じゅう (part) 10

二人二人ふたり two (people); the two of us帰るかえる returnとき歩きながらあるきながら while walking沈黙沈黙ちんもく silence一丁一丁いっちょう 1 chō (about 110 meters; about 120 yards)二丁二丁にちょう 2 chō (about 220 meters; about 240 yards)もつづいた。そのあと after突然突然とつぜん suddenly先生先生せんせい Sensei (elder one; teacher - used here as form of address)口を利き出したくちした spoke; broke the silence

悪いわるい bad; wrong; shamefulこと act; action; deedをした。怒って出たおこってた left in angerからさい (my) wifeはさぞ心配心配しんぱい worry; concernをしているだろう。考えるかんがえる think about; considerおんな women可哀そうな可哀かわいそうな poor; pitiable; unfortunateものですね。わたくし I; meの妻などは私より外にほかに apart fromまるで頼りにするたよりにする depend onものがないんだから」

先生の言葉言葉ことば wordsはちょっとそこで途切れた途切とぎれた stopped; broke offが、別にべつに particularly私の返事返事へんじ reply; response期待する期待きたいする expect; look for様子様子ようす sign; indicationもなく、すぐその続きつづき continuation移って行ったうつってった transitioned to; went on with

「そういうと、おっと husbandほう alternativeはいかにも心丈夫心丈夫こころじょうぶ steadfast; self-assuredのようで少しすこし a little; a bit滑稽滑稽こっけい ridiculous; absurdだが。きみ you (used here as form of address)、私は君の eyesにどう映りますうつります reflect; be seenかね。強いつよい strong; resilientひと person; man見えますえます appear (as)か、弱いよわい weak; frail人に見えますか」

中位中位ちゅうぐらい about medium; somewhere in the middleに見えます」と私は答えたこたえた replied; answered。この答えは先生にとって少し案外案外あんがい unexpectedらしかった。先生はまた口を閉じてくちじて became silent無言で無言むごんで without words; without speaking歩き出したあるした began walking

先生のうち house; homeへ帰るには私の下宿下宿げしゅく lodgingsのついそば vicinity通るとおる pass throughのが順路順路じゅんろ usual routeであった。私はそこまで来てて come (to)曲り角まがかど corner (where one would turn)分れるわかれる part; take leave ofのが先生に済まないまない be unbecoming (toward); not be right (by)ような feelingがした。「ついでにお宅たく (your) houseまえ front ofまでお伴しましょうともしましょう accompanyか」といった。先生は忽ちたちまち promptly; at once hand (gesture; movement)で私を遮ったさえぎった checked; suppressed; stopped

「もう遅いおそい lateから早くはやく soon帰りたまえかえりたまえ please return home。私も早く帰ってやるんだから、妻君妻君さいくん one's wifeのために」

先生が最後に最後さいごに finally; at the last; in parting付け加えたくわえた added「妻君のために」という言葉言葉ことば words妙にみょうに strangely; curiouslyそのとき time; occasionの私のこころ heart; soul暖かにしたあたたかにした warmed。私はその言葉のために、帰ってから安心して安心あんしんして relax; rest assured寝るる turn in; sleep事ができたことができた was able to ...。私はその後その thereafter長い間ながあいだ a long whileこの「妻君のために」という言葉を忘れなかったわすれなかった did not forget

先生と奥さんおくさん wifeの間あいだ between ...起ったおこった occurred; took place波瀾波瀾はらん disturbance; discordが、大したたいした significant; of importanceものでない事はこれでも解ったわかった understood; realized。それがまた滅多に滅多めったに rarely; seldom (with negative verb)起る現象現象げんしょう phenomenon; happeningでなかった事も、その後絶えずえず always; regularly出入りをして来た出入でいりをしてた came and went; visited私にはほぼ推察ができた推察すいさつができた could surmise; could conclude。それどころか先生はある時こんな感想感想かんそう impression; thoughtすら私に洩らしたらした shared; divulged; confided

わたくし I; me世の中なか the worldおんな womanというものをたった一人一人ひとり one (person)しか知らないらない know; be familiar withさい (my) wife以外以外いがい apart fromの女はほとんど女として私に訴えないうったえない not register; not appeal to one; not touch one's heartのです。妻のほう alternativeでも、私を天下天下てんか under heaven; (in) the whole worldにただ一人しかないおとこ man思っておもって think (of); regard (as)くれています。そういう意味意味いみ meaning; senseからいって、私たちは最ももっとも most; extremely幸福幸福こうふく happiness; well-being; contentment生れたうまれた born (into); blessed (with)人間人間にんげん people; human beings一対一対いっつい pair; coupleであるべきはずです」

私はいま now; the present前後前後ぜんご before and after; preceding and following行き掛りがかり circumstances忘れてわすれて forgetしまったから、先生先生せんせい Sensei (elder one; teacher - used here as form of address)なん whatのためにこんな自白自白じはく confession; affirmationを私にして聞かせたかせた informed; told; sharedのか、判然判然はっきり clearly; succinctlyいう事ができないことができない cannot ...; am not able to ...。けれども先生の態度態度たいど demeanor真面目真面目まじめ serious; earnestであったのと、調子調子ちょうし manner; mood沈んでしずんで be subdued; be somberいたのとは、いまだに記憶記憶きおく memory残ってのこって remainいる。そのとき time; occasionただ私のみみ ears異様に異様いように odd; strange響いたひびいた remained; left an impressionのは、「最も幸福に生れた人間の一対であるべきはずです」という最後の最後さいごの final一句一句いっく phraseであった。先生はなぜ幸福な人間といい切らないでいいらないで assert; state unequivocally、あるべきはずであると断わったことわった backed off of; qualifiedのか。私にはそれだけが不審不審ふしん question; doubt; mysteryであった。ことにそこへ一種の一種いっしゅの a certain kind ofちから force; emphasis入れたれた put into; place onto先生の語気語気ごき tone of voice; manner of speakingが不審であった。先生は事実事実じじつ in fact; in truthはたして幸福なのだろうか、また幸福であるべきはずでありながら、それほど幸福でないのだろうか。私は心の中こころうち within one's heart; to oneself疑らざるを得なかったうたぐらざるをなかった had to question; was left to puzzle over。けれどもその疑いは一時限り一時いちじかぎり only momentary; only temporaryどこかへ葬られてほうむられて was set aside; was laid to restしまった。

私はそのうち先生の留守留守るす absence行ってって go; visit奥さんおくさん Sensei's wifeと二人差向い差向さしむかい face to face話をするはなしをする talk; converse機会機会きかい chance; opportunity出合った出合であった met with; happened upon。先生はその day横浜横浜よこはま Yokohama出帆する出帆しゅっぱんする sail from; depart (by ship) from汽船汽船きせん steam ship; steamer乗ってって ride on; board外国外国がいこく foreign country; overseasへ行くべき友人友人ゆうじん friend; acquaintance新橋新橋しんばし Shinbashi (place name)送りに行っておくりにって go to see (someone) off留守であった。横浜からふね shipに乗るひと people; personsが、あさ morning八時半八時半はちじはん half past eight汽車汽車きしゃ (steam) trainで新橋を立つつ depart (from)のはそのころ time; period習慣習慣しゅうかん custom; usual practiceであった。私はある書物書物しょもつ book; textについて先生に話してはなして talk (with); consultもらう必要必要ひつよう need; necessityがあったので、あらかじめ先生の承諾を得た承諾しょうだくた reached agreement; arranged通りとおり just as ...約束約束やくそく promise; agreement; appointment九時九時くじ nine (o'clock)訪問した訪問ほうもんした called on。先生の新橋行き新橋しんばしき outing to Shinbashi前日前日ぜんじつ the day before; the prior dayわざわざ告別告別こくべつ farewell; leave-taking来たた came; called友人に対するたいする with regard to礼義礼義れいぎ courtesyとしてその日突然突然とつぜん suddenly起ったおこった arose; came up出来事出来事できごと affair; happeningであった。先生はすぐ帰るかえる return; come backから留守でも私に待ってって waitいるようにといい残していいのこして leave instructions行った。それで私は座敷座敷ざしき sitting room; parlor上がってがって enter (up) into、先生を待つあいだ while ...、奥さんと話をした。

十一十一じゅういち (part) 11

そのとき timeわたくし I; meはすでに大学生大学生だいがくせい university student (equivalent to modern-day graduate student)であった。始めてはじめて for the first time先生先生せんせい Sensei (elder one; teacher - used here as form of address)うち house; home来たた came (to); called (at)ころ time; periodから見るる look; view (from)とずっと成人した成人せいじんした grew; matured feelingでいた。奥さんおくさん Sensei's wifeとも大分大分だいぶ very much; a great deal懇意懇意こんい friendship; familiar termsになったのち afterであった。私は奥さんに対してたいして with respect to; regarding何のなんの (no)thing; (none) whatsoever窮屈窮屈きゅうくつ discomfort; strain感じなかったかんじなかった did not feel差向い差向さしむかい face to face色々の色々いろいろの variousはなし talk; discussionをした。しかしそれは特色特色とくしょく specific nature; distinguishing pointのないただの談話談話だんわ discourse; conversationだから、いま now; the presentではまるで忘れてわすれて forgetしまった。そのうちでたった一つひとつ one (thing)私の耳に留まったみみまった remained with one; impressed one (upon hearing)ものがある。しかしそれを話すはなす explain; speak ofまえ beforeに、ちょっと断っておきたいことわっておきたい need to preface with; need to state beforehandこと matterがある。

先生は大学出身大学だいがく出身しゅっしん university graduateであった。これは始めから私に知れていたれていた was known (to)。しかし先生の何もしないでなにもしないで have no occupation遊んであそんで live an idle life; be a man of leisureいるという事は、東京東京とうきょう Tōkyō帰ってかえって return (to)少しすこし a little; a bit経ってって pass; elapse (time)から始めて分ったわかった learned; became aware of。私はその時どうして遊んでいられるのかと思ったおもった wondered

先生はまるで世間世間せけん society; the world名前名前なまえ nameを知られていないひと person; manであった。だから先生の学問学問がくもん scholarship; learning思想思想しそう thoughts; ideasについては、先生と密切の密切みっせつの close; tight (usually 密接みっせつの)関係関係かんけい (personal) bond; relationshipをもっている私より外にほかに other than; apart from敬意を払う敬意けいいはらう appreciate; hold in esteemもののあるべきはずがなかった。それを私は常につねに always; at every occasion惜しいしい unfortunate; regrettable事だといった。先生はまた「私のようなものが世の中なか society; the world出てて go into; appear in口を利いてくちいて speak; make one's voice heard済まないまない be unbecoming (toward); not be right (by)」と答えるこたえる reply; respondぎりぎり only ...; merely ...で、取り合わなかったわなかった did not pay heed to; dismissed; brushed aside。私にはその答えが謙遜過ぎて謙遜けんそんぎて overly modest; excessively deferentialかえって世間世間せけん the world; society冷評する冷評れいひょうする show disdain for; scornようにも聞こえたこえた sounded; came across as実際実際じっさい in fact; indeed先生は時々時々ときどき from time to time; on occasionむかし old days; former times同級生同級生どうきゅうせい classmateで今著名著名ちょめい well-known; celebratedになっている誰彼誰彼だれかれ some certain person捉えてとらえて seize on (as topic of discourse)、ひどく無遠慮な無遠慮ぶえんりょな blunt; brutal批評批評ひひょう criticism; commentary加えるくわえる unleash (on)事があった。それで私は露骨に露骨ろこつに frankly; candidlyその矛盾矛盾むじゅん contradiction挙げてげて raise; cite (as a point of argument)云々して云々うんぬんして mention; comment onみた。私の精神精神せいしん intention反抗反抗はんこう defiance; dissent意味意味いみ meaning; natureというよりも、世間が先生を知らないで平気でいる平気へいきでいる be indifferentのが残念残念ざんねん disappointing; regrettableだったからである。その時先生は沈んだしずんだ subdued; somber調子調子ちょうし manner; moodで、「どうしても私は世間に向かってかって face; turn toward働き掛けるはたらける apply oneself to; exert one's influence on資格資格しかく qualifications; competenceのないおとこ manだから仕方がありません仕方しかたがありません it's no use; there's nothing for it」といった。先生のかお faceには深いふかい deep; profound一種の一種いっしゅの a certain kind of表情表情ひょうじょう expressionありありとありありと clearly; distinctly刻まれたきざまれた be chiseled; be engraved。私にはそれが失望失望しつぼう despair; despondenceだか、不平不平ふへい discontent; dissatisfactionだか、悲哀悲哀ひあい sorrow; griefだか、解らなかったわからなかった did not know; could not discernけれども、何しろなにしろ at any rate二の句の継げないげない be at a loss for words (lit: unable to string two words together)ほどに強いつよい powerful; intenseものだったので、私はそれぎり何もいう勇気勇気ゆうき courage; nerveが出なかった。

わたくし I; me奥さんおくさん Sensei's wife話してはなして talk; converse (with)いる間にあいだに while ...問題問題もんだい subject; topic自然自然しぜん naturally; in due course先生先生せんせい Sensei (elder one; teacher - used here as form of address)の事こと concerning ...からそこへ落ちて来たちてた fell to; landed on

「先生はなぜああやって、うち house; home考えたりかんがえたり consider; contemplate; reflect on勉強したり勉強べんきょうしたり study; researchなさるだけで、世の中なか society; the world出てて go into; appear in仕事仕事しごと occupation; employmentをなさらないんでしょう」

「あのひと person; man駄目駄目だめ hopeless; impossible; out of the questionですよ。そういう事が嫌いきらい not to one's likingなんですから」

「つまり下らないくだらない foolish; of no worth事だと悟ってさとって perceive; sense (as)いらっしゃるんでしょうか」

「悟るの悟らないのって、――そりゃおんな womanだからわたくしには解りませんわかりません don't know; can't tellけれど、おそらくそんな意味意味いみ meaning; senseじゃないでしょう。やっぱり何かなにか somethingやりたいのでしょう。それでいてできないんです。だから気の毒どく unfortunate; pitiableですわ」

「しかし先生は健康健康けんこう health; physical conditionからいって、別にべつに particularlyどこも悪いわるい poor; inferior; out of sortsところはないようじゃありませんか」

丈夫丈夫じょうぶ healthy; strong; robustですとも。何にもなんにも (no)thing持病持病じびょう chronic illnessはありません」

「それでなぜ活動活動かつどう endeavor; effort; engagementができないんでしょう」

「それが解らないのよ、あなた。それが解るくらいなら私だって、こんなに心配心配しんぱい worryしやしません。わからないから気の毒でたまらないんです」

奥さんの語気語気ごき tone of voice; manner of speakingには非常に非常ひじょうに very much; exceedingly同情同情どうじょう sympathy; compassionがあった。それでも口元口元くちもと mouth; lipsだけには微笑微笑びしょう smile; hint of a smile見えたえた appeared外側外側そとがわ outside; exteriorからいえば、私のほう alternative (of two things)がむしろ真面目真面目まじめ serious; intentだった。私はむずかしいかお face; facial expressionをして黙っていただまっていた remained silent。すると奥さんが急にきゅうに suddenly思い出したおもした remembered; recollectedようにまた口を開いたくちひらいた spoke

若いわかい youngとき time; periodはあんな人じゃなかったんですよ。若い時はまるで違っていましたちがっていました was different。それが全くまったく completely; utterly変ってしまったかわってしまった changedんです」

「若い時っていつ頃いつごろ (about) whenですか」と私が聞いたいた asked

書生時代書生しょせい時代じだい student daysよ」

「書生時代から先生を知ってって know; be acquainted withいらっしゃったんですか」

奥さんは急に薄赤い薄赤うすあかい lightly flushed (red)顔をした。

十二十二じゅうに (part) 12

奥さんおくさん Sensei's wife東京東京とうきょう Tōkyōひと personであった。それはかつて先生先生せんせい Sensei (elder one; teacher - used here as form of address)からも奥さん自身自身じしん oneself; herselfからも聞いていて hear知っていたっていた knew; was aware of。奥さんは「本当本当ほんとう truthいうと合の子あい person of mixed parentage; child of mixed bloodなんですよ」といった。奥さんの父親父親ちちおや fatherはたしか鳥取鳥取とっとり Tottori (city or prefecture in western Honshū on Japan Sea side)かどこかの出 a native of ...であるのに、お母さんかあさん motherほう alternative (of two things)はまだ江戸江戸えど Edo (former name for Tōkyō)といった時分時分じぶん time; period市ヶ谷市ヶ谷いちがや Ichigaya (place name; part of Tōkyō)生れたうまれた was born (in)おんな womanなので、奥さんは冗談半分冗談じょうだん半分はんぶん half jokinglyそういったのである。ところが先生は全くまったく completely; entirely方角方角ほうがく direction; bearing違いちがい different新潟県人新潟にいがた県人けんじん native of Niigata prefecture (eastern Honshū on Japan Sea side)であった。だから奥さんがもし先生の書生時代書生しょせい時代じだい student daysを知っているとすれば、郷里郷里きょうり home town; one's native place関係関係かんけい connectionからでないこと fact明らかあきらか clear; evidentであった。しかし薄赤い薄赤うすあかい lightly flushed (red)かお faceをした奥さんはそれより以上以上いじょう further; beyondはなし talk (of)をしたくないようだったので、わたくし I; meの方でも深くふかく deeply; in depthは聞かずにおいた。

先生と知り合いになっていになって become acquainted withから先生の亡くなるくなる die; pass awayまでに、私はずいぶん色々の色々いろいろの various問題問題もんだい questions; issues; mattersで先生の思想思想しそう thoughts; ideas情操情操じょうそう sensibility; sentiment触れてれて come in contact (with); be exposed toみたが、結婚結婚けっこん marriage当時当時とうじ the time of ...状況状況じょうきょう circumstances; situationについては、ほとんど何ものもなにものも (no)thing聞き得なかったなかった never came to hear; was never able to learn。私は時によるとときによると at times; depending on circumstance、それを善意善意ぜんい virtuous intention; good faith解釈して解釈かいしゃくして take; interpret (as)もみた。年輩の年輩ねんぱいの older; elder先生の事だから、艶めかしいなまめかしい lascivious; ribald回想回想かいそう reflection; reminiscenceなどを若いものわかいもの younger manに聞かせるのはわざと慎んでつつしんで exercise discretion; refrain fromいるのだろうと思ったおもった thought; figured。時によると、またそれを悪くわるく in a bad sense; as a fault取ったった took (as)。先生に限らずかぎらず not limited to; not only、奥さんに限らず、二人とも二人ふたりとも the two of them; the both of them私に比べるくらべる compareと、一時代一時代いちじだい one generationまえ before; earlier因襲因襲いんしゅう conventions; customs; traditionsのうちに成人した成人せいじんした grew up; came of ageために、そういう艶っぽいつやっぽい romantic; amorous問題になると、正直に正直しょうじきに honestly; candidly自分自分じぶん oneself開放する開放かいほうする open; throw openだけの勇気勇気ゆうき courageがないのだろうと考えたかんがえた thought; considered。もっともどちらも推測推測すいそく conjectureに過ぎなかったぎなかった was nothing more than ...。そうしてどちらの推測のうら undersurface; reverse sideにも、二人の結婚のおく interior; core横たわるよこたわる lie across; occupy花やかなはなやかな bright; brilliantロマンスロマンス romance存在存在そんざい existence仮定して仮定かていして assume; supposeいた。

私の仮定ははたして誤らなかったあやまらなかった was not in error。けれども私はただこい (romantic) love半面半面はんめん one side; half ofだけを想像想像そうぞう imagination描き得たえがた was able to pictureに過ぎなかった。先生は美しいうつくしい beautiful; pure恋愛恋愛れんあい love; romantic affectionsの裏に、恐ろしいおそろしい terrifying; dreadful悲劇悲劇ひげき tragedy; misfortune持っていたっていた held; harbored。そうしてその悲劇のどんなに先生にとって見惨な見惨みじめな miserable; unhappy; wretched (usually みじめな)ものであるかは相手相手あいて companion; partnerの奥さんにまるで知れていなかった。奥さんはいま now; the presentでもそれを知らずにいる。先生はそれを奥さんに隠してかくして conceal死んだんだ died。先生は奥さんの幸福幸福こうふく happiness; well-being破壊する破壊はかいする destroy前に、まず自分の生命生命せいめい life; existenceを破壊してしまった。

わたくし I; meいま now; at presentこの悲劇悲劇ひげき tragedy; misfortuneについて何事も何事なにごとも (no)thing語らないかたらない won't talk of。その悲劇のためにむしろ生れ出たうまた came into beingともいえる二人二人ふたり two people恋愛恋愛れんあい love; romantic affectionsについては、先刻先刻さっき (a short time) before; just nowいった通りとおり just as ...であった。二人とも私にはほとんど何も話してはなして tell; speak (of)くれなかった。奥さんおくさん Sensei's wife慎みつつしみ modesty; discretionのために、先生先生せんせい Sensei (elder one; teacher - used here as form of address)はまたそれ以上以上いじょう beyond; more than深いふかい deep; profound理由理由りゆ reason; motiveのために。

ただ一つひとつ one (thing)私の記憶記憶きおく memory残ってのこって remainいること matter; happeningがある。或る時とき one time; on one occasion花時分はな時分じぶん when flowers are in bloom; the time of spring blossomsに私は先生といっしょに上野上野うえの Ueno (park)行ったった went (to)。そうしてそこで美しいうつくしい lovely; charming; handsome一対一対いっつい pair; couple男女男女なんにょ man and woman見たた saw彼らかれら they睦まじそうむつまじそう harmonious; affectionate (looking)寄り添ってって get close; cuddle; clingはな flowersした below; beneath歩いてあるいて walk; strollいた。場所場所ばしょ place; locationが場所なので、花よりもそちらを向いていて turn toward眼を峙だててそばだてて crane one's neck (to see); take particular notice ofいるひと people沢山沢山たくさん many; a good numberあった。

新婚の新婚しんこんの newly wed; newly married夫婦夫婦ふうふ man and wife; coupleのようだね」と先生がいった。

仲が好さそうなかさそう seemingly taken with each otherですね」と私が答えたこたえた answered; replied

先生は苦笑苦笑くしょう forced smileさえしなかった。二人の男女を視線視線しせん line of sight; field of view外にほかに outside of; apart from置くく set; placeような方角方角ほうがく direction足を向けたあしけた directed one's feet; moved (toward)。それから私にこう聞いたいた asked

きみ youこい (romantic) loveをした事がありますか」

私はないと答えた。

「恋をしたくはありませんか」

私は答えなかった。

「したくない事はないでしょう」

「ええ」

「君は今あのおとこ manおんな womanを見て、冷評しました冷評ひやかしました made light of; poked fun atね。あの冷評冷評ひやかし teasing; ribbingのうちには君が恋を求めながらもとめながら wish for; yearn for相手相手あいて partner; companion得られないられない cannot secure; cannot obtainという不快不快ふかい displeasure; discontentこえ (tone of) voice交ってまじって be mixed in; be blended withいましょう」

「そんなふう way; mannerに聞こえましたか」

「聞こえました。恋の満足満足まんぞく contentment; satisfaction味わってあじわって taste; experienceいる人はもっと暖かいあたたかい warm; genial声を出すす put forthものです。しかし……しかし君、恋は罪悪罪悪ざいあく iniquity; villainyですよ。解ってわかって understand; be aware ofいますか」

私は急にきゅうに suddenly驚かされたおどろかされた was caught off guard; was blindsided何ともなんとも (no)thing返事返事へんじ answer; replyをしなかった。

十三十三じゅうさん (part) 13

我々我々われわれ we; us群集群集ぐんしゅう crowd; throng; crushなか middle; midst (of)にいた。群集はいずれも嬉しそうなうれしそうな happy; joyfulかお faces; (facial) expressionsをしていた。そこを通り抜けてとおけて pass throughはな flowers; blossomsひと people見えないえない not visible; not seenもり woodsの中へ来るる come (to); arrive (at)までは、同じおなじ the same問題問題もんだい topic; subject口にするくちにする speak of; bring up機会機会きかい chance; opportunityがなかった。

こい (romantic) love罪悪罪悪ざいあく iniquity; villainyですか」とわたくし I; meがそのとき time; moment突然突然とつぜん suddenly聞いたいた asked

「罪悪です。たしかに」と答えたこたえた replied; answered時の先生先生せんせい Sensei (elder one; teacher - used here as form of address)語気語気ごき tone of voice; manner of speakingまえ earlier; beforeと同じように強かったつよかった was strong; ; was forceful; was emphatic

「なぜですか」

「なぜだか今にいまに soon; soon enough解りますわかります understand; come to know。今にじゃない、もう解っているはずです。あなたのこころ heart; spirit; soulはとっくのむかし long agoからすでに恋で動いてうごいて shift; stir; operateいるじゃありませんか」

私は一応一応いちおう once (over); for good measure自分の自分じぶんの one's own胸の中むねなか within one's breast; one's inner feelings調べて調しらべて examine; search見た。けれどもそこは案外に案外あんがいに contrary to expectation空虚空虚くうきょ empty; vacantであった。思いあたるおもいあたる come to mindようなものは何にもなんにも (no)thingなかった。

「私の胸の中にこれという目的物目的物もくてきぶつ objective; object of desire一つひとつ one (thing)もありません。私は先生に何も隠してかくして hide; conceal; hold backはいないつもりです」

「目的物がないから動くのです。あれば落ち付けるける calm down; settle oneselfだろうと思っておもって think; consider動きたくなるのです」

「今それほど動いちゃいません」

「あなたは物足りない物足ものたりない unsatisfied; unfulfilled結果結果けっか (as a) result; consequence私のところ place; residence; homeに動いて来たじゃありませんか」

「それはそうかも知れませんかもれません it may be that ...。しかしそれは恋とは違いますちがいます different; separate

「恋に上るのぼる climb; ascend (toward)楷段楷段かいだん stairs; stairway (usually 階段かいだん)なんです。異性異性いせい the opposite sex抱き合うう embrace順序として順序じゅんじょとして on the way to; in preparation for、まず同性同性どうせい same sexの私の所へ動いて来たのです」

「私には二つのものふたつのもの the two things全くまったく entirely; completely性質性質せいしつ nature; disposition異にしてことにして differ (in)いるように思われます」

「いや同じです。私はおとこ manとしてどうしてもあなたに満足満足まんぞく satisfaction; contentment与えられないあたえられない cannot give; cannot impart (to)人間人間にんげん personなのです。それから、ある特別の特別とくべつの special; peculiar; extraordinary事情事情じじょう circumstances; situationがあって、なおさらあなたに満足を与えられないでいるのです。私は実際実際じっさい really; in truthお気の毒どく unfortunate; a shame (for someone)に思っています。あなたが私からよそへ動いて行くく go (to)のは仕方がない仕方しかたがない cannot be helped; must inevitably come to pass。私はむしろそれを希望して希望きぼうして hope; wish (for)いるのです。しかし……」

私は変にへんに strangely悲しくなったかなしくなった felt sorrowful; became downhearted

わたくし I; me先生先生せんせい Sensei (elder one; teacher - used here as form of address)から離れて行くはなれてく distance oneself; move away (from)ようにお思いになればおもいになれば if (you) think ...仕方がありません仕方しかたがありません cannot be helped; is out of one's handsが、私にそんな inclination起ったおこった occurredこと act; instanceはまだありません」

先生は私の言葉言葉ことば words耳を貸さなかったみみさなかった paid no heed (to)

「しかし気を付けないといけないけないといけない (you) must be careful; must watch yourselfこい (romantic) love罪悪罪悪ざいあく iniquity; villainyなんだから。私のところ place; residence; homeでは満足満足まんぞく contentment; satisfaction得られないられない cannot get; cannot obtain代りにかわりに while ...; in return for ...危険危険きけん danger; peril; riskもないが、――きみ you (used here as form of address)黒いくろい black長いながい longかみ hair; locks縛られたしばられた be tied; be bound (with)とき time; instance; occasion心持心持こころもち feeling知ってって know; understand; be familiar withいますか」

私は想像で想像そうぞうで in one's mind; conceptually知っていた。しかし事実事実じじつ fact; realityとしては知らなかった。いずれにしても先生のいう罪悪という意味意味いみ meaning; significance朦朧として朦朧もうろうとして dim; hazy; vagueよく解らなかったわからなかった did not understand; couldn't graspその上そのうえ on top of that; moreover私は少しすこし a little; a bit不愉快不愉快ふゆかい uncomfortable; ill at easeになった。

「先生、罪悪という意味をもっと判然判然はっきり clearly; plainlyいって聞かしていってかして explain下さいください please ...。それでなければこの問題問題もんだい subject; topicをここで切り上げてげて drop; let go; bring to an end下さい。私自身自身じしん oneself; personallyに罪悪という意味が判然解るまで」

悪いわるい wrong; unjust事をした。私はあなたに真実真実まこと truth; reality話してはなして tell; explain; relateいる気でいた。ところが実際は実際じっさいは in fact; in the end、あなたを焦慮して焦慮じらして tease; toy with; string along (usually らして)いたのだ。私は悪い事をした」

先生と私とは博物館博物館はくぶつかん museumうら back sideから鶯渓鶯渓うぐいすだに Uguisudani (place name)方角方角ほうがく direction静かなしずかな quiet; calm; leisurely歩調歩調ほちょう pace; cadence歩いて行ったあるいてった walked on; strolled furtherかき fence; hedge隙間隙間すきま intervals; gapsから広いひろい wide; expansiveにわ garden一部一部いちぶ (one) part of茂るしげる grow thickly熊笹熊笹くまざさ bamboo grass幽邃幽邃ゆうすい solitary; quiet and secluded見えたえた appeared

「君は私がなぜ毎月毎月まいげつ each month雑司ヶ谷雑司ヶ谷ぞうしがや Zōshigaya (place name)墓地墓地ぼち cemetery埋っているうまっている be buried友人友人ゆうじん friendはか grave; gravesite参るまいる go to; visitのか知っていますか」

先生のこの問いい question全くまったく completely; entirely突然突然とつぜん unexpected; out of the blueであった。しかも先生は私がこの問いに対してたいして with respect to; regarding答えられないこたえられない cannot answerという事もよく承知していた承知しょうちしていた was aware。私はしばらく返事返事へんじ reply; responseをしなかった。すると先生は始めてはじめて for the first time; at last; finally気が付いたいた realized; took noticeようにこういった。

「また悪い事をいった。焦慮せるのが悪いと思って、説明しようとする説明せつめいしようとする try to explainと、その説明がまたあなたを焦慮せるような結果結果けっか result; outcomeになる。どうも仕方がない。この問題はこれで止めましょうめましょう let's dispense with。とにかく恋は罪悪ですよ、よござんすか。そうして神聖な神聖しんせいな sacred; divineものですよ」

私には先生のはなし talk; speechがますます解らなくなった。しかし先生はそれぎり恋を口にしなかったくちにしなかった made no mention; said nothing (of)

十四十四じゅうし (part) 14

年の若いとしわかい few in years; youngわたくし I; meはややともすると一図一図いちず earnest; intense; passionateになりやすかった。少なくともすくなくとも at least先生先生せんせい Sensei (elder one; teacher - used here as form of address) eyesにはそう映ってうつって be reflected; appearいたらしい。私には学校学校がっこう school講義講義こうぎ lecturesよりも先生の談話談話だんわ talk; conversationほう alternative (of two things)有益有益ゆうえき beneficial; of valueなのであった。教授教授きょうじゅ professors意見意見いけん opinions; points of viewよりも先生の思想思想しそう thoughts; ideasの方が有難い有難ありがたい welcome; appreciatedのであった。とどの詰まりをいえばとどのまりをいえば at the end of the day; after all is said and done教壇教壇きょうだん platform; stage (for teaching or lecturing)立ってって stand (on)私を指導して指導しどうして guide; instructくれる偉いえらい distinguished; esteemed人々人々ひとびと persons; menよりもただ独りを守ってひとまもって keep to oneself多くおおく much; a lot語らないかたらない not speak; not talk of; not mention先生の方が偉く見えたえた appeared; seemedのであった。

「あんまり逆上ちゃ逆上のぼせちゃ be (over)enthusiastic towardいけません」と先生がいった。

覚めためた collected; composed; rational結果結果けっか result; outcome (of)としてそう思うおもう think; considerんです」と答えたこたえた answered; repliedとき time; occasionの私には充分の充分じゅうぶんの sufficient; adequate自信自信じしん confidenceがあった。その自信を先生は肯がってうけがって accept; give affirmation toくれなかった。

「あなたはねつ enthusiasm; zeal浮かされてかされて be carried away withいるのです。熱がさめると厭になりますいやになります be disaffected toward; tire of。私はいま now; at presentのあなたからそれほどに思われるのを、苦しく感じてくるしくかんじて feel strain; feel distressいます。しかしこれからさき ahead; in the futureのあなたに起るべきおこるべき must (inevitably) occur変化変化へんか change; transition予想して予想よそうして think of; anticipate見ると、なお苦しくなります」

「私はそれほど軽薄軽薄けいはく superficial; fickle; undependableに思われているんですか。それほど不信用不信用ふしんよう untrustworthyなんですか」

「私はお気の毒どく unfortunate; sorry (for someone)に思うのです」

「気の毒だが信用されない信用しんようされない not trustとおっしゃるんですか」

先生は迷惑そうに迷惑めいわくそうに (appearing) troubled; vexedにわ gardenほう direction向いたいた turned (toward)。その庭に、この間までこのあいだまで until recently重そうなおもそうな heavy (looking); laden赤いあかい red強いつよい strong; intenseいろ colorぽたぽた点じてぽたぽたてんじて drop in splotchesいた椿椿つばき camelliaはな flowersはもう一つもひとつも (not) one見えなかった。先生は座敷座敷ざしき living room; parlorからこの椿の花をよく眺めるながめる view; look at; gaze onくせ tendency; penchantがあった。

「信用しないって、特にとくに particularly; especiallyあなたを信用しないんじゃない。人間人間にんげん human beings; humanity全体全体ぜんたい in full; in entiretyを信用しないんです」

その時生垣生垣いけがき hedge向うむこう far side金魚売り金魚きんぎょり goldfish seller; goldfish vendorらしいこえ voice; callがした。その外にほかに apart from; besides何のなんの (no)thing聞こえるこえる be audible; be heardものもなかった。大通り大通おおどおり broad street; main thoroughfareから二丁二丁にちょう 2 chō (about 220 meters; about 240 yards)深くふかく deeply折れ込んだんだ tucked; nestled (into)小路小路こうじ lane; side street存外存外ぞんがい more than expected静かしずか quiet; stillであった。うち houseなか insideいつもの通りいつものとおり as alwaysひっそりしていた。私は次のつぎの next; adjacent room奥さんおくさん Sensei's wifeのいること fact; reality知っていたっていた knew; was aware of黙ってだまって in silence針仕事はり仕事しごと needlework; sewing何かなにか somethingしている奥さんのみみ earsに私の話し声はなごえ voice (in conversation)が聞こえるという事も知っていた。しかし私は全くまったく utterly; completelyそれを忘れてわすれて forget; put out of one's mindしまった。

「じゃ奥さんおくさん (your) wife信用なさらない信用しんようなさらない distrustんですか」と先生先生せんせい Sensei (elder one; teacher - used here as form of address)聞いたいた asked

先生は少しすこし a little; a bit不安な不安ふあんな uncomfortable; uneasyかお face; (facial) expressionをした。そうして直接の直接ちょくせつの direct答えこたえ answer避けたけた avoided

わたくし I; me私自身わたくし自身じしん one's own selfさえ信用していないのです。つまり自分自分じぶん oneselfで自分が信用できないから、ひと (other) peopleも信用できないようになっているのです。自分を呪うのろう curse; loatheより外によりほかに other than to ...仕方がない仕方しかたがない nothing can be done; there's nothing for itのです」

「そうむずかしく考えればかんがえれば consider; regard; view (as)誰だってだれだって anyone; whosoever確かなたしかな reliable; trustworthyものはないでしょう」

「いや考えたんじゃない。やったんです。やったあと after驚いたおどろいた was shocked; was taken abackんです。そうして非常に非常ひじょうに extremely; exceedingly怖くなったこわくなった was appalled; was horrifiedんです」

私はもう少しさき ahead; further onまで同じおなじ the sameみち avenue; path辿って行きたかった辿たどってきたかった wanted to follow; wanted to pursue。するとふすま fusuma (sliding screen)かげ other sideで「あなた、あなた」という奥さんのこえ voice二度二度にど two times; twice聞こえた。先生は二度目二度目にどめ second timeに「何だいなんだい yes; what is it」といった。奥さんは「ちょっと」と先生を次のつぎの adjacent; adjoining room呼んだんだ called; summoned (to)二人二人ふたり two (people)の間にあいだに between ...どんな用事用事ようじ business; affair; matter起ったおこった took place; transpiredのか、私には解らなかったわからなかった was not known。それを想像する想像そうぞうする imagine; guess at余裕余裕よゆう leeway; leisure; time (to do something)与えないあたえない not provide; not impart toほど早くはやく soon; quickly先生はまた座敷座敷ざしき living room; parlor帰って来たかえってた returned (to)

「とにかくあまり私を信用してはいけませんよ。今にいまに soon; before long後悔する後悔こうかいする regret; be sorryから。そうして自分が欺かれたあざむかれた deceived; deluded返報返報へんぽう requital; retaliatory actionに、残酷な残酷ざんこくな harsh; cold-hearted復讐復讐ふくしゅう retribution; reprisalをするようになるものだから」

「そりゃどういう意味意味いみ meaning; implicationですか」

「かつてはその人の膝の前ひざまえ before one (lit: in front of the knees of one who is seated)跪いたひざまずいた kneeled (before); showed deference (to)という記憶記憶きおく memoryが、今度今度こんど now; this timeはその人のあたま headうえ top of足を載せさせようあしせさせよう rest one's feet on; step onとするのです。私は未来未来みらい future (times)侮辱侮辱ぶじょく contempt; scorn; disdain受けないけない not receive; not be subjected toために、今の尊敬尊敬そんけい respect; adoration; honor斥けたいと思うしりぞけたいとおもう seek to repel; wish to drive awayのです。私は今より一層一層いっそう still more; even more淋しいさびしい lonely; forsaken未来の私を我慢する我慢がまんする bear; endure代りにかわりに instead of; rather than、淋しい今の私を我慢したいのです。自由自由じゆう (personal) freedom独立独立どくりつ independence; self-sufficiency己れおのれ self; egoに充ちたちた filled with; having in abundance現代現代げんだい modern age生れたうまれた born (into)我々我々われわれ we; usは、その犠牲犠牲ぎせい sacrifice; offering; recompenseとしてみんなこの淋しみを味わわなくてはならないあじわわなくてはならない must taste; must experienceでしょう」

私はこういう覚悟覚悟かくご resolution; resignationをもっている先生に対してたいして against; as counter to、いうべき言葉言葉ことば words知らなかったらなかった did not know (of)

十五十五じゅうご (part) 15

その後その thereafterわたくし I; me奥さんおくさん Sensei's wifeかお face見るる seeたびに気になったになった felt concern先生先生せんせい Sensei (elder one; teacher - used here as form of address)は奥さんに対してたいして with respect to; regarding始終始終しじゅう alwaysこういう態度態度たいど attitude; demeanor出るる approach; engageのだろうか。もしそうだとすれば、奥さんはそれで満足満足まんぞく satisfaction; acceptabilityなのだろうか。

奥さんの様子様子ようす appearanceは満足とも不満足不満足ふまんぞく dissatisfaction; displeasureとも極めようがなかっためようがなかった was difficult to conclude; could not be determined。私はそれほど近くちかく up close; intimately奥さんに接触する接触せっしょくする contact; interact with機会機会きかい chance; opportunityがなかったから。それから奥さんは私に会うう see; meetたびに尋常尋常じんじょう usual; ordinaryであったから。最後に最後さいごに finally; further先生のいるせき occasion of sitting together; gatheringでなければ私と奥さんとは滅多に顔を合せなかった滅多めったかおあわせなかった rarely saw each other; seldom interactedから。

私の疑惑疑惑ぎわく doubt; misgivingsはまだその上そのうえ on top of that; beyond thatにもあった。先生の人間人間にんげん human beings; humanityに対するこの覚悟覚悟かくご resolution; resignationはどこから来るる come; originate (from)のだろうか。ただ冷たいつめたい cold; detached; unfeeling eyes自分自分じぶん oneself内省したり内省ないせいしたり introspect現代現代げんだい the modern age観察したり観察かんさつしたり observeした結果結果けっか result; consequenceなのだろうか。先生は坐ってすわって sit考えるかんがえる contemplate; ponderたち quality; natureひと person; manであった。先生のあたま head; mindさえあれば、こういう態度は坐って世の中なか the worldを考えていても自然と自然しぜんと naturally; in due course出て来るる take shape; emergeものだろうか。私にはそうばかりとは思えなかったおもえなかった could not imagine ...。先生の覚悟は生きたきた living; animate覚悟らしかった。 fire焼けてけて be burned (by)冷却し切った冷却れいきゃくった (fully) cooled; extinguished石造石造せきぞう built of stone家屋家屋かおく house; building輪廓輪廓りんかく contours; outline; silhouetteとは違ってちがって differ (from)いた。私の眼に映ずるえいずる be reflected先生はたしかに思想家思想家しそうか thinkerであった。けれどもその思想家の纏め上げたまとげた compiled; brought together主義主義しゅぎ doctrine; principlesうら under surface; reverse sideには、強いつよい strong; potent; powerful事実事実じじつ reality; truth織り込まれているまれている be intertwined; be incorporatedらしかった。自分と切り離されたはなされた detached; cut loose他人他人たにん other people; othersの事実でなくって、自分自身自分じぶん自身じしん one's own self; one's very self痛切に痛切つうせつに keenly; acutely味わったあじわった tasted; experienced事実、 blood熱くなったりあつくなったり grow hot; burn; boilみゃく pulse; heartbeat止まったりまったり stop; ceaseするほどの事実が、畳み込まれてたたまれて be folded inいるらしかった。

これは私のむね bosom; heart推測する推測すいそくする surmise; conjectureがものはない。先生自身すでにそうだと告白して告白こくはくして confess; acknowledgeいた。ただその告白が雲の峯くもみね ramparts in the sky (lit: clouds that appear like mountain peaks)のようであった。私の頭の上に正体正体しょうたい true form; true nature知れないれない unknown; indiscernible恐ろしいおそろしい frightening; dreadful; ominousものを蔽い被せたおおかぶせた cover; suspend (over)。そうしてなぜそれが恐ろしいか私にも解らなかったわからなかった wasn't clear。告白はぼうとしていた。それでいて明らかにあきらかに clearly; undoubtedly私の神経を震わせた神経しんけいふるわせた set one's nerves on edge

わたくし I; me先生先生せんせい Sensei (elder one; teacher - used here as form of address)のこの人生観人生観じんせいかん outlook on life; worldview基点基点きてん origin; basisに、或るる a certain強烈な強烈きょうれつな strong; intense恋愛恋愛れんあい love; romantic affections事件事件じけん affair; episode仮定して仮定かていして assume; supposeみた。(無論無論むろん of course先生と奥さんおくさん Sensei's wifeの間あいだ between ...起ったおこった occurred; took place; happened)。先生がかつてこい (romantic) love罪悪罪悪ざいあく iniquity; villainyだといったこと fact; realityから照らし合せて見るらしあわせてる look at (something) in light ofと、多少多少たしょう somewhat; to some degreeそれが手掛り手掛てがかり trail; track; clueにもなった。しかし先生は現にげんに in actuality; in fact奥さんを愛してあいして love; care deeply forいると私に告げたげた told; informed; revealed。すると二人二人ふたり two (people)の恋からこんな厭世厭世えんせい pessimism; weariness with lifeに近いちかい resembling ...覚悟覚悟かくご resolution; resignation出ようよう appear; emergeはずがなかった。「かつてはその人のまえ before; in front of跪いたひざまずいた kneeled (before); showed deference (to)という記憶記憶きおく memoryが、今度今度こんど now; this timeはその人のあたま headうえ top of足を載せさせようあしせさせよう rest one's feet on; step onとする」といった先生の言葉言葉ことば wordsは、現代現代げんだい the modern age一般一般いっぱん in general誰彼誰彼たれかれ anyone and everyoneについて用いられるもちいられる be used; be appliedべきで、先生と奥さんの間には当てはまらないてはまらない not apply toもののようでもあった。

雑司ヶ谷雑司ヶ谷ぞうしがや Zōshigaya (place name)にあるだれ whoだか分らないわからない don't knowひと personはか grave; gravesite、――これも私の記憶に時々時々ときどき at times; from time to time動いたうごいた moved; worked; operated。私はそれが先生と深いふかい deep; profound縁故縁故えんこ relation; connectionのある墓だという事を知っていたっていた knew; was aware。先生の生活生活せいかつ everyday life近づきつつありながらちかづきつつありながら while approaching; while drawing near to、近づく事のできない私は、先生の頭の中あたまなか mindにある生命生命いのち life; existence断片断片だんぺん fragmentとして、その墓を私の頭の中にも受け入れたれた accepted; received。けれども私に取ってわたくしって to me; for meその墓は全くまったく entirely; completely死んだんだ dead; lifelessものであった。二人の間にある生命のとびら door開けるける openかぎ keyにはならなかった。むしろ二人の間に立ってって stand自由の自由じゆうの free; unobstructed往来往来おうらい coming and going; passage妨げるさまたげる hinder; prevent魔物魔物まもの demon; apparitionのようであった。

そうこうしているうちに、私はまた奥さんと差し向いむかい face to faceはなし talk; conversationをしなければならない時機時機じき opportunity; occasion来たた came; arrived。そのころ time (of the year); season days詰って行くつまってく grow shorterせわしないせわしない restless; hurried; harriedあき autumnに、誰も注意を惹かれる注意ちゅういかれる draw one's attention; attract one's notice肌寒肌寒はださむ autumn chill季節季節きせつ season; time of yearであった。先生の附近附近ふきん neighborhood; environs盗難盗難とうなん burglary; theft罹ったかかった fell victim toものが三、四日さん四日よっか three or four days続いてつづいて in succession出た。盗難はいずれも宵の口よいくち early evening; nightfallであった。大したたいした important; of valueものを持って行かれたってかれた have takenうち house; householdはほとんどなかったけれども、はいられたところ place; homeでは必ずかならず invariably; without exception何かなにか something取られたられた was taken。奥さんは気味をわるくした気味きみをわるくした was on edge; was uncomfortable。そこへ先生があるばん evening家を空けなければならないうちけなければならない have to leave home事情事情じじょう situation; circumstancesができてきた。先生と同郷同郷どうきょう same home town; same home province友人友人ゆうじん friend地方地方ちほう countryside; rural area病院病院びょういん hospital奉職して奉職ほうしょくして serve at; hold a post atいるものが上京した上京じょうきょうした came (up) to the capital (Tōkyō)ため、先生は外のほかの other二、三名三名さんめい several gentlemenと共にともに together with; along with、ある所でその友人に飯を食わせなければならなくなっためしわせなければならなくなった had to take to dinner。先生はわけ reasons; situation; circumstances話してはなして relate; explain、私に帰ってくるかえってくる return; come homeあいだ period; interval (of time)までの留守番留守番るすばん watching the house; holding the fort頼んだたのんだ asked; requested (something of someone)。私はすぐ引き受けたけた agreed; acquiesced; took on (a task)

十六十六じゅうろく (part) 16

わたくし I; me行ったった went; arrivedのはまだ lights点くく be lit; be lightedか点かない暮れ方がた evening; nightfallであったが、几帳面な几帳面きちょうめんな meticulous; punctual先生先生せんせい Sensei (elder one; teacher - used here as form of address)はもううち house; homeにいなかった。「時間時間じかん (appointed) time後れるおくれる be late (for)悪いわるい unacceptable; unbecomingって、つい今しがたついいましがた just now; but a moment ago出掛けました出掛でかけました set out; left」といった奥さんおくさん Sensei's wifeは、私を先生の書斎書斎しょさい study案内した案内あんないした guided; led

書斎には洋机洋机テーブル table; desk椅子椅子いす chairの外にほかに in addition to沢山の沢山たくさんの many; numerous書物書物しょもつ books美しいうつくしい beautiful; fine; handsome背皮背皮せがわ spine of a leather-bound book並べてならべて line up; arrange; put in order硝子越に硝子ガラスごしに through the glass電燈の光電燈でんとうひかり electric light照らされてらされて be illuminatedいた。奥さんは火鉢火鉢ひばち hibachi; brazierまえ front of敷いたいた spread; laid out座蒲団座蒲団ざぶとん seating cushionうえ top ofへ私を坐らせてすわらせて have (someone) sit、「ちっとそこいらにあるほん booksでも読んでんで read; look atいて下さいください please ...」と断ってことわって excuse oneself出て行ったった went out; left。私はちょうど主人主人しゅじん master (of the house)帰りかえり return待ち受けるける await; wait onきゃく visitor; guestのような feelingがして済まなかったまなかった felt awkward; felt out of place。私は畏まったかしこまった formal; respectful; stiffまま烟草を飲んで烟草タバコんで smoke; have a smokeいた。奥さんが茶の間ちゃ hearth room何かなにか something下女下女げじょ maidservant話してはなして say (to)いるこえ voice聞こえたこえた was audible; could be heard。書斎は茶の間の縁側縁側えんがわ veranda突き当ってあたって follow to its end折れ曲ったまがった turned (a corner)かど cornerにあるので、棟の位置むね位置いち floor planからいうと、座敷座敷ざしき sitting room; parlorよりもかえって掛け離れたはなれた remote; removed; isolated静かさしずかさ quiet; stillness領してりょうして govern; preside overいた。ひとしきりでひとしきりで after a while奥さんの話し声はなごえ voice已むむ cease; come to an endと、あと afterはしんとした。私は泥棒泥棒どろぼう burglarを待ち受けるような心持心持こころもち mood; feelingで、凝としながらじっとしながら remain still気をどこかに配ったをどこかにくばった kept watch; maintained one's vigilance

三十分三十分さんじゅっぷん thirty minutesほどすると、奥さんがまた書斎の入口入口いりぐち entrance顔を出したかおした appeared (at); looked in (from)。「おや」といって、軽くかるく lightly; mildly驚いたおどろいた surprisedとき times; occasions eyes; lookを私に向けたけた directed toward。そうして客に来たきゃくた came as a guestひと personのように鹿爪らしく鹿爪しかつめらしく formally; solemnly控えてひかえて wait (for); awaitいる私をおかしそうに見たた looked at

「それじゃ窮屈窮屈きゅうくつ uncomfortableでしょう」

「いえ、窮屈じゃありません」

「でも退屈退屈たいくつ tedium; boredomでしょう」

「いいえ。泥棒が来るる come; appearかと思っておもって think; consider緊張して緊張きんちょうして be tense; be keyed upいるから退屈でもありません」

奥さんは hand紅茶茶碗紅茶茶碗こうちゃぢゃわん tea cup持ったった held; carriedまま、笑いながらわらいながら smiling; laughingそこに立ってって standいた。

「ここは隅っこすみっこ corner; nookだから番をするばんをする keep watchには好くありませんくありません not the best; not idealね」と私がいった。

「じゃ失礼ですが失礼しつれいですが if you'll pardon my suggesting ...もっと真中真中まんなか middle; center出て来てて come out (to)頂戴頂戴ちょうだい please ...; why not ...。ご退屈だろうと思って、お茶を入れてちゃれて make tea持って来たんですが、茶の間で宜しければよろしければ if you don't mindあちらで上げますげます serveから」

わたくし I; me奥さんおくさん Sensei's wife後に尾いてあといて follow after書斎書斎しょさい study出たた left茶の間ちゃ hearth roomには綺麗な綺麗きれいな handsome; splendid長火鉢長火鉢ながひばち rectangular brazier鉄瓶鉄瓶てつびん iron kettle鳴ってって singいた。私はそこでちゃ tea菓子菓子かし sweets; refreshmentsご馳走になった馳走ちそうになった was treated to ...。奥さんは寝られないられない be unable to sleepといけないといって、茶碗茶碗ちゃわん teacup手を触れなかったれなかった did not touch

先生先生せんせい Sensei (elder one; teacher - used here as form of address)はやっぱり時々時々ときどき occasionally; from time to timeこんなかい party; gatheringお出掛けになる出掛でかけになる go out (to)んですか」

「いいえ滅多に滅多めったに seldom; rarely出たた go out事はありませんことはありません does not ...近頃近頃ちかごろ recently; of late段々段々だんだん gradually人の顔を見るひとかおる see people; meet with othersのが嫌いきらい not to one's likingになるようです」

こういった奥さんの様子様子ようす appearance; lookに、別段別段べつだん particularly; especially困ったこまった troubled; botheredものだというふう air; manner見えなかったえなかった did not appear; was not apparentので、私はつい大胆になった大胆だいたんになった felt emboldened

「それじゃ奥さんだけが例外例外れいがい exceptionなんですか」

「いいえ私も嫌われてきらわれて be dislikedいる一人一人ひとり one (person)なんです」

「そりゃうそ not trueです」と私がいった。「奥さん自身自身じしん yourself嘘と知りながらりながら knowing (that)そうおっしゃるんでしょう」

「なぜ」

「私にいわせると、奥さんが好きになったきになった became fond of; grew close toから世間世間せけん society; the worldが嫌いになるんですもの」

「あなたは学問学問がくもん study; learningをするかた person; individualだけあって、なかなかお上手上手じょうず skilled (in speaking); eloquent ね。空っぽなからっぽな empty; vacant; hollow理屈理屈りくつ theory; reason使いこなす使つかいこなす manage; master (the use of)事が。世の中が嫌いになったから、私までも嫌いになったんだともいわれるじゃありませんか。それと同なじおんなじ the same理屈で」

両方とも両方りょうほうとも the two; bothいわれる事はいわれますが、この場合はこの場合ばあいは in this case; in this instance私のほう alternative (of two choices)正しいただしい correctのです」

議論議論ぎろん argument; debateはいやよ。よく男の方おとこかた men; gentlemenは議論だけなさるのね、面白そうに面白おもしろそうに vigorously; in good spirit空のからの emptyさかずき saké cupsでよくああ飽きずにきずに without tiring of献酬献酬けんしゅう exchanging cups of sakéができると思いますおもいます it's a wonder that ...わ」

奥さんの言葉言葉ことば words少しすこし a little; a bit手痛かった手痛てひどかった were severe; were harsh (usually 手酷てひどかった)。しかしその言葉の耳障耳障みみざわり impact; effectからいうと、決してけっして by (no) means猛烈な猛烈もうれつな violent; vehementものではなかった。自分自分じぶん oneself頭脳頭脳ずのう brains; intellectのある事を相手相手あいて the other party認めさせてみとめさせて force to recognize; force to accept、そこに一種の一種いっしゅの a certain kind of誇りほこり pride見出す見出みいだす find; discoverほどに奥さんは現代的現代的げんだいてき modernでなかった。奥さんはそれよりもっとそこ bottom; depthsの方に沈んだしずんだ be submerged; lie sunkenこころ heart; spirit大事にして大事だいじにして place importance inいるらしく見えた。

十七十七じゅうしち (part) 17

わたくし I; meはまだそのあと afterにいうべきこと things; mattersをもっていた。けれども奥さんおくさん Sensei's wifeから徒らいたずら amusement; idle activity議論議論ぎろん argument; debate仕掛ける仕掛しかける start; instigateおとこ manのように取られてられて be taken (for)困るこまる be troubled; be in a bind思っておもって think; consider遠慮した遠慮えんりょした held off; refrained。奥さんは飲み干したした finished drinking紅茶茶碗紅茶茶碗こうちゃぢゃわん tea cupそこ bottom覗いてのぞいて peer into黙ってだまって remain silent; keep quietいる私を外らさないらさない not put off; keep engagedように、「もう一杯一杯いっぱい one cup; one cupful上げましょうげましょう shall I give youか」と聞いたいた asked。私はすぐ茶碗茶碗ちゃわん tea cupを奥さんの hand渡したわたした passed (to)

「いくつ? 一つひとつ one (thing)? 二ッつふたッつ two (things)?」

妙なみょうな odd; unusual; curiousもので角砂糖角砂糖かくざとう sugar cubeつまみ上げたつまみげた picked up (by pinching)奥さんは、私のかお face見てて look at、茶碗のなか inside入れるれる put into砂糖砂糖さとう sugarかず numberを聞いた。奥さんの態度態度たいど attitude; mannerは私に媚びるびる fawn on; curry favor withというほどではなかったけれども、先刻の先刻さっきの previous強いつよい strong; intense言葉言葉ことば words力めてつとめて making an effort打ち消そうとするそうとする try to negate; work to undo愛嬌愛嬌あいきょう charm; warmth充ちてちて be filled (with)いた。

私は黙って茶を飲んだ。飲んでしまっても黙っていた。

「あなた大変大変たいへん very much; greatly黙り込んじまっただまんじまった grow reticent; sink into silenceのね」と奥さんがいった。

何かなにか somethingいうとまた議論を仕掛けるなんて、叱り付けられそうしかけられそう be scolded; be rebukedですから」と私は答えたこたえた replied; answered

「まさか」と奥さんが再びふたたび two times; twiceいった。

二人二人ふたり two (people)はそれを緒口緒口いとくち start; beginning; opening (usually いとぐち)にまたはなし talk; conversation始めたはじめた started。そうしてまた二人に共通な共通きょうつうな common; shared興味興味きょうみ interestのある先生先生せんせい Sensei (elder one; teacher - used here as form of address)問題問題もんだい subject; topicにした。

「奥さん、先刻の続きつづき continuationをもう少しすこし a little; a bitいわせて下さいませんかくださいませんか won't you ...; would you ...。奥さんには空なからな empty; hollow理屈理屈りくつ theory; reasonと聞こえるかも知れませんかもれません it may be that ...が、私はそんな上の空うわそら abstraction; idle diversionでいってる事じゃないんだから」

「じゃおっしゃい」

いま now; soon奥さんが急にきゅうに suddenlyいなくなったとしたら、先生は現在の現在げんざいの current; present通りとおり just as生きてきて live; get by; carry onいられるでしょうか」

「そりゃ分らないわからない don't know; can't sayわ、あなた。そんな事、先生に聞いて見るより外によりほかに other than to ...仕方がない仕方しかたがない have no recourse (but to)じゃありませんか。私のところ place持って来るってる bring to問題じゃないわ」

「奥さん、私は真面目真面目まじめ serious; earnest; sincereですよ。だから逃げちゃげちゃ duck; dodge; evadeいけません。正直に正直しょうじきに honestly答えなくっちゃ」

「正直よ。正直にいって私には分らないのよ」

じゃ奥さんおくさん Sensei's wife (used here as form of address)先生先生せんせい Sensei (elder one; teacher - used here as form of address)をどのくらい愛してあいして loveいらっしゃるんですか。これは先生に聞くく askよりむしろ奥さんに伺ってうかがって inquireいい質問質問しつもん questionですから、あなたに伺います」

何もなにも (no)thingそんな事そんなこと such a thing開き直ってひらなおって boldly; directly; in brazen manner聞かなくっても好いい good; fineじゃありませんか」

真面目くさって真面目まじめくさって in all earnestness; seriously聞くがものはないがものはない there's no need to ...分り切ってるわかってる is obvious; is evidentとおっしゃるんですか」

「まあそうよ」

「そのくらい先生に忠実な忠実ちゅうじつな dedicated; devoted (to)あなたが急にきゅうに suddenlyいなくなったら、先生はどうなるんでしょう。世の中なか the world; societyのどっちを向いていて turn to; turn toward面白そうでない面白おもしろそうでない seems to take no interest先生は、あなたが急にいなくなったらあと afterでどうなるでしょう。先生から見てて see; view (from)じゃない。あなたから見てですよ。あなたから見て、先生は幸福になる幸福こうふくになる be happyでしょうか、不幸になる不幸ふこうになる be unhappyでしょうか」

「そりゃ私から見れば分ってわかって knowいます。(先生はそう思っておもって think; believeいないかも知れませんかもれません it may be that ...が)。先生は私を離れればはなれれば if separated from不幸になるだけです。あるいは生きていられないきていられない can't go on livingかも知れませんよ。そういうと、己惚己惚おのぼれ pretension; conceit (usually 己惚うぬぼれ)になるようですが、私はいま now; at present先生を人間人間にんげん human beingとしてできるだけ幸福にしているんだと信じてしんじて believeいますわ。どんなひと person; individualがあっても私ほど先生を幸福にできるものはないとまで思い込んでおもんで be convinced of; be of the belief thatいますわ。それだからこうして落ち付いていて be quiet; be subdued; exist in harmonyいられるんです」

「その信念信念しんねん faith; convictionが先生のこころ heart; soul好くく favorably映るうつる be reflectedはずだと私は思いますが」

「それは別問題別問題べつもんだい separate topic; another matterですわ」

「やっぱり先生から嫌われてきらわれて be disliked; be out of favor withいるとおっしゃるんですか」

「私は嫌われてるとは思いません。嫌われるわけ reasonがないんですもの。しかし先生は世間世間せけん the world; societyが嫌いなんでしょう。世間というより近頃では近頃ちかごろでは recently; of late人間が嫌いになっているんでしょう。だからその人間の一人一人いちにん one personとして、私も好かれるかれる be cherished; be lovedはずがないじゃありませんか」

奥さんの嫌われているという意味意味いみ meaningがやっと私に呑み込めためた was understandable; was comprehensible

十八十八じゅうはち (part) 18

わたくし I; me奥さんおくさん Sensei's wife理解力理解力りかいりょく insight; perception感心した感心かんしんした was impressed (by)。奥さんの態度態度たいど manner; behavior旧式旧式きゅうしき old style日本日本にほん Japanおんな womanらしくないところも私の注意注意ちゅうい attention; interest一種の一種いっしゅの a certain kind of刺戟刺戟しげき excitement; exhilaration与えたあたえた imparted; gave (to)。それで奥さんはそのころ time流行り始めた流行はやはじめた were coming into vogueいわゆる新しいあたらしい new; modern言葉言葉ことば wordsなどはほとんど使わなかった使つかわなかった did not use

私は女というものに深いふかい deep; involved交際交際つきあい company; friendship; associationをした経験経験けいけん experienceのない迂闊な迂闊うかつな inattentive; heedless; imprudent青年青年せいねん young manであった。おとこ manとしての私は、異性異性いせい the opposite sexに対するたいする regarding; with respect to本能本能ほんのう instinctから、憧憬憧憬どうけい longing; aspiration目的物目的物もくてきぶつ object; aimとして常につねに at all times; constantly女を夢みてゆめみて dream (of); muse (over)いた。けれどもそれは懐かしいなつかしい endearing; enchanting春の雲はるくも cloud floating in the spring sky眺めるながめる gaze atような心持心持こころもち feeling; sensationで、ただ漠然と漠然ばくぜんと vaguely; indistinctly夢みていたに過ぎなかったぎなかった was nothing more than ...。だから実際の実際じっさいの real; actual女のまえ front of出るる appearと、私の感情感情かんじょう feelings; sentiments突然突然とつぜん suddenly変るかわる change; shiftこと case; instance時々時々ときどき sometimesあった。私は自分自分じぶん oneselfの前に現われたあらわれた appeared女のために引き付けられるけられる be charmed; be attracted代りにかわりに instead of; rather thanその場に臨んでそののぞんで in that situation; under those circumstancesかえって変なへんな odd; strange反撥力反撥力はんぱつりょく repulsion感じたかんじた felt; experienced。奥さんに対した私にはそんな feeling; inclinationがまるで出なかった。普通普通ふつう ordinarily男女男女なんにょ a man and a womanの間あいだ between ...横たわるよこたわる stretch (between); lie in wait思想思想しそう thoughts; ideology不平均不平均ふへいきん imbalance; asymmetryという考えかんがえ consideration; awarenessもほとんど起らなかったおこらなかった did not arise; did not occur。私は奥さんの女であるという事を忘れたわすれた forgot; put out of one's mind; was not conscious of。私はただ誠実なる誠実せいじつなる sincere; honest; faithful先生先生せんせい Sensei (elder one; teacher - used here as form of address)批評家批評家ひひょうか critic; analyst; commentatorおよび同情家同情家どうじょうか sympathetic observerとして奥さんを眺めた。

「奥さん、私がこの前なぜ先生が世間的に世間的せけんてきに publicly; with respect to the outside worldもっと活動活動かつどう endeavor; effort; engagementなさらないのだろうといって、あなたに聞いたいた askedとき time; occasionに、あなたはおっしゃった事がありますね。もと formerly; beforeはああじゃなかったんだって」

「ええいいました。実際あんなじゃなかったんですもの」

「どんなだったんですか」

「あなたの希望なさる希望きぼうなさる desire; wish (for)ような、また私の希望するような頼もしいたのもしい hopeful; promisingひと person; manだったんです」

「それがどうして急にきゅうに suddenly; abruptly変化なすった変化へんかなすった changedんですか」

「急にじゃありません、段々段々だんだん gradually; little by littleああなって来たなってた becameのよ」

「奥さんはその間そのあいだ during that time始終始終しじゅう continually; constantly先生といっしょにいらしったんでしょう」

無論無論むろん of courseいましたわ。夫婦夫婦ふうふ husband and wifeですもの」

「じゃ先生がそう変って行かれるかわってかれる undergo a change源因源因げんいん cause; reason (usually 原因げんいん)がちゃんと解るわかる know; be aware ofべきはずですがね」

「それだから困るこまる be troubled; be concernedのよ。あなたからそういわれると実にじつに really; in truth辛いつらい hard; difficult; painfulんですが、わたくし I; meにはどう考えてかんがえて consider; contemplateも、考えようがないんですもの。私はいま now; the presentまで何遍何遍なんべん how many timesあの人あのひと that man; himに、どうぞ打ち明けてけて speak one's mind; open one's heart下さいください please ...って頼んで見たたのんでた tried asking分りゃしませんわかりゃしません don't know

先生先生せんせい Sensei (elder one; teacher - used here as form of address)は何とおっしゃるんですか」

「何にもいうこと things; mattersはない、何にも心配する心配しんぱいする worry; be concerned事はない、おれはこういう性質性質せいしつ nature; dispositionになったんだからというだけで、取り合ってって engage with; talk toくれないんです」

私は黙ってだまって remain silentいた。奥さんおくさん Sensei's wife言葉言葉ことば words途切らした途切とぎらした broke off; stopped; discontinued下女部屋下女げじょ部屋べや maidservant's quartersにいる下女はことりとも音をさせなかったことりともおとをさせなかった made not a sound。私はまるで泥棒泥棒どろぼう burglarの事を忘れてわすれて forgetしまった。

「あなたは私に責任責任せきにん responsibilityがあるんだと思っておもって thinkやしませんか」と突然突然とつぜん suddenly; abruptly奥さんが聞いたいた asked

「いいえ」と私が答えたこたえた replied; answered

「どうぞ隠さずにかくさずに without concealing; candidly; openlyいって下さい。そう思われるのは body; flesh切られるられる be cutより辛いんだから」と奥さんがまたいった。「これでも私は先生のためにできるだけの事はしているつもりなんです」

「そりゃ先生もそう認めてみとめて acknowledge; recognizeいられるんだから、大丈夫です大丈夫だいじょうぶです not to worryご安心なさい安心あんしんなさい rest assured、私が保証します保証ほしょうします attest; swear (to)

奥さんは火鉢火鉢ひばち hibachi; brazierはい ashes掻き馴らしたらした rake smooth; level (usually ならした)。それから水注水注みずさし water vessel (usually 水注みずつぎ)の水を鉄瓶鉄瓶てつびん iron kettle注したした poured。鉄瓶は忽ちたちまち immediately鳴りり ringing; sound沈めたしずめた calmed; quieted

「私はとうとう辛防し切れなくなって辛防しんぼうれなくなって no longer able to take it; unable to persevere、先生に聞きました。私に悪いわるい at fault; in the wrongところ point; aspectがあるなら遠慮なく遠慮えんりょなく without reservation; freely; franklyいって下さい、改められるあらためられる can make right; can improve欠点欠点けってん flaw; weakness; shortcomingなら改めるからって、すると先生は、お前まえ youに欠点なんかありゃしない、欠点はおれのほう alternative (of two things)にあるだけだというんです。そういわれると、私悲しくなって仕様がないかなしくなって仕様しようがない become hopelessly despondentんです、涙が出てなみだて came to tearsなおの事自分自分じぶん oneselfの悪い所が聞きたくなるんです」

奥さんは eyesうち in; withinに涙をいっぱい溜めためた amassed; accumulated