorously手をたたく手てをたたく clap; applaudと、ほかの者者もの personsもたちまち調子を合わせた調子ちょうしを合あわせた joined in; followed suit。

立った者は、新しい新あたらしい new黒の黒くろの black制服制服せいふく uniformを着て着きて wear、鼻鼻はな noseの下下した belowにもう髭髭ひげ mustacheをはやしている。背がすこぶる高い背せがすこぶる高たかい be exceedingly tall。立つには恰好のよい恰好かっこうのよい of fine form; imposing男男おとこ fellowである。演説演説えんぜつ speech; addressめいためいた having the air of; seeming to beことを始めた始はじめた began。

我々我々われわれ we; usが今夜今夜こんや this evening; tonightここへ寄って寄よって gather; come together、懇親懇親こんしん friendship; camaraderieのために、一夕一夕いっせき one eveningの歓歓かん enjoymentをつくすつくす use to its utmost; partake fully ofのは、それ自身自身じしん itselfにおいて愉快な愉快ゆかいな joyous; happy事事こと act; happeningであるが、この懇親が単に単たんに simply社交社交しゃこう socializing上上じょう regarding; with respect toの意味意味いみ meaningばかりでなく、それ以外に以外いがいに in addition to一種一種いっしゅ a kind; a type重要な重要じゅうような important; momentous影響影響えいきょう influence; impactを生じうる生しょうじうる might give rise toと偶然ながら偶然ぐうぜんながら by chance; unexpectedly気がついたら気きがついたら took notice of自分は立ちたくなった。この会合会合かいごう gathering; assemblyはビールに始まってコーヒーに終って終おわって end; finishいる。まったく普通の普通ふつうの commonplace; ordinary会合である。しかしこのビールを飲んで飲のんで drinkコーヒーを飲んだ四十人四十人よんじゅうにん forty (people)近く近ちかく nearly ...の人間人間にんげん peopleは普通の人間ではない。しかもそのビールを飲み始めてからコーヒーを飲み終るまでのあいだに、すでに自己の自己じこの one's own運命運命うんめい fate; destinyの膨脹膨脹ぼうちょう expansion; growthを自覚しえた自覚じかくしえた were able to awaken to。

政治政治せいじ politicsの自由自由じゆう freedomを説いた説といた urged; argued forのは昔昔むかし long agoの事である。言論言論げんろん speech; expressionの自由を説いたのも過去過去かこ pastの事である。自由とは単にこれらの表面表面ひょうめん surfaceにあらわれやすい事実事実じじつ truths; actualitiesのために専有されべき専有せんゆうされべき should be occupied; should be monopolized言葉言葉ことば word; phraseではない。我ら我われら we; us新時代新時代しんじだい new ageの青年青年せいねん young menは偉大なる偉大いだいなる great; mighty心心こころ mind; spiritの自由を説かねばならぬ時運時運じうん critical time; pivotal momentに際会した際会さいかいした have met; have come face to face (with)と信ずる信しんずる believe。

我々我々われわれ we; usは古き古ふるき old; antiquated日本日本にほん Japanの圧迫圧迫あっぱく pressure; oppressionに堪ええぬ堪たええぬ cannot endure青年青年せいねん young menである。同時に同時どうじに at the same time新しき新あたらしき new; modern西洋西洋せいよう the West; the Occidentの圧迫にも堪ええぬ青年であるということを、世間世間せけん the world; societyに発表せねばいられぬ発表はっぴょうせねばいられぬ must announce (to)状況状況じょうきょう situation; state of affairsのもとに生きて生いきて be livingいる。新しき西洋の圧迫は社会社会しゃかい societyの上においての上うえにおいて with respect to; in relation toも文芸文芸ぶんげい literatureの上においても、我ら新時代新時代しんじだい new ageの青年にとっては古き日本の圧迫と同じく、苦痛苦痛くつう pain; burdenである。

我々は西洋の文芸を研究する研究けんきゅうする study; research者者もの personsである。しかし研究はどこまでも研究である。その文芸のもとに屈従する屈従くつじゅうする submit; become subservientのとは根本的に根本的こんぽんてきに fundamentally相違相違そうい different; dissimilarがある。我々は西洋の文芸にとらわれんがためにとらわれんがために in order to be slave to; in order to be shackled by (= 囚とらわれるために)、これを研究するのではない。とらわれたるとらわれたる are slave to; are shackled by心心こころ hearts; mindsを解脱せしめんがために解脱げだつせしめんがために in order to emancipate、これを研究しているのである。この方便方便ほうべん means; methodに合せざる合あわせざる doesn't fit with; can't conform to文芸はいかなる威圧威圧いあつ coercionのもとにしいらるるしいらるる be forced uponとも学ぶ学まなぶ study; take lessons in事事こと act; actionをあえてせざるあえてせざる boldly refuse (to do)の自信自信じしん confidenceと決心決心けっしん determinationとを有して有ゆうして possess; be endowed withいる。

我々はこの自信と決心とを有するの点点てん pointにおいて普通の普通ふつうの ordinary人間人間にんげん peopleとは異なって異ことなって be different (from)いる。文芸は技術技術ぎじゅつ craft; techniqueでもない、事務事務じむ business matters; administrative dutiesでもない。より多くより多おおく more (than other things)人生人生じんせい human life; human existenceの根本義根本義こんぽんぎ fundamental meaningに触れた触ふれた touch on; deal with社会の原動力原動力げんどうりょく motive power; driving forceである。我々はこの意味意味いみ meaning; significanceにおいて文芸を研究し、この意味において如上の如上じょじょうの the aforementioned自信と決心とを有し、この意味において今夕今夕こんせき this eveningの会合会合かいごう gathering; assemblyに一般一般いっぱん ordinary; average以上以上いじょう more than; above and beyondの重大なる重大じゅうだいなる important; momentous影響影響えいきょう effect; impactを想見する想見そうけんする imagine; envisionのである。

社会は激しく激はげしく violently; intensely動きつつある動うごきつつある is in motion。社会の産物たる産物さんぶつたる is a product (of)文芸もまた動きつつある。動く勢い勢いきおい vigor; forceに乗じてに乗じょうじて taking advantage of; seizing the opportunity of、我々の理想理想りそう idealsどおりに文芸を導く導みちびく guide; leadためには、零細なる零細れいさいなる small; insignificant個人個人こじん individualsを団結して団結だんけつして unite; bring together、自己の自己じこの one's own運命運命うんめい fate; destinyを充実し充実じゅうじつし improve; enhance発展し発展はってんし develop; extend膨脹しなくてはならぬ膨脹ぼうちょうしなくてはならぬ must expand; must grow。今夕のビールとコーヒーは、かかるかかる concern; involve隠れたる隠かくれたる lie hidden; be dormant目的目的もくてき goal; objectiveを、一歩一歩いっぽ one step前前まえ forwardに進めた進すすめた advanced; furthered点において、普通のビールとコーヒーよりも百倍百倍ひゃくばい a hundred times以上の価価あたい valueある尊き尊とうとき precious; exaltedビールとコーヒーである。

演説演説えんぜつ speech; addressの意味意味いみ meaning; gistはざっとこんなものである。演説が済んだ済すんだ finished; ended時時とき time; moment、席席せき seatにあった学生学生がくせい studentsはことごとくことごとく one and all喝采した喝采かっさいした applauded; cheered。三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)はもっとも熱心なる熱心ねっしんなる enthusiastic; passionate喝采者喝采者かっさいしゃ people applauding (something)の一人一人ひとり one (person)であった。すると与次郎与次郎よじろう Yojirō (name)が突然突然とつぜん suddenly立った立たった stood up; rose。

「ダーターファブラダーターファブラ Latin phrase 'de te fabula' from Horace's Satires. Broader meaning: don't laugh - change the names and the story applies to you.、シェクスピヤシェクスピヤ Shakespeareの使った使つかった used字数字数じかず number of wordsが何万字何万字なんまんじ how many ten thousands (of words)だの、イブセンイブセン Henrik Johan Ibsen (Norwegian Playwright, 1828 – 1906, whose works include A Doll's House)の白髪白髪しらが gray hairsの数数かず numberが何千本何千本なんぜんぼん how many thousandsだのと言ってたって言いってたって even if one can sayしかたがない。もっともそんなばかげた講義講義こうぎ lectureを聞いた聞きいた listen toってとらわれるとらわれる be caught up in; be taken with気づかい気きづかい worry; concernはないから大丈夫大丈夫だいじょうぶ don't worry (about that)だが、大学大学だいがく universityに気の毒気きの毒どく is unbecoming of; is an affront toでいけない。どうしても新時代新時代しんじだい new ageの青年青年せいねん young menを満足させる満足まんぞくさせる satisfyような人間人間にんげん personageを引っ張って来なくっちゃ引ひっ張ぱって来こなくっちゃ must go out and recruit。西洋人西洋人せいようじん Westernerじゃだめだ。第一第一だいいち first of all幅がきかない幅はばがきかない have no influence; have no clout。……」

満堂満堂まんどう the whole audienceはまたことごとく喝采した。そうしてことごとく笑った笑わらった laughed。与次郎の隣隣となり next to; neighboring (place)にいた者者もの personが、

「ダーターファブラのために祝盃をあげよう祝盃しゅくはいをあげよう raise a toast」と言いだした。さっき演説をした学生がすぐに賛成した賛成さんせいした seconded (an idea)。あいにくビールがみな空空から emptyである。よろしいと言って与次郎はすぐ台所台所だいどころ kitchenの方方ほう directionへかけて行ったかけて行いった went running。給仕給仕きゅうじ serving staffが酒酒さけ sakéを持って出る持もって出でる brought; came out with。祝盃をあげるやいなや、

「もう一つ。今度今度こんど this timeは偉大なる偉大いだいなる great; mighty暗闇暗闇くらやみ darkness; voidのために」と言った者がある。与次郎の周囲周囲しゅうい proximityにいた者は声を合して声こえを合あわして in unison、アハハと笑った。与次郎は頭をかいて頭あたまをかいて scratch one's head (in thought)いる。

散会散会さんかい adjournmentの時刻時刻じこく time; hourが来て来きて came; arrived、若い若わかい young男男おとこ menがみな暗い暗くらい dark夜夜よる nightの中中なか middle; midstに散った散ちった scattered; dispersed (into)時に、三四郎が与次郎に聞いた。

「ダーターファブラとはなんの事だなんの事ことだ what is the meaning of ...」

「ギリシア語ギリシア語ご Greekだ」

与次郎はそれよりほかに答えなかった答こたえなかった didn't answer。三四郎もそれよりほかに聞かなかった。二人は美しい美うつくしい beautiful空をいただいて家家うち homesに帰った帰かえった returned (to)。

あくる日あくる日ひ the next dayは予想のごとく予想よそうのごとく as predicted好天気好天気こうてんき fine weatherである。今年今年ことし this yearは例年例年れいねん usual; typical (year)より気候気候きこう weatherがずっとゆるんでいるゆるんでいる be mild (weather)。ことさらきょうは暖かい暖あたたかい warm。三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)は朝朝あさ morningのうち湯湯ゆ bathに行った行いった went to。閑人閑人ひまじん person of leisure; person with time to killの少ない少すくない few世の中世よの中なか world; society; timesだから、午前午前ごぜん morningはすこぶるすいている。三四郎は板の間板いたの間ま wooden-floored room; bathhouse changing roomにかけてある三越三越みつこし Mitsukoshi (dry goods store; later department store)呉服店呉服店ごふくてん dry goods storeの看板看板かんばん signboard; advertisementを見た見みた saw。きれいな女女おんな womanがかいてある。その女の顔顔かお faceがどこか美禰子美禰子みねこ Mineko (name)に似て似にて resembleいる。よく見ると目つき目めつき expression (of the eyes)が違って違ちがって differentいる。歯並歯並はならび teethがわからない。美禰子の顔でもっとも三四郎を驚かした驚おどろかした impressed upon; struckものは目つきと歯並である。与次郎与次郎よじろう Yojirō (name)の説説せつ opinionによると、あの女は反っ歯反そっ歯ぱ buck teethの気味気味きみ a touch of; a shade ofだから、ああしじゅう歯歯は teethが出る出でる be visibleんだそうだが、三四郎にはけっしてそうは思えないそうは思おもえない didn't think so。……

三四郎は湯につかってこんな事こんな事こと these kinds of thingsを考えて考かんがえて think about; contemplateいたので、からだのほうはあまり洗わずに洗あらわずに without washing出た出でた came out; emerged。ゆうべから急に急きゅうに suddenly新時代新時代しんじだい new ageの青年青年せいねん young manという自覚自覚じかく consciousness; self awarenessが強くなった強つよくなった had grown strongerけれども、強いのは自覚だけで、からだのほうはもとのままである。休み休やすみ day offになるとほかの者者もの personsよりずっと楽にして楽らくにして take it easyいる。きょうは昼昼ひる noonから大学大学だいがく universityの陸上陸上りくじょう track and field (events)運動会運動会うんどうかい athletic meetを見に行く気気き inclinationである。

三四郎は元来元来がんらい essentially; by natureあまり運動好き運動好うんどうずき athletic; physically activeではない。国国くに one's home countryにいるとき兎狩り兎狩うさぎがり rabbit huntingを二、三度二に、三度さんど several timesしたことがある。それから高等学校高等学校こうとうがっこう high school (equivalent to modern-day college)の端艇競漕端艇ボート競漕きょうそう rowing competitionの時時とき time; occasionに旗振り旗振はたふり flagman; starter (race)の役役やく role; dutyを勤めた勤つとめた served asことがある。その時青青あお greenと赤赤あか redと間違えて間違まちがえて mix up; mistake振って振ふって waveたいへん苦情苦情くじょう complaint; grievanceが出た。もっとも決勝決勝けっしょう finals (competition)の鉄砲鉄砲てっぽう gunを打つ打うつ fire (a gun)係り係かかり person in chargeの教授教授きょうじゅ professorが鉄砲を打ちそくなった打うちそくなった failed to fire。打つには打ったが音音おと soundがしなかった。これが三四郎のあわてた原因原因げんいん causeである。それより以来それより以来いらい since then; since that time三四郎は運動会へ近づかなかった近ちかづかなかった stayed away from。しかしきょうは上京上京じょうきょう coming to Tōkyō以来はじめての競技会競技会きょうぎかい (athletic) competitionだから、ぜひ行ってみるつもりである。与次郎与次郎よじろう Yojirō (name)もぜひ行ってみろと勧めた勧すすめた advised; encouraged (to do)。与次郎の言うところによるとの言いうところによると according to ...競技より女のほうが見にゆく価値価値かち value; meritがあるのだそうだ。女のうちには野々宮野々宮ののみや Nonomiya (name)さんの妹妹いもうと (younger) sisterがいるだろう。野々宮さんの妹といっしょに美禰子もいるだろう。そこへ行って、こんちわとかなんとか挨拶挨拶あいさつ greeting; salutationをしてみたい。

昼過ぎ昼過ひるすぎ afternoonになったから出かけた出でかけた departed; set out。会場会場かいじょう venue; event siteの入口入口いりぐち entranceは運動場運動場うんどうじょう athletic groundsの南南みなみ south (side)のすみにある。大きな大おおきな large日の丸日ひの丸まる Japanese flagとイギリスの国旗国旗こっき national flagが交差してある交差こうさしてある were displayed together。日の丸は合点がいく合点がてんがいく made perfect senseが、イギリスの国旗はなんのためだかわからない。三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)は日英同盟日英同盟にちえいどうめい Anglo-Japanese Alliance (first established in 1902)のせいかとも考えた考かんがえた thought; considered。けれども日英同盟と大学大学だいがく universityの陸上陸上りくじょう track and field (event)運動会運動会うんどうかい athletic meetとは、どういう関係関係かんけい connectionがあるか、とんと見当がつかなかったとんと見当けんとうがつかなかった had not the slightest idea。

運動場は長方形長方形ちょうほうけい rectangularの芝生芝生しばふ lawnである。秋秋あき autumnが深い深ふかい be deep intoので芝芝しば grassの色色いろ colorがだいぶさめている。競技競技きょうぎ competitionを見る見みる watch; view所所ところ placeは西側西側にしがわ west sideにある。後後うしろ behind; (in) backに大きな築山築山つきやま artificial hill; bermをいっぱいに控えて控ひかえて hold; support、前前まえ frontは運動場の柵柵さく fenceで仕切られた仕切しきられた be partitioned off中中なか middleへ、みんなを追い込む追おい込こむ drive into; corralしかけしかけ contrivance; setupになっている。狭い狭せまい narrow; confinedわりに見物人見物人けんぶつにん spectators; onlookersが多い多おおい numerousのではなはだ窮屈窮屈きゅうくつ constrained; uncomfortableである。さいわい日和日和ひより weatherがよいので寒くはない寒さむくはない wasn't cold。しかし外套外套がいとう coatを着て着きて wearいる者者もの peopleがだいぶある。その代りその代かわり on the other hand; at the same time傘傘かさ parasolをさして来た来きた came; arrived女女おんな women; young ladiesもある。

三四郎が失望した失望しつぼうした was disappointedのは婦人席婦人席ふじんせき ladies' (seating) sectionが別別べつ separateになっていて、普通の普通ふつうの general; common人間人間にんげん peopleには近寄れない近寄ちかよれない can't approachことであった。それからフロックコートや何か何なにか something着た偉そうな偉えらそうな distinguished-looking男男おとこ menがたくさん集って集あつまって be gathered、自分自分じぶん oneselfが存外存外ぞんがい to an unexpected degree幅のきかない幅はばのきかない unimportant; lacking in influenceようにみえたことであった。新時代新時代しんじだい new ageの青年青年せいねん young manをもってみずからおる三四郎は少し少すこし a little; a bit小さくなって小ちいさくなって feel diminished; be brought down (a level)いた。それでも人人ひと personと人との間間あいだ space; gapから婦人席の方方ほう directionを見渡す見渡みわたす look over; surveyことは忘れなかった忘わすれなかった didn't forget。横横よこ sideからだからよく見えないが、ここはさすがにきれいである。ことごとく着飾って着飾きかざって dress up; be finely dressedいる。そのうえ遠距離遠距離えんきょり considerable distanceだから顔顔かお facesがみんな美しい美うつくしい beautiful。その代りその代かわり on the other handだれが目立って目立めだって notably; exceptionally美しいということもない。ただ総体総体そうたい the wholeが総体として美しい。女が男を征服する征服せいふくする overcome; subjugate色色いろ (pleasant) appearanceである。甲の女甲こうの女おんな one woman ...が乙の女乙おつの女おんな ... another womanに打ち勝つ打うち勝かつ prevail over; triumph over色ではなかった。そこで三四郎はまた失望した。しかし注意したら注意ちゅういしたら pay attention、どこかにいるだろうと思って思おもって thought; considered、よく見渡すと、はたして前列前列ぜんれつ front rowのいちばん柵に近い所に二人二人ふたり two (people)並んで並ならんで be side by side; be togetherいた。

三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)は目のつけ所目めのつけ所どころ point of interestがようやくわかったので、まず一段落一段落いちだんらく achievement of the first step; completion of an initial task告げた告つげた signaled; markedような気気き feelingで、安心して安心あんしんして relax; feel relievedいると、たちまち五、六人五ご、六人ろくにん five or six (people)の男男おとこ menが目の前に目めの前まえに before one's eyes飛んで出た飛とんで出でた came flying (into view)。二百メートル二百にひゃくメートル 200 meterの競走競走きょうそう raceが済んだ済すんだ finishedのである。決勝点決勝点けっしょうてん finish lineは美禰子美禰子みねこ Mineko (name)とよし子よし子こ Yoshiko (Nonomiya's younger sister)がすわっている真正面真正面まっしょうめん right in front ofで、しかも鼻の先鼻はなの先さき right before one's noseだから、二人二人ふたり two (people)を見つめて見みつめて gaze atいた三四郎の視線視線しせん line of sight; field of viewのうちにはぜひともこれらの壮漢壮漢そうかん valiant contendersがはいってくる。五、六人はやがて一二、三人一二じゅうに、三人さんにん twelve or thirteen (people)にふえた。みんな呼吸をはずませて呼吸いきをはずませて be short of breathいるようにみえる。三四郎はこれらの学生学生がくせい studentsの態度態度たいど manner; dispositionと自分の自分じぶんの one's own態度とを比べて比くらべて compareみて、その相違相違そうい dissimilarityに驚いた驚おどろいた was surprised (by)。どうして、ああ無分別に無分別むふんべつに recklessly; with abandonかける気気き inclinationになれたものだろうと思った思おもった wondered。しかし婦人婦人ふじん ladies連連れん party; company ofはことごとく熱心に熱心ねっしんに enthusiastically; intently見ている。そのうちでも美禰子とよし子はもっとも熱心らしい。三四郎は自分も無分別にかけてみたくなった。一番一番いちばん number one; firstに到着した到着とうちゃくした finished (the race)者者もの personが、紫紫むらさき purpleの猿股猿股さるまた shortsをはいて婦人席の方方ほう directionを向いて向むいて face; turn (toward)立って立たって standいる。よく見ると昨夜昨夜さくや the prior eveningの親睦会親睦会しんぼくかい social gathering; get-togetherで演説演説えんぜつ speech; addressをした学生に似て似にて resembleいる。ああ背が高くてはああ背せが高たかくては being that tall一番になるはずである。計測係り計測けいそく係がかり official in charge of measurementが黒板黒板こくばん blackboardに二十五秒七四二十五にじゅうご秒びょう七四ななよん 25.74 secondsと書いた書かいた wrote; recorded。書き終って書かき終おわって after recording、余りの余あまりの excess; left over白墨白墨はくぼく chalkを向こうへなげて、こっちを向いたところを見ると野々宮野々宮ののみや Nonomiya (name)さんであった。野々宮さんはいつになくいつになく unusually; uncharacteristicallyまっ黒なまっ黒くろな solid blackフロックフロック frock coatを着て着きて wear、胸胸むね chestに係り員係かかり員いん official (staff)の徽章徽章きしょう badgeをつけて、だいぶ人品がいい人品じんぴんがいい looking sharp。ハンケチを出して出だして take out、洋服洋服ようふく coat (Western clothing)の袖袖そで sleeveを二、三度二に、三度さんど several timesはたいたはたいた dusted offが、やがて黒板を離れて離はなれて move away from、芝生芝生しばふ lawn; grassの上上うえ top ofを横切って来た横切よこぎって来きた cut across; traversed。ちょうど美禰子とよし子のすわっているまん前まん前まえ directly in front ofの所所ところ placeへ出た出でた appeared。低い低ひくい low柵柵さく fenceの向こう側向むこう側がわ other side; opposite sideから首首くび headを婦人席の中中なか insideへ延ばして延のばして leaned forward (with)、何か何なにか something言って言いって say; commentいる。美禰子は立った。野々宮さんの所まで歩いてゆく歩あるいてゆく walked over to。柵の向こうとこちらで話話はなし conversationを始めた始はじめた beganように見える。美禰子は急に急きゅうに suddenly振り返った振ふり返かえった turned around; looked back。うれしそうな笑い笑わらい smile; grinにみちた顔顔かお faceである。三四郎は遠くから遠とおくから from a distance一生懸命に一生懸命いっしょうけんめいに with utmost effort二人を見守って見守みまもって watch attentively; observeいた。すると、よし子が立った。また柵のそばへ寄って行く寄よって行いく approached。二人が三人三人さんにん three (people)になった。芝生の中では砲丸投げ砲丸ほうがん投なげ shot putが始まった。

砲丸投げ砲丸ほうがん投なげ shot putほど力力ちから powerのいるものはなかろう。力のいるわりにこれほどおもしろくないものもたんとないたんとない few; not many (たんと = たくさん)。ただ文字どおり文字もじどおり exactly as stated砲丸砲丸ほうがん shot (cannon ball)を投げる投なげる throwのである。芸芸げい skill; techniqueでもなんでもない。野々宮野々宮ののみや Nonomiya (name)さんは柵柵さく fenceの所所ところ spot; placeで、ちょっとこの様子様子ようす scene; situationを見て見みて look at; watch笑って笑わらって laughいた。けれども見物見物けんぶつ watching; viewingのじゃまになると悪い悪わるい not good; in poor formと思った思おもった thought; consideredのであろう。柵を離れて離はなれて move away from芝生芝生しばふ grass; lawnの中中なか middleへ引き取った引ひき取とった withdrew (to)。二人二人ふたり two (people)の女女おんな women; young ladiesも、もとの席席せき seatsへ復した復ふくした returned (to)。砲丸は時々時々ときどき from time to time投げられている。第一第一だいいち first off; for one thingどのくらい遠く遠とおく distantまでゆくんだか、ほとんど三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)にはわからない。三四郎はばかばかしくなった。それでも我慢して我慢がまんして have patience; persevere立って立たって standいた。ようやくのことで片がついた片かたがついた was finished; was wrapped upとみえて、野々宮さんはまた黒板黒板こくばん blackboardへ十一メートル三八十一じゅういちメートル三八さんはち 11.38 metersと書いた書かいた wrote; recorded。

それからまた競走競走きょうそう raceがあって、長飛び長飛ながとび long jumpがあって、その次次つぎ nextには槌投げ槌つち投なげ hammer throwが始まった始はじまった started。三四郎はこの槌投げにいたって、とうとう辛抱辛抱しんぼう patience; enduranceがしきれなくなった。運動会運動会うんどうかい athletic competition; field dayはめいめいめいめい one by one; individuallyかってに開く開ひらく hold; conductべきものである。人人ひと people; a personに見せべき見みせべき should be shown (to)ものではない。あんなものを熱心に熱心ねっしんに enthusiastically; intently見物する女はことごとく間違って間違まちがって be unreasonable; be irrationalいるとまで思い込んで思おもい込こんで conclude; be convinced、会場会場かいじょう venue; event siteを抜け出して抜ぬけ出だして slip away from、裏裏うら back sideの築山築山つきやま artificial hill; bermの所まで来た来きた came (to)。幕幕まく curtain; tarpが張って張はって stretch; suspendあって通れない通とおれない could not pass (through)。引き返して引ひき返かえして turn back; retrace one's steps砂利砂利じゃり gravelの敷いて敷しいて spreadある所を少し少すこし a little; a bit来ると、会場から逃げた逃にげた stole away (from)人がちらほらちらほら here and there; in twos and threes歩いて歩あるいて walk; strollいる。盛装した盛装せいそうした lavishly dressed婦人婦人ふじん ladiesも見える。三四郎はまた右右みぎ rightへ折れて折おれて turned (toward)、爪先上り爪先上つまさきのぼり ascending pathを丘丘おか hill; heightのてっぺんまで来た。道道みち pathはてっぺんで尽きて尽つきて run out; come to an endいる。大きな大おおきな large石石いし boulderがある。三四郎はその上上うえ top ofへ腰をかけて腰こしをかけて sit down; seat oneself、高い高たかい tall; high崖崖がけ cliffの下下した below; beneathにある池池いけ pondをながめた。下の運動会場でわあというおおぜいの声声こえ (sound of) voicesがする。

三四郎はおよそ五分五分ごふん five minutesばかり石へ腰をかけたままぼんやりしていた。やがてまた動く動うごく move; set out気気き inclinationになったので腰を上げて腰こしを上あげて get up (from sitting)、立ちながら靴靴くつ shoesの踵踵かかと heelsを向け直す向むけ直なおす turn; shiftと、丘の上りぎわ上のぼりぎわ initial rise (start of a slope)の、薄く薄うすく thinly; faintly色づいた色いろづいた colored紅葉紅葉もみじ maple leavesの間間あいだ interval; midstに、さっきの女の影影かげ shape; formが見えた。並んで並ならんで side by side; together丘の裾裾すそ skirt; foot (of a hill)を通る。

三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)は上上うえ aboveから、二人二人ふたり two (people)を見おろして見みおろして look down onいた。二人は枝枝えだ branchesの隙隙すき gap; space (between)から明らかな明あきらかな clear; bright日向日向ひなた sunlightへ出て来た出でて来きた emerged (into)。黙って黙だまって remain quietいると、前前まえ aheadを通り抜けて通とおり抜ぬけて pass through; pass onしまう。三四郎は声をかけよう声こえをかけよう call out toかと考えた考かんがえた considered。距離距離きょり distanceがあまり遠すぎる遠とおすぎる too far。急いで急いそいで hurriedly二、三歩二に、三歩さんぽ several steps芝芝しば grassの上を裾裾すそ skirt; foot (of a hill)の方方ほう directionへ降りた降おりた descended。降り出す降おり出だす begin to descendといいぐあいに女女おんな young ladiesの一人一人ひとり one (person)がこっちを向いて向むいて turn (toward)くれた。三四郎はそれでとまった。じつはこちらからあまりごきげんをとりたくないごきげんをとりたくない was not in the mood to curry favor with。運動会運動会うんどうかい athletic competition; field dayが少し少すこし a little; a bit癪にさわって癪しゃくにさわって chafe at; irritateいる。

「あんな所所ところ place; locationに……」とよし子よし子こ Yoshiko (Nonomiya's younger sister)が言いだした言いいだした spoke out; spoke up。驚いて驚おどろいて in surprise笑って笑わらって smile; laughいる。この女はどんな陳腐な陳腐ちんぷな commonplaceものを見ても珍しそう珍めずらしそう taking great interest; finding fascinationな目つき目めつき (facial) expressionをするように思われる思おもわれる seemed to ...。その代りその代かわり at the same time; on the other hand、いかな珍しいものに出会って出会であって come across; encounterも、やはり待ち受けて待まち受うけて wait for; expectいたような目つきで迎える迎むかえる greetかと想像される想像そうぞうされる (it) could be imagined that ...。だからこの女に会う会あう meet; encounterと重苦しい重苦おもくるしい heavy; oppressiveところが少しもなくって、しかもおちついた感じ感かんじ feelingが起こる起おこる occur; come about。三四郎は立ったまま立たったまま still standing、これはまったく、この大きな大おおきな large、常に常つねに always; constantlyぬれている、黒い黒くろい black眸眸ひとみ pupilsのおかげだと考えた。

美禰子美禰子みねこ Mineko (name)も留まった留とまった stopped。三四郎を見た。しかしその目はこの時時とき time; occasionにかぎって何物をも訴えていなかった何物なにものをも訴うったえていなかった made no appeal; communicated no discord。まるで高い高たかい tall木木き treeをながめるような目であった。三四郎は心心こころ heart; mindのうちで、火火ひ fire; flameの消えた消きえた gone out; extinguishedランプを見る心持ち心持こころもち feelingがした。もとの所に立ちすくんでいる。美禰子も動かない動うごかない didn't move。

「なぜ競技競技きょうぎ competitionを御覧にならない御覧ごらんにならない not watchingの」とよし子が下下した belowから聞いた聞きいた asked。

「今今いま (just) nowまで見ていたんですが、つまらないからやめて来たのです」

よし子は美禰子を顧みた顧かえりみた looked back at。美禰子はやはり顔色顔色かおいろ countenance; expressionを動かさない。三四郎は、

「それより、あなたがたこそなぜ出て来たんです。たいへん熱心に熱心ねっしんに intently; ardently見ていたじゃありませんか」と当てた当あてた pressedような当てないようなことを大きな声大おおきな声こえ loud voice; strong voiceで言った。美禰子はこの時はじめて、少し少すこし a little; a bit笑った笑わらった smiled; grinned。三四郎にはその笑いの意味意味いみ meaningがよくわからない。二歩二歩にほ two stepsばかり女の方に近づいた近ちかづいた approached。

「もう宅宅うち homeへ帰る帰かえる return (home)んですか」

女女おんな young ladiesは二人二人ふたり two (people)とも答えなかった答こたえなかった didn't answer。三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)はまた二歩二歩にほ two stepsばかり女の方方ほう directionへ近づいた近ちかづいた approached。

「どこかへ行く行いく go (to)んですか」

「ええ、ちょっと」と美禰子美禰子みねこ Mineko (name)が小さな声小ちいさな声こえ low voice; soft voiceで言う言いう answered; replied。よく聞こえない聞きこえない couldn't hear; couldn't make out。三四郎はとうとう女の前前まえ front ofまで降りて来た降おりて来きた came down (to)。しかしどこへ行くとも追窮もしないで追窮ついきゅうもしないで without inquiring立って立たって standいる。会場会場かいじょう venue; event siteの方で喝采喝采かっさい acclamation; cheersの声が聞こえる。

「高飛び高飛たかとび high jumpよ」とよし子よし子こ Yoshiko (Nonomiya's younger sister)が言う。「今度今度こんど this timeは何メートル何なんメートル what height (how many meters)になったでしょう」

美禰子は軽く軽かるく lightly笑った笑わらった smiledばかりである。三四郎も黙って黙だまって remain silentいる。三四郎は高飛びに口を出す口くちを出だす comment onのをいさぎよしとしないいさぎよしとしない disdain (to do)つもりである。すると美禰子が聞いた。

「この上上うえ topには何か何なんか somethingおもしろいものがあって?」

この上には石石いし boulderがあって、崖崖がけ cliffがあるばかりである。おもしろいものがありようはずがない。

「なんにもないです」

「そう」と疑い疑うたがい doubtを残した残のこした left (room for)ように言った。

「ちょいと上がって上あがって go up; climbみましょうか」よし子が、快く快こころよく cheerfully言う。

「あなた、まだここを御存じない御存ごぞんじない not be familiar withの」と相手相手あいて companionの女はおちついて出た出でた replied; countered。

「いいからいらっしゃいよ」

よし子は先先さき aheadへ上る上のぼる went up; ascended。二人はまたついて行った。よし子は足足あし feet; legsを芝生芝生しばふ grassのはしまで出して出だして put out (as far as)、振り向きながら振ふり向むきながら turning to look back、

「絶壁絶壁ぜっぺき precipice; sheer dropね」と大げさな大おおげさな grandiose; exaggerated言葉言葉ことば wordsを使った使つかった used。「サッフォーサッフォー Sappho (female Greek lyric poet; ~630-570 BCE; according to one legend, ended her life by jumping off Leucadian cliffs)でも飛び込みそう飛とび込こみそう jump into; dive intoな所所ところ place; locationじゃありませんか」

美禰子と三四郎は声を出して笑った。そのくせ三四郎はサッフォーがどんな所から飛び込んだかよくわからなかった。

「あなたも飛び込んでごらんなさい」と美禰子が言う。

「私私わたし me? 飛び込みましょうか。でもあんまり水水みず waterがきたないわね」と言いながら、こっちへ帰って来た帰かえって来きた came back (toward)。

やがて女二人のあいだに用談用談ようだん discussion (of the matter at hand)が始まった始はじまった began。

「あなた、いらしって」と美禰子が言う。

「ええ。あなたは」とよし子が言う。

「どうしましょう」

「どうでも。なんならわたしちょっと行ってくるから、ここに待って待まって waitいらっしゃい」

「そうね」

なかなか片づかない片かたづかない not be settled; not be decided。三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)が聞いて聞きいて askみると、よし子よし子こ Yoshiko (Nonomiya's younger sister)が病院病院びょういん hospitalの看護婦看護婦かんごふ nurseのところへ、ついでだから、ちょっと礼礼れい greetings; respectsに行ってくる行いってくる go and ...んだと言う言いう explained。美禰子美禰子みねこ Mineko (name)はこの夏夏なつ summer自分自分じぶん oneselfの親戚親戚しんせき relative; relationが入院して入院にゅういんして be hospitalizedいた時時とき time; occasion近づきになった近ちかづきになった became close with看護婦を尋ねれば尋たずねれば visit; call on尋ねるのだが、これは必要必要ひつよう necessityでもなんでもないのだそうだ。

よし子は、すなおすなお frank; candidに気の軽い気きの軽かるい lighthearted; easy going女女おんな girlだから、しまいに、すぐ帰って来ます帰かえって来きます return; come backと言い捨てて言いい捨すてて say in parting、早足早足はやあし quick stepsに一人一人ひとり alone丘丘おか hillを降りて行った降おりて行いった went down; descended。止める止とめる stop; call backほどの必要もなし、いっしょに行くほどの事件事件じけん matter; affairでもないので、二人二人ふたり two (people)はしぜん後にのこる後あとにのこる remain behindわけになった。二人の消極な消極しょうきょくな passive態度態度たいど disposition; natureからいえば、のこるというより、のこされたかたちにもなる。

三四郎はまた石石いし boulderに腰をかけた腰こしをかけた sat down (on)。女は立って立たって standいる。秋秋あき autumnの日日ひ sunは鏡鏡かがみ mirrorのように濁った濁にごった muddied池池いけ pondの上上うえ surfaceに落ちた落おちた fell (on)。中中なか middleに小さな小ちいさな small島島しま islandがある。島にはただ二本の木二本にほんの木き two treesがはえている。青い青あおい green松松まつ pine treeと薄い薄うすい pale; faded紅葉紅葉もみじ maple (leaves)がぐあいよく枝枝えだ branchesをかわし合ってかわし合あって cross; intersect (with each other)、箱庭箱庭はこにわ box gardenの趣趣おもむき appearance; aspectがある。島を越して越こして move past; move beyond向こう側向むこう側がわ far sideの突き当り突つき当あたり end; stopがこんもりとこんもりと thickly; denselyどす黒くどす黒ぐろく darkly; duskily光って光ひかって glisten; reflectいる。女は丘の上からその暗い暗くらい dark木陰木陰こかげ shade of tree branchesを指さした指ゆびさした pointed to。

「あの木を知って知しって know of; be familiar withいらしって」と言う。

「あれは椎椎しい chinquapin oak」

女は笑い出した笑わらい出だした laughed。

「よく覚えて覚おぼえて rememberいらっしゃること」

「あの時の看護婦ですか、あなたが今今いま now; at present尋ねようと言ったのは」

「ええ」

「よし子さんの看護婦とは違う違ちがう differentんですか」

「違います。これは椎――といった看護婦です」

今度は三四郎が笑い出した。

「あすこですね。あなたがあの看護婦といっしょに団扇団扇うちわ (round) fanを持って持もって have; hold立っていたのは」

二人二人ふたり two (people)のいる所所ところ place; locationは高く高たかく at a height池池いけ pondの中中なか middleに突き出して突つき出だして jut out (into)いる。この丘丘おか hillとはまるで縁縁えん connectionのない小山小山こやま hill; knollが一段一段いちだん one level; one rank低く低ひくく low、右側右側みぎがわ right sideを走って走はしって runいる。大きな大おおきな large松松まつ pine treesと御殿御殿ごてん mansion; estate buildingの一角一角ひとかど one cornerと、運動会運動会うんどうかい athletic competition; field dayの幕幕まく curtain; tarpの一部一部いちぶ a part ofと、なだらかななだらかな gently-sloping芝生芝生しばふ lawnが見える見みえる were visible。

「熱い熱あつい hot日日ひ dayでしたね。病院病院びょういん hospitalがあんまり暑いものだから、とうとうこらえきれないで出てきた出でてきた came outの。――あなたはまたなんであんな所にしゃがんでいらしったんです」

「熱いからです。あの日ははじめて野々宮野々宮ののみや Nonomiya (name)さんに会って会あって meet、それから、あすこへ来てぼんやりしていたのです。なんだか心細くなって心細こころぼそくなって feeling lonely; feeling disheartened」

「野々宮さんにお会いになってから、心細くおなりになったの」

「いいえ、そういうわけじゃない」と言いかけて言いいかけて start to explain、美禰子美禰子みねこ Mineko (name)の顔顔かお faceを見たが、急に急きゅうに suddenly話頭話頭わだい topic (of conversation)を転じた転てんじた shifted; altered。

「野々宮さんといえば、きょうはたいへん働いてたいへん働はたらいて work hardいますね」

「ええ、珍しく珍めずらしく uncharacteristicallyフロックコートフロックコート frock coatをお着になってお着きになって wear――ずいぶん御迷惑御迷惑ごめいわく encumbered; inconveniencedでしょう。朝朝あさ morningから晩晩ばん evening; nightまでですから」

「だってだいぶ得意得意とくい self-satisfiedのようじゃありませんか」

「だれが、野々宮さんが。――あなたもずいぶんね」

「なぜですか」

「だって、まさか運動会の計測係り計測係けいそくがかり official in charge of measurementになって得意になるようなかたでもないでしょう」

三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)はまた話頭を転じた。

「さっきあなたの所へ来て何か何なにか something話して話はなして talk; converseいましたね」

「会場会場かいじょう venue; event siteで?」

「ええ、運動会の柵柵さく fenceの所で」と言ったが、三四郎はこの問問とい questionを急に撤回撤回てっかい withdrawal; retractionしたくなった。女女おんな she; the young ladyは「ええ」と言ったまま男の男おとこの his顔をじっと見ている。少し少すこし a little; a bit下唇下唇したくちびる lower lipをそらしてそらして bend; curl笑いかけて笑わらいかけて show a smileいる。三四郎はたまらなくなった。何か言ってまぎらそうとしたまぎらそうとした was about to change the subject時時とき time; momentに、女は口を開いた口くちを開ひらいた spoke。

「あなたはまだこのあいだの絵はがき絵えはがき picture postcardの返事返事へんじ responseをくださらないのね」

三四郎はまごつきながらまごつきながら flustered; caught off guard「あげます」と答えた答こたえた answered。女はくれともなんとも言わない。

「あなた、原口原口はらぐち Haraguchi (name)さんという画工画工えかき painter; artistを御存じ御存ごぞんじ know of; be familiar with?」と聞き直した聞きき直なおした followed with a further question。

「知りません知しりません don't know」

「そう」

「どうかしましたか」

「なに、その原口さんが、きょう見に来て見みに来きて come to seeいらしってね、みんなを写生して写生しゃせいして sketch; drawいるから、私たち私わたしたち we; usも用心しないと用心ようじんしないと if (we're) not careful、ポンチポンチ caricature drawing (based on magazine called Japan Punch)にかかれるからって、野々宮野々宮ののみや Nonomiya (name)さんがわざわざ注意して注意ちゅういして caution; warnくだすったんです」

美禰子美禰子みねこ Mineko (name)はそばへ来て腰をかけた腰こしをかけた sat down。三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)は自分自分じぶん oneselfがいかにも愚物愚物ぐぶつ foolのような気気き feelingがした。

「よし子よし子こ Yoshiko (Nonomiya's younger sister)さんはにいさんといっしょに帰らない帰かえらない (not) return homeんですか」

「いっしょに帰ろうったって帰れないわ。よし子さんは、きのうから私の家家うち houseにいるんですもの」

三四郎はその時時とき time; occasionはじめて美禰子から野々宮のおっかさんが国国くに country; one's native placeへ帰ったということを聞いた。おっかさんが帰ると同時にと同時どうじに at the same time、大久保大久保おおくぼ Ōkubo (place name)を引き払って引ひき払はらって clear out of; vacate、野々宮さんは下宿下宿げしゅく lodgingsをする、よし子は当分当分とうぶん for the time being; for a while美禰子の家から学校学校がっこう schoolへ通う通かよう commute (to)ことに、相談がきまった相談そうだんがきまった was agreed; was settledんだそうである。

三四郎はむしろ野々宮さんの気楽な気楽きらくな easy going; happy-go-luckyのに驚いた驚おどろいた was surprised at。そうたやすくたやすく simply; easily下宿生活生活せいかつ living; lifestyleにもどるくらいなら、はじめから家を持たない持もたない not haveほうがよかろう。第一第一だいいち first of all; to begin with鍋鍋なべ pots、釜釜かま kettle、手桶手桶ておけ pail; bucketなどという世帯道具世帯しょたい道具どうぐ household waresの始末始末しまつ disposition; dealingsはどうつけたろうと、よけいなことまで考えた考かんがえた thought about; consideredが、口に出して言う口くちに出だして言いう verbalize; make a remarkほどのことでもないから、べつだんの批評批評ひひょう commentaryは加えなかった加くわえなかった didn't add。そのうえ、野々宮さんが一家一家いっか householdの主人主人あるじ head (of a household)から、あともどりをして、ふたたび純書生純じゅん書生しょせい true studentと同様な同様どうような identical; equal to生活状態状態じょうたい situation; circumstancesに復する復ふくする revert toのは、とりもなおさずとりもなおさず in other words家族家族かぞく family制度制度せいど systemから一歩一歩いっぽ one step; one level遠のいた遠とおのいた moved away fromと同じ同おなじ the sameことで、自分にとっては、目前目前もくぜん before one's eyes; close at handの迷惑迷惑めいわく trouble; concernを少し少すこし a little; a bit長距離長距離ちょうきょり further distanceへ引き移した引ひき移うつした moved; shifted (to)ような好都合好都合こうつごう expedience; convenienceにもなる。その代りその代かわり at the same time; on the other handよし子が美禰子の家へ同居して同居どうきょして reside with (someone)しまった。この兄妹兄妹きょうだい brother and sisterは絶えず絶たえず constantly往来して往来おうらいして visit; associateいないと治まらない治おさまらない can't be at peace; can't be satisfiedようにできあがっている。絶えず往来しているうちには野々宮さんと美禰子との関係関係かんけい connectionも次第次第に次第次第しだいしだいに gradually; bit by bit移って移うつって change; evolveくる。すると野々宮さんがまたいつなんどき下宿生活を永久に永久えいきゅうに permanently; for goodやめる時機時機じき opportunity; chanceがこないともかぎらない。

三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)は頭頭あたま head; mindのなかに、こういう疑い疑うたがい doubt; uncertaintyある未来未来みらい futureを、描きながら描えがきながら draw; depict、美禰子美禰子みねこ Mineko (name)と応対をして応対おうたいをして deal with; keep companyいる。いっこうに気が乗らない気きが乗のらない not be engaged; not find interest in。それを外部の外部がいぶの external; superficial態度態度たいど manner; behaviorだけでも普通普通ふつう usual; alwaysのごとくつくろおうとすると苦痛苦痛くつう pain; discomfortになってくる。そこへうまいぐあいによし子よし子こ Yoshiko (Nonomiya's younger sister)が帰ってきて帰かえってきて came back; returnedくれた。女同志のあいだ女おんな同志どうしのあいだ among the young ladiesには、もう一ぺんもう一いっぺん one more time競技競技きょうぎ competitionを見に行こう見みに行いこう go and watchかという相談相談そうだん discussionがあったが、短くなりかけた短みじかくなりかけた had grown shorter秋秋あき autumnの日日ひ dayがだいぶ回った回まわった run its course; be pastのと、回るにつれて、広い広ひろい wide; open戸外戸外こがい outdoorsの肌寒肌寒はださむ autumn chillがようやく増してくる増ましてくる increase; intensifyので、帰ることに話がきまる話はなしがきまる settled; decided (upon)。

三四郎も女連女おんな連れん the ladiesに別れて別わかれて separate (from); take leave of下宿下宿げしゅく lodgingsへもどろうと思った思おもった thought toが、三人三人さんにん three (people)が話しながら、ずるずるべったりに歩き出した歩あるき出だした set off walkingものだから、きわだったきわだった clear-cut挨拶挨拶あいさつ salutationをする機会機会きかい chance; opportunityがない。二人二人ふたり two (people)は自分自分じぶん oneselfを引っ張って引ひっ張ぱって pull; drag alongゆくようにみえる。自分もまた引っ張られてゆきたいような気がする。それで二人にくっついて池池いけ pondの端端はた edgeを図書館図書館としょかん libraryの横横よこ side (of)から、方角違い方角ほうがく違ちがい wrong directionの赤門赤門あかもん Red Gateの方方ほう directionへ向いて向むいて turn; head (toward)きた。そのとき三四郎は、よし子に向かって、

「お兄いさんお兄あにいさん (your) older brotherは下宿をなすったそうですね」と聞いたら聞きいたら asked、よし子は、すぐ、

「ええ。とうとう。ひとを美禰子さんの所所ところ placeへ押しつけて押おしつけて push; force (on)おいて。ひどいでしょう」と同意同意どうい sympathyを求める求もとめる seek; wish forように言った言いった replied。三四郎は何か何なにか something返事返事へんじ answerをしようとした。そのまえに美禰子が口を開いた口くちを開ひらいた spoke。

「宗八宗八そうはち Sōhachi (Nonomiya's first name)さんのようなかたは、我々我々われわれ we; usの考え考かんがえ reckoning; way of thinkingじゃわかりませんよ。ずっと高い高たかい elevated; lofty所にいて、大きな大おおきな great; important事事こと affairs; mattersを考えていらっしゃるんだから」と大いに野々宮野々宮ののみや Nonomiya (name)さんをほめだした。よし子は黙って黙だまって remain silent聞いている。

学問学問がくもん scholarship; researchをする人人ひと personsがうるさい俗用俗用ぞくよう worldly mattersを避けて避さけて avoid、なるべく単純な単純たんじゅんな simple; austere生活生活せいかつ lifestyleにがまんするのは、みんな研究研究けんきゅう research; studiesのためやむをえないんだからしかたがない。野々宮野々宮ののみや Nonomiya (name)のような外国外国がいこく foreign landsにまで聞こえる聞きこえる be heard; make an impressionほどの仕事仕事しごと workをする人が、普通の普通ふつうの ordinary学生学生がくせい student同様な同様どうような identical; equal to下宿下宿げしゅく lodgingsにはいっているのも必竟必竟ひっきょう in the end; in short野々宮が偉い偉えらい eminent; distinguishedからのことで、下宿がきたなければきたないほど尊敬尊敬そんけい respect; esteemしなくってはならない。――美禰子美禰子みねこ Mineko (name)の野々宮に対するに対たいする with regard to賛辞賛辞さんじ compliment; praiseのつづきは、ざっとこうである。

三四郎三四郎さんしろう Sanshirō (name)は赤門赤門あかもん Red Gateの所所ところ place; locationで二人二人ふたり two (people)に別れた別わかれた parted (from); took leave (of)。追分追分おいわけ Oiwake (place name)の方方ほう directionへ足を向けながら足あしを向むけながら heading toward考えだした考かんがえだした began to think。――なるほど美禰子の言った言いった said; expoundedとおりである。自分自分じぶん oneselfと野々宮を比較して比較ひかくして compareみるとだいぶ段段だん grade; rankが違う違ちがう be different。自分は田舎田舎いなか the countryから出て出でて arrive大学大学だいがく universityへはいったばかりである。学問という学問もなければ、見識見識けんしき views; insightsという見識もない。自分が、野々宮に対するほどな尊敬を美禰子から受けえない受うけえない cannot receiveのは当然当然とうぜん natural; reasonableである。そういえばなんだか、あの女女おんな young ladyからばかにされているようでもある。さっき、運動会運動会うんどうかい athletic meetはつまらないから、ここにいると、丘丘おか hillの上上うえ top ofで答えた答こたえた answered時時とき time; occasionに、美禰子はまじめな顔顔かお face; (facial) expressionをして、この上には何か何なにか somethingおもしろいものがありますかと聞いた聞きいた asked。あの時は気がつかなかった気きがつかなかった took no notice; didn't realize (it)が、いま解釈して解釈かいしゃくして explain; interpretみると、故意に故意こいに purposely; intentionally自分を愚弄した愚弄ぐろうした mocked; ridiculed言葉言葉ことば words; expressionかもしれない。――三四郎は気がついて、きょうまで美禰子の自分に対する態度態度たいど attitude; behaviorや言語言語げんご language; wordsを一々一々いちいち one by one繰り返して繰くり返かえして review; go overみると、どれもこれもみんな悪い悪わるい unfavorable意味意味いみ meaning; nuanceがつけられる。三四郎は往来往来おうらい streetのまん中まん中なか middle (of)でまっ赤まっ赤か bright redになってうつむいた。ふと、顔を上げる上あげる lift; raiseと向こうから、与次郎与次郎よじろう Yojirō (name)とゆうべの会会かい gathering; assemblyで演説演説えんぜつ speech; addressをした学生が並んで並ならんで together; side by side来た来きた came; approached。与次郎は首を縦に振った首くびを縦たてに振ふった noddedぎり黙って黙だまって remain silentいる。学生は帽子帽子ぼうし hat; capをとって礼礼れい greeting; salutationをしながら、

「昨夜昨夜さくや last nightは。どうですか。とらわれちゃいけませんよ」と笑って笑わらって grinned; laughed行き過ぎた行いき過すぎた passed on; went by。